全速力で駆ける私の足元で水溜まりが踊る。合皮とは言えどそれなりの値段がした黒いブーツは、既に泥まみれだ。四方八方が木々でおおわれた森で動き回るのは自殺行為。解ってはいるが、身を守るには走るしかなかった。
 小さな枝に引っ掛けた頬からは恐らく血が出ているのだろう。触って確認する暇すら惜しいから実際はどうか知らない。でも駆ける私の身を、切り裂くような風圧が、傷口を挟って痛い気がするのだ。
 これではまた、帰ってから悟くんに「弱っちぃ」と言われるのだろう。あれから私も随分努力して、強くなった。独学と御家の作法だけではどうにもならないことを高専で知ることが出来た。それだけでも大きな収穫であり、家出した甲斐があるというもの。
 だからこそこんな1級呪霊相手に逃げ回っている必要はない。ようやく見つけた倒木の隙間に身を隠す。少し向こうの方で呪霊が陰り声をあげている。
「空腹に負けてトンカツなんて食べるんじゃなかったな」
 走りすぎて胃のあたりがグルグルしてきた。この後自身に起こる確定事項を思うと、さらに気分が悪くなる。
 ふ、と息を吐いた私を慰めるかのように、空は泣いた。ああ、これはいい。私が吐き出す全てを、流してくれと願うばかりだ。
 頭上に影が差す。大馬鹿者だが、愛しき馬鹿だな。虎穴にわざわざ潜り込んできてくれるとは。
 吊り上がる口角を今更隠すつもりもない。雨に濡れた前髪が少々鬱陶しいが、私は素早く印を結んだ。
「『忘却ノ棺』」
 閃光が散る。その瞬間、呪霊はチェーンの外れたチェーンソーのように、がたがたと歪に暴れ狂ってから静かに崩れ落ちた。
 辺り一面に広がっていた呪力の気配が皆無になる。しかし空が泣き止む気配はない。ここが何処かもいまいちわからないまま、制服のポケットから携帯を取り出す。あーあ、圏外だ。
 しかしなぜ、人は無意味と知りながらも、電波を探して携帯を頭の上で振りかざすのだろうね。
 その場をクルクルと周りながら携帯と踊っているかのような私の姿は、さぞ滑稽なことだろう。他人様には見せられないな。
「おや、社交ダンスの練習かな?付き合おうか?」
「……今のは忘れてほしいね、夏油くん」
 冗談だよ、と快活に夏油くんは笑いながら道を指す。どうやら道を知っているらしい。しかし私は帰れるという安心を他所に、今日の任務は1人ではなかったことを冷静に思い出していた。現場に乗り込んでから割と早い段階で二手に別れたものだから、すっかり忘れていたのだ。
 戦況報告を交わす間、ちらりと夏油くんを見やる。傷1つない綺麗な身なりで素晴らしいことだ。木の葉と傷と泥まみれの私とは、文字通り雲泥の差。流石だね。
「それにしてもやっぱり苗字さんが普通の女子高生として過ごしてた期間があったなんて、なかなかに度しがたいね」
「なんで?」
「呪力を強制的に消滅させる術式なんて、他の呪術師が喉から手が出るほど欲しい呪術だと思うから」
 忘却之棺。鷺ノ森家が秘蔵し、この術式の会得が幽奠を継ぐための必須条件。任意の対象の呪力を強制的に消滅させる。術師の技量次第では奪う量や期間の調整も可能な、所謂チート級の代物。それなりに、代償はある。
「奪う度に吐蕩するんだから……プラマイで言ったら、マイナ…」
 マイナス、とまでは言葉が続かなかった。今日は結構耐えた方だ。鳩尾あたりから迫り上がる生臭い塊たちが、無理矢理に涙腺を緩ませる。反射的にすぐ側にあった大木の根元に、その嫌悪すべきソレをぶちまけた。肩で息をして、グラグラする焦点を定めようとするその間にも、食道を焼くようなソレが鼻腔を嫌に刺激してやまない。
 雨はいい。吐鴻物を流し、私の鳴咽をかき消してくれる。生理的に流れてしまう涙も、気にしないい。
 夏油くんは優しいので、そんな私から背を向けて、全てが終わるのを待ってくれている。これが悟くんなら、こうはいかない。その長い脚で、先に行ってしまうはずだ。そもそも森で迷った私を探してくれたりも、しないのだろうけど。
「はやく、慣れなきゃ……」
「慣れで、どうにかなるものなのかい?」
「わからない………」
 先代、先々代の幽質とは何度か謁見したことがあるが、このような話は聞かなかった。くだらない武勇伝は、腐るほど聞かされたが。もし皆が慣れでこの術を習得したのだとしたら、まだ希望はある。
 が、それを口にすることは私の身の上を晒すことにしかならない。故に、わからない、としか言えない。
「ごめん、夏油くん、もう大丈夫」
「私にはあまりそうは見えないけど」
 たしかに、口の中は頗る気持ち悪いし、もう1度くらい吐ける気もする。しかしこれ以上待たせるのも申し訳ない。体内の水分が足りなくなっているのか、ぴりぴりと手足の先が癖れてきた。それでも、雨を凌ぐ方法を持たない私たちは、一刻も早くこの森を出るべきだと思うのだ。じっとりと濡れて重くなった髪が、不快度を増す。
 ああ、また胃のあたりが渦巻いている。
「わかった」
「なにが」
 私の問いに夏油くんが答えるが早いか、私は突然の浮遊感に声も出なかった。
「……呪霊操術:…」
「歩くのもつらいだろうし、始めからこうしたら良かったね」
 私が汚した大木も、深い水たまりも、全てがぐんぐんと遠のいていく。ふらふらの私が落ちないようにだろうか、それほど高度は上がらなかったが、普段決して見ることができない高さでの移動には、つい吐き気を忘れた。
「……いつかこの副作用みたいな吐き気を乗り越えられたら、私も最強になれるかな」
「目標は高い方がいいしね、私は応援してるよ」
「悟くんには、せいぜい『最凶』だろ、って言われたんだけどね。酷いよね」
「うん、酷いね」
 あながち間違いでもないけど。
「ところでさ、苗字さん」
「ん?」
「いつから悟を名前で呼ぶようになったの?」
「ん…?」
 今そういう感じの話をしてたか?
 脈絡のない夏油くんからのクエスチョンに、私は思わず流れゆく景色を眺めてしまった。少し前まで五条くん呼びだっただろ、という事実でしかないことを突きつけられる。うん、その通りだけれども。
「え、あー、硝子ちゃんを名前呼びしてたら、ずるい俺も名前で呼べってごねられたので、?」
「……じゃあ私もごねたら名前で呼んでくれるのかい?」
「夏油くんがごねてる姿?怖いな」
 君も大概酷いね、と夏油くんは言って、雨でビシャビシャになってしまった前髪を手で避けた。
 森の終わりが見える。空飛ぶ絨毯ってこんな感じなのかもしれないな、と馬鹿げた空想をしたところで補助監督の車も見つけた。
 いつの間にか吐き気はなくなっていた。これが、関係の無い話をして気を紛らわせると、いう作戦だったのなら、夏油くんの勝ちだ。別に戦ってたわけじゃないけど。
「帰ったらすぐお風呂入ろ……」
「髪の毛はちゃんと乾かすんだよ。風邪ひくから」
「お母さんみたいなこと言うね、傑くんは」
 私の母はそんなこと言わなかったけれど、きっと夏油くんの…傑くんのお母さんならそう言いそうだと、私はそう思う。奪うばかりの私ではあるが、ここにいる限りは誰かに何かを与えられるような、そんな根拠の無い希望を見出してしまう。
「こんな大きな子供を持った覚えはないよ、名前」
「じゃあ小さな子供なら…?」
「君、ちょっと悟に似てきたね」
「うわぁぁ、傷ついた!」
「ははは」
 膨蒼とした森に降り注いだ雨は、もう、やんでいた。

草木の養分となりて、花

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