それは木曜日の夜、風呂上りの時のことだった。
 濡れた髪を拭くのもそこそこに、1人用のソファに身を沈める。取引先のクソ共が、納期間近になって仕様変更を依頼してきた、今日の昼2時を思い出す。依頼を受ける側のこちらが文句を言えるわけもないが、できるだけ分厚いオブラートに包んで「それは無理だ」とは伝えた。しかしなんだあの言い草は。お客様は須らく神様だと思うな、と腹の底から怒鳴ってやりたかったが、私も自分の立場は惜しい。社内の各部署に頭を下げる覚悟をつけて「かしこまりました」と声を絞り出した。
「世が世なら闇討ちしてやるのに」
「物騒なことを仰いますね」
受話器をこれでもかとゆっくり下した後の私の悪態に、他人事のように笑った部下のキンブリーには今度雑用を押し付けるとしよう。しかし、彼は彼なりに私を気の毒に思ったのだろう。割と食べ応えのありそうな大きさのクッキーをくれた。別部署のハボックが実家から大量に送られてきたから、と我が部署に差し入れてくれた菓子の一つだった。
 明日からはあのクソ依頼を猛スピードで片付るための社内調整が待っている。あまりに憂鬱だ。華金なんて夢のまた夢になるに違いない。
 深い溜息を洩らしたとき、携帯が震えた。メッセージが届いている。たった一言、友人から。
『明日の夜、暇か』
 用件はわからない。既読はつけたものの、返答に困る。彼、に限って、私に面倒ごとを投げかけようとはしないだろうが。
 どう返事をするのが正解かと考えあぐねている私に、催促するかのように彼は、誰の影響を受けたのか全く分からない可愛らしいキャラクターが小首をかしげたスタンプを送ってくる。どこかで見たことあるキャラクターだ、と記憶を辿れば、今年の新入社員が「このキャラ好きなんですよ」とニコニコと教えてくれたことを思い出した。
「恋人の趣味か…?いや、恋人がいるのに私に誘いをかけるか…?いや、すでに別れている…とか」
 疲労困憊の脳みそでは正しい判断ができない。彼の恋人の邪魔になるようなことはしたくないのだ。存在するかどうかも不明であったとしても。
『久々に飯でもどうだ』
 返事をしない私に痺れを切らしたらしい彼が、ついに用件を提示した。始めからそうしてくれ、というのは独り言に留めた。
『残業予定、許すまじクソ客』
『荒れてんな〜。旨い店連れていってやるから、7時には終われ』
 遠回しな断りは彼に通用しなかった。無視された、とも言えるだろう。連れていってやるから、という言葉に偽りはないと知っている。食べる量が違うから割り勘とまではいかなくても、自分が食べた分くらいは出そうとしても彼はいつも私を上手く言いくるめてしまうのだから。
 もしかしたら私の今の状況を、見抜いているのかもしれない。どうやって。そんなことはわからない。
『会社まで迎えに来てくれるなら』
『ハナからそのつもりだ』
 私の無茶ぶりにも、可愛い我儘だと嗤うかのように了承をする彼からの返信を見て、私は腹をくくった。



「おや、今日はいつもと化粧が違うのですね」
「おはよう、キンブリー。相変わらず目敏いな」
「おはようございます。まぁ、毎日貴女を見てますからね。それなりに」
 こういう会話を日常的にしているから、社内でこそこそ交際説が広まるのだ。わかってはいるものの、お互いに他意がないのだから仕方がないと言い訳をしている。
 デートですか、と言いながら差し出された珈琲はいつもより濃い。今日一日の業務予定を知っているからに違いない。部下からの労りは素直に受け取るに限る。
「私に拒否権が一切なかったから、デートと言えるかは甚だ怪しいがな」
「随分と強引な方なんですね。そういう方がタイプですか」
「自分の意思がない奴よりはましだと思う程度だ」
 それはそうですね、とキンブリーは同意をしたが、実際のところどう受け取ったのかは知らない。
 そんなことより私は夜7時までに目の前に山積みになっている問題課題、その他諸々の業務を終わらせるというタイムアタックに取り掛かることにした。



 あまりに無茶苦茶な取引先からの依頼ではあるものの、こうなったら文句の付けようがないくらい完璧に仕上げて差し上げるのが社会人というもの。社内で頭を下げまくった私があまりに気の毒に思えたのだろう、他部署からは差し入れが届いたり、いつもは頻繁にかかってくる電話の回数が控え目だったり、雑用を快く引き受けてくれたりといった気味の悪いほどの気遣いを受けた。
 あのキンブリーですら、今日一日は私宛にくる電話やメールの代理を全て引き受けてくれた。元々飛び抜けてよくできた部下なのだ。それくらい朝飯前であることを改めて見せつけられたようで、有難さの中にほんの少しだけ悔しさが滲む。
 何はともあれ、そういった気遣いのおかげで6時半にはパソコンの電源を切ることに成功した私は、半ば放心状態のままデスクを後にした。
「そんな酷く疲れた顔でデートに出向くのはお相手に失礼では」
「レディに対してその言い草の方が余程失礼だ」
「何を今更。私と貴女の仲ではないですか」
 先に退社したはずのキンブリーとエレベーターで鉢合わせをした。その手には今日貰った差し入れのチョコレート菓子。簡易な個包装を破き、白く長い指で菓子を2つに割る、その一連の動作ですらこの男は様になる。
 その片割れを私の手のひらに乗せてから、彼は言う。
「どのような、ご友人なのですか」
「何年か前にバーで出会って、気が合ったからそのまま連絡先を交換したんだ。向こうがフリーの時に、気が向けば食事をするだけの友人だ」
「…それだけですか?」
「残念だな、それだけだ」
 多くの人が勘繰るような関係は一切ない。それを残念ととるか、当然ととるかは人によりけりだろう。
 エレベーターが軽々しく鳴いて、その口を開いた。すかさず私たちは乗り込む。
 手のひらに乗せられたチョコレート菓子は、脳天をぶち抜くほどに甘かった。
「貴女に拒否権を与えず食事に誘うような方が、それだけ、ですか」
「私も”そう”思わないでもないが、彼は強欲だからね。私が”こう”であるからこそ、付き合いがあるのさ。きっとね」
 強欲を名に持つ彼の手に入ってしまえば、私は何でもなくなってしまう。私が私としての価値を保つために、必要で、失うわけにはいかない距離感なのだ。
「どんなに美しいダイヤモンドですら、紐解けば鉛筆と同じだからね」
「そうだとしても、ダイヤモンドはやはり美しいですし、価値がありますよ」
 1階のボタンを押したキンブリーの言葉は、誰、あるいは何に向けたものなのか。真意は本人にしかわからない。
 一時の浮遊感を味わって、私たちは地上に降り立つ。扉を開けるボタンを押してくれているキンブリーに礼を言いながら、先に降りる。彼の口には先程の菓子が入っているらしく、小刻みに咀嚼を繰り返していた。
「寒いですねぇ」
「寒いなぁ」
「では、私はこれで。美味しいものを食べて、ゆっくり過ごしてください」
「うん、今日は一日ありがとう。助かった」
 社の玄関前でキンブリーと別れた。
 約束の時間より少し早く出てきたからか、彼の姿はまだ見えない。もう少し社内でゆっくりしておけばよかったかもしれないが、今日はこれ以上会社に居たくなかったし、改めてキンブリーに礼を伝えられたから、良しとしよう。このくらいの寒さなら、まだ大したことではない。
 酷く疲れた顔、とキンブリーに窘められたことがそれなりに気がかりになり、私は鞄の中から鏡を取り出す。すっかり暗くなった空と、ほの明るい街灯の下、ぼんやりと鏡に映る私は、ああ、確かに酷い顔をしている。これは化粧を直したところでどうにかなるものではない。
 素直に万全の体調ではないことを伝えてリスケすればよかった、と後悔したところで、もう遅かった。
「アンタもデート前には鏡見るんだな」
「っ、グリード…」
「お疲れさん」
「居たのか」
「ここに車停めたら駐禁切られそうだったからな。向こうの方に停めて、迎えに来た」
 この男も駐禁は気にするのか。なんてことはない当たり前のことに、私は真新しさを覚える。名前も顔も、仕事も、好きなもの嫌いなもの、色々話してきてはいるが、結局のところ確信めいた会話などしたことはない。お互いに人間であることはわかっていながら、天使か悪魔か、その類の何かだと思っているかのような、そんな関わりなのだ。
 息をするかのような当然の素振りで、彼、グリードは私の手から鞄を掠め取る。もう片方の手に持っていた鏡も、次の瞬間にも彼に奪われて鞄の中に片付けられてしまった。手ぶらになってしまった私は、車の方へと誘導するグリードの後ろに大人しく着いていくことにした。
「さっきの男は?」
「さっきの…ああ、会社の部下だ。疲れた顔をしたままデートに行くのかと言われてしまった」
「へぇ」
 にや、と笑った顔でグリードが振り返る。それはそれは面白いものを見つけたと言わんばかりの表情だ。
「アンタの疲れた顔は、初めて見た」
「誘うタイミングの悪かった自分を恨むんだな。クソみたいな取引先のおかげで昨日と今日はストレスがMAXなんだ」
 苦情にも似た悪態をついたのはいいが、それはもはや八つ当たりでもあった。口に出したことをすぐさま後悔して、その「疲れた顔」と言われた顔を両の手で隠す。せめてもの抵抗、というやつだ。
 しかしグリードは、そんな私を小馬鹿にして笑う。
「アンタも人の子だったんだな、酷ぇ隈だ」
「そこまで言うなら食事はキャンセルだ、今すぐ私に睡眠を与えろ!」
「お?大胆なお誘いだな」
「勘違いするな!」
 夜道に私の吠え声が響く。それに被さるようにグリードが笑う。
「悪い悪い。いや、なんだ、アンタの元気な顔だけじゃなくて疲れた顔も見れてラッキーだったと思っただけだ」
「なんのフォローにもなってない」
「俺は強欲だからよ」
「そう言えば許されると思ってるだろ」
「アンタは優しいからなぁ」
 コインパーキングに彼の黒い車が停まっているのが見えた。電子音が彼の手元から聞こえる。清算をしてくるから先に乗っていろ、ということらしい。たぶん今なら無料の時間内だろう。
 私の知っているどんな車より重厚なドアを開けて、革張りでふかふかの助手席に座る。私がここに座ることができるのは、ここに乗る人がいない時だ。
「強欲なのはどちらの方なんだろうな」
 開いているのがつらくなった目を閉じる。そうすべきではないとわかっていながら、抗うことができないのは身体の状態のせいか、それとも―。
 運転席のドアが開く音が、もう遠くに聞こえる。エンジン音が轟いて、温かな風を感じたのが、私が覚えている最後の感覚だった。
sleep!

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