ペルセポネが戻ったとロアナプラ中で噂が立ったのは、湿気を含んだ空気が鬱陶しい夜のことだ。初めて聞く「名前」ではなかったが、未だ自分の知らないロアナプラの住人であることを、ロックはすぐに理解した。また、そのペルセポネなる人物がレヴィにとって苦手なタイプの人間であることも、彼女の表情から察した。
「そんな顔をするなレヴィ。これで張の旦那の悩みの種も1つ減る」
「ハデス様のご機嫌取りも大変だな」
 ダッチのフォローも虚しく、けっ、と乾いた笑いを吐き出してからレヴィは煙草に火を付けた。彼女の肺を経由した煙は、次第に、ラグーン商会の事務所の低い屋根を伝って外に流れ出た。
 どうやら「ペルセポネ」とやらは三合会の張に酷く信頼されているようだ。ロックは随分と昔、学校の図書室で読んだギリシャ神話を必死に思い出していた。頼った記憶が間違いなければ、その人物は女性である。
「張さんが思い悩む程の女性?まさか恋人か?」
「やめろよロック!あんな女が旦那の恋人だった日にゃ、ロアナプラは地下世界に沈んじまう!」
 がなるレヴィのせいで煙草の灰が床に散らばる。黙って灰皿を差し出すベニーすら、表情は渋い。言外にレヴィの発言を肯定しているようだった。
「ペルセポネ、と俺らが呼んでるのは愛称でな、本名はパイファ…まあこれもこういう世界で生きていくための名前でしかないだろうが」
「White flower、って意味の名前らしいが、三合会の人間らしく頭から爪先まで真っ黒な見た目でさ、夜の路地裏で遭遇したらちびるぜ、ロック」
「白い花…白花(パイファ)、か……」
 元々が日本人であるロックには自然とその文字を弾き出せた。
 レヴィやダッチが呼ぶその愛称から、その白い花の姿も。



「陰口は陰で叩くものだ、ラグーン商会」
 鈴がシャンと一鳴りしたかのような、静かで、そしてその空間いっぱいに響き渡る声が彼らの動きを制した。事務所の出入り口に立っていた人物を見て、ロックは「なるほど」と1人で頷いた。
「女王様のご無事のご帰還、なによりだな」
「レヴィ、今夜は喧嘩をしに来たわけではない」
 この女性が、先程まで噂の的だった「ペルセポネ」―――白花、張の腹心。
 女は安い革張りのソファに断りなく腰掛ける。それに対して誰も文句は言わない。決して、言えなかったわけではなさそうである。
 腰まで伸ばした黒く髪はシェンホアにもよく似ているが、彼女の持つ妖艶な色は見受けられない。中のシャツまで黒で揃えた彼女のスーツは、一切の汚れを寄せ付けずにその肢体を守っているようであった。10cmほどのハイヒールと、切れ長の瞳だけが、少々幼く見える顔の輪郭を冷ややかなものに思わせている。ふっくらとした唇に塗られた赤い口紅は、官能的と言うよりも寧ろ、彼女が踏みつけてきた血の海が如何様なものであったかを想像させた。
「では女王様、今日はどんな御用で?」
「ここに来る度、蔑称が増える…。いや、なに、大した用じゃない。張大哥が、ラグーン商会に新しいのが入ったと言うので挨拶に」
 そう言うと彼女は、彼女のためにコーヒーの入ったマグカップを机に置いたばかりのロックを見やった。コーヒーからは、煙草よりも柔らかい白色がたゆたっている。
「ど、どうも…」
「Nice to meet you,Rock.」
 血の色をした唇が緩やかに弧を描く。「ペルセポネ」と呼ばれる女の名前が指す色は、彼女自身の肌の色だった。
「ロック、あんまり女王様を直視するなよ。痛い目に遭っても知らないからな」
「人聞きの悪いことを、ベニー。木霊だけの存在にするなら口の回る君にしてやるさ」
「おお、怖い。ほら、聞いたかいロック、女王様には気をつけるんだよ」
 ベニーの軽口を鼻で笑った白花は、マグカップの温いコーヒーを啜った。
 レヴィはまだ、彼女を睨んだままだったが、その手に愛用のソード・カトラスはなかった。それが今夜の答えだった。
 
冥王ハデスの仰せのとおり

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