それは酷く暑い、乾いた晴天の夏の日だった。
 真白な病室は可もなく不可もない気温に整えられていたが、私にとっては物足りなかった。額に首、背中にも汗が流れていて、しばらくは止まりそうにない。毎日のようにニュースでは「全国的な猛暑」だと、お天気お姉さんがカンペを読み上げている。どこかの米農家が「高温障害が出て困る」と嘆いており、日本人としてそれなり米が好きな私は「それは困るなぁ」と思ったのは、つい今朝、家を出る前の話だ。
 じりじりと音が聞こえそうなくらいに街を照り付ける太陽は、カーテンのわずかな隙から病室にも割り込んできている。カーテンを閉めようが、容赦のないその光に私は思わず顔をしかめた。
 ベッドの脇に鎮座している簡素な丸椅子に座り、私はそのベッドで横になっている母に話しかけた。
「今日も一段と暑いよ、ほんと、うんざりするね」
「そうみたいね、アイライン、ちょっと落ちかけてるよ」
「え、嘘ぉ…」
 額から噴き出た汗は、いつのまにか私の化粧すら流してしまっていた。スリープ状態の真っ暗なスマホ画面に顔を写すと、たしかに落ちていた。泣いても落ちない、なんて謳い文句はどうやら誇大広告だったらしい。学業の合間で必死にバイトをして買った、少し高価なアイライナーだっただけにガッカリした。
 アイラインなんてなくてもかわいいわよ、と母は言って、不貞腐れている私の手を、スマホごと撫でた。その手は、病室のように真白で、丸椅子のパイプのように細く、そしてこの猛暑なんて幻想かと思うほどに冷たい。
「ねぇ、お母さん…」
「大丈夫、苦しまないって、先生仰ってたから」
「…そう……」
 母は、今日死ぬことにした。
 緩和ケアで死期を伸ばすことしか道が残されていない母は、今日、死ぬことになっている。
 薄情者だと思われるかもしれないが、娘である私は母のその決断を止めようとは思わなかった。私が物心つく前から入退院を繰り返し、太陽の光の下で笑う姿は数えられるくらいしか見たことのない母。どんなときも明るく、私と父に「大丈夫」と言っていた母が、その決断と共に吐き出した「もう、疲れちゃった」という弱音が、母の「母ではない部分」の本音だったのだろうと、私の心の中で鉛のように固く重く圧し掛かったからだろう。
 母の治療費と、私の学費を稼ぐために寝る暇すら惜しんで働いていた父も、私が中学に上がったと同時に、交通事故で死んだ。まだ30代も半ばで、でも職場で評価されて、ようやく昇進したと喜んでいた姿が忘れられない。
 酷い事故だった。
 泥酔状態で運転をしていた大学生がカーブを曲がり切れずに、信号待ちしていた父に真正面から突っ込んだと聞いた。幸か不幸か、即死だったので苦しむことはなかったと担当医には言われたが、ちっとも慰めになんてなりやしなかった。見ないほうがいいと、父に会わせてはもらえなかった。父方の祖父母だけが最後に父と面会したが、発狂するかのような祖母の泣き叫ぶ声が、今でも耳にこびりついて離れない。
 母が言った「疲れちゃった」という言葉は、もしかしたら自分の身体のことだけを吐露したわけではないのかもしれない。父とは大恋愛ののちに結婚したと、何度も聞かされた。娘の私では埋められない色んな感情にも、限界が来たのだろう。父が死んでから口座に振り込まれた、1桁ずつ数えなければならないような多額の保険金や賠償金も、無限ではなかった。
「お母さんらしいこと、全然できなくてごめんね」
「ううん、お母さんはずっと私のお母さんだったよ」
 友達と喧嘩した日も、テストで満点を取った日も、父が死んだと知ったあの夜も、今日だって、いつだって私の気持ちに寄り添ってくれたのは、紛れもなくこの人だった。
 授業参観に来ないでなんて言ったり、休みの日にショッピングしたり、一緒にお菓子作ったり、他の子が当たり前のようにしていることを羨まなかったわけではない。
 でも、これが私の母なのだ。
「だからね、最期に3つだけ、教えてあげたいことがあって」
「うん」
「まずは、あなたがお母さんとお父さんの、大好きな自慢の娘だってこと」
「うん」
「次に、私の人生で『やっぱり健康が一番!』ってことを学んだから、美味しいものいっぱい食べて、いっぱい寝なさいってこと」
「うん、お父さんから教わった料理、みんな美味しいから大丈夫だと思う」
「お父さんの料理美味しかったよねぇ。お母さんはハンバーグが好きだったな」
「あ、私も」
「やっぱり親子ね」
「ね」
「…でね、最後がいちばん大事なんだけど」
「うん」
「お母さんは今日の決意を絶対に後悔しないし、あなたのことを恨むなんて決してしないから、誰になんと言われても、悔やんだり落ち込んだりしないで」
「…うん」
「変な霊能力者に『あなたのお母さんはあなたを恨んでます』とか言われたら、そいつは偽物だからね」
「ははっ、なにそれ」
「お母さんは真剣なんだからね」
 私が茶化したせいで、母は拗ねた。その表情には見覚えがあった。さっき私が不貞腐れた時、同じ顔をしていたと確信している。
 あぁ、親子だなぁ。
 私の手を撫で続けている母の手は、ほんの少しだけ温もりを持っていた。
 でも私は理解している、それは、希望ではないと。
「…お父さんに会えたらいいね」
 私のその言葉に、母は少女のような顔で、にっこりと笑って静かに頷いた。
 それが最後の、最期の合図だった。
 母は穏やかに、それでいて決意に満ち満ちた声で、宣言した。
「もう心残りはありません。先生、よろしくお願いします」
「わかりました」
 そこに私の意思などない。あるのは母の意志と、1人の医師だった。
 



 母の意志が遺志になって数分が経った頃、私はようやく意識を自身に戻した。
 そして、一切の苦痛から解き放たれた母が眠る枕元に備え付けられている棚から、茶封筒を取り出す。
 父が、母が、私のためにと積み重ねてくれた貯金の全てだった。
 母を死なせるために、父のお金は使えなかった。
 父なら、母の決断を止めていただろうから。
「施術料、500万入ってます」
「どうも」
 大金を扱うことに慣れている人は、厚みだけでいくら入っているかわかるらしい。先生はそちら側の人のようだった。
「先生、本当に、ありがとうございました」
「立派なご母堂だったな」
「はい。自慢の母です。………母でした」
 そう言って気づく。
 これから全てが過去形になってゆくのだと。
 全部全部、過去に置き去りにされて、いつかは忘れていくのだろう。いつのまにか乾いてしまった、背中の汗のように。落ちない滲みだけを残して。
 アイラインはとっくに落ちてしまっているから、いくら泣いたって心配いらない。馬鹿みたいに泣いて、化粧が全部落ちてしまっても、絶対に母は「かわいいわよ」と言って私の頭を撫でてくれる。その手に実体がなくても。死後の世界などなくても。
 今だけは母の遺した全てだけを信じていたいのだ。
 
 本当に、酷い晴れの日だった。
晴天のエチュード

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