それは、とてもいい天気のことでした。



 とある日の午後、スーパーで買い物をした私を出迎えていたのは、土砂降りの雨だった。焦ることは何もない。朝のニュースで、今日の雨は知っていた。日進月歩で痒いところに手が届くようになっている現代。私が最近気に入ったのは、リュックサック型のマイバッグと、スニーカーデザインのレインブーツである。今日みたいな酷い天気の日に徒歩で買い物に来ても、落ち込む程度が低くて済む。それでも帰宅するころには濡れ鼠になっていて、家の主人に嫌そうな顔をされるけれど、ならば車の1つでも出してくれと言いたい。そんなことを言える立場ではないのは重々承知だ。
 生温い突風が傘と私の間に入り込み、切り揃えた前髪が舞い上がる。濡れないようにとお腹側で抱えたリュックサックは重い。カレーを作ろうと食材を一通り揃えたからだろうか。それとも私が食べたかっただけの羊羹だろうか。家にはまだ封を開けていないプリン(3個入り)もあるけれど、今日は羊羹が食べたかった。
 車が欲しいとは思うものの、ペーパードライバー歴が脳裏を掠める。アパートの駐輪場には学生時代にバイト代をこつこつ貯めて購入した、それなりに高価な自転車も待っている。そうやって堂々巡りをする考えは、きっともう暫く続きそうだ。
 スーパーのあった大通りを横に逸れて、住宅街へと続く道を歩く。この雨の中、歩いているのは私くらいなものだ。ようやく1台、軽自動車が後ろから私を抜かしていった。水溜まりが跳ねないように徐行はしてくれているらしいが、すでに私のジーンズは色が変わるくらいには濡れてしまっている。足下の冷えからか、無意識に鼻を啜っていた。気持ちばかりにリュックサックを抱きしめる。当然だが、温かみはない。
 辿り着くべき家まではまだ距離がある。こんな天気になることを知っていて、何故私は徒歩でスーパーに出かけたのだろうか。自分のことくらい自分でよくわかっている。こんな天気になることを知っていたからだ。何も晴天だけが喜ばしい天気ではない。
「あ、洗濯物出したままだ」
 少なくとも朝は晴れていたので、家を出るまでは外干しをしていたことを思い出した。私の失態を、家の主人はやはりまた嫌な顔をするのだろう。こればかりは受け入れるしかなさそうだ。
 とりあえず謝罪の言葉を考えながら歩く私の前から、高級そうな黒い車がやってくる。
おや、あのナンバーは知っている。
 私がそれに気付くより早いか、その車はゆっくりと私の右側に沿って停まった。
「こんな雨の中、あいつは車も出してやらないのか」
「それはいつものことですよ、ブラック・ジャック先生」
 信じられない、と顔全体が物語っている。それに私はにっこりと返答をした。するとわざとらしい溜息を吐いてから、ブラック・ジャック先生は優しい声色で言った。
「送ってやるから、乗りなさい」
「お言葉に甘えます」
 頂けるお気遣いはありがたく頂くようにしている。もちろん、相手は選んでいる。ブラック・ジャック先生は少なくとも悪い人ではない。私には。
 後部座席のドアをひいて車内に体を滑り込ませると、ほのかな温かさが私を包む。暖房は入れていないらしい。ただ、あまりに身体が冷えていたために、外との気温差でそう感じたようだった。
 ゆるやかに発進した車はすぐに信号に引っかかってしまい、車を叩きつける雨音だけが車内に響いている。座席をぬらさないようにと脚の間に傘を挟んだら、すでに濡れそぼっているジーンズから滴った雨水が靴の中に入り込んできた。不快な感覚に思わず眉を顰める。
「お前さんも運転免許持っているんだろう。あいつの車を借りればいいんじゃないのか」
「オートマ限定の免許なもんで」
「そうか…ミッション車か…」
 そういうことである。
 まぁ、免許があったとして、ペーパードライバーなことは変わらないだろう。
 またしばらくの無言の後、私が「今日はピノコちゃんは一緒じゃないんですね」と声をかけたら、今日は野暮用だったからな、と彼女が留守番をしていることを教えてくれた。一緒に行くとごねたらしいが、どうも連れて行くにはよろしくない用事だったようでなんとか宥めて出てきたとのことだった。
 ちょうど今晩はカレーだし、送っていただくお礼にブラック・ジャック先生を招こうかと思っていたがやめておいた方がよさそうだ。「奥さん」のご機嫌を損ねては、今度会ったときが怖い。
 そのあとはブラック・ジャック先生が家の主人の最近の動向をそれとなく聞いてきたが、私は「さあ、医者には守秘義務というものがあるそうなので」と返したら「そうだな」と笑っていた。
「まぁ、元気ですよ。何週間か前に、なんとかっていう紛争地帯でえらい目に遭って帰ってきましたけど」
「相変わらずだな」
 半ば諦めた様子のブラック・ジャック先生がゆっくりと左にハンドルを切った先には、もう家が見えてきていた。しかし、外に干してあった衣類の姿が見つけられず、珍しいこともあったものだと感心した。
 また私が濡れないようにと玄関の前で停車してくれたブラック・ジャック先生に深々と頭を下げ、少し待ってもらえるように伝える。ここまでしてもらって、手ぶらで帰すわけにはいかない。
 色々と物騒なのでしっかりと施錠された玄関を開け、急いでレインブーツを脱ぐ。スニーカーと比べて脱ぎづらいそれを豪快に脱ぎ散らかし、私はキッチンへ急ぐ。キッチンとつながったリビングでは、この家の主人がくつろいでいた。
「…帰ったのか、思ったより早かったな」
「はい、親切なお医者様が送ってくださったので」
 何を書いているのか、私にはさっぱりわからない医学書を読んでいたその人は、私の返事の意味をほんの1秒だけ考え、そのあとはすぐに血相を変えて玄関に向かっていった。私のせいで廊下が濡れていることに小言を言いながら。
 あれはあれでいつものことなので、私は気にせず冷蔵庫をあさる。静かに舞い降りる冷気が鼻腔を刺激した。豪快なくしゃみが3連発。しかし手は止めず、目当てのプリン(例の3個入りのやつだ)を手に取る。あとは私が自分へのご褒美に買っていた、ちょっと高めのチョコ。買ったことを忘れていて、たったいま発掘した。賞味期限は…うん、まだ大丈夫そうだ。
 綺麗な紙袋などこの家にないので、購入した医学書が入っていたらしいクラフト袋に突っ込んだ。本屋の名前が入っているが、気にせず玄関先に戻る。たしかに廊下はびちゃびちゃだった。
 私がブラック・ジャック先生の車のもとに戻った時には、すでに車の扉越しに2人は言い争っていた。近所迷惑になるし、2人とも落ち着いて自分たちの面相を思い出してほしい。警察呼ばれたら困るのはあなたたちですよ。
「文句を言う前にお前さんが車を出してやったらどうだ。こんな雨の中濡れて歩いてたら、じきに風邪をひくぞ」
「なんとかは風邪をひかんと言うだろうが」
「それ、医者が言っちゃダメでしょ。とにかくブラック・ジャック先生、ありがとうございました。これ、大したものじゃないですけど、ピノコちゃんと食べてください。」
 助手席の開いた窓から紙袋を車内に入れ込む。もらえる気遣いを断らないのはブラック・ジャック先生も同じで、すまない、と言って苦笑した。そして、ちらり、と私の横に立つ人の方を見やって、でも、何も言わずにアクセルを踏んで去っていった。ブラック・ジャック先生の車が数メートル先の曲がり角で見えなくなった瞬間、頭上から舌打ちが聞こえる。ご機嫌斜めだなぁ。
「とりあえず、廊下拭いてきます」
「それより俺に言うことがあるだろう」
「……あ、洗濯物ありがとうございました!」
 家の中に入って、すぐに私は洗面所へタオルを取りに向かう。その道すがら「一応、買い物前に取り込もうとは思ってたんです」と言い訳を口にする。洗面所に入ると、多くはない洗濯物が全てにつるされていて、ご丁寧に除湿器までかけてくれてあった。
 リビング方向に感謝の念を込めて手を合わせてから、雑巾を手に取って廊下に戻った。自身が濡れたままでの拭き掃除になんの意味があるのかは甚だ疑問だ。その間もくしゃみが重なる。
「…ひとまず先に風呂に入れ」
 リビングから顔を覗かせて家の主人は、呆れた様子で私に言う。
「晩御飯の支度が、」
「まだ夕方だ、急がん」
「でも、」
「法外な金額で風邪薬を処方されたいか」
「入ってきます」
「そうしろ」
 廊下から私を追い払うかのようなその仕草を見て、少しはブラック・ジャック先生の爪の垢を煎じて飲ませたい気持ちにかられる。そんなことを言おうものなら、明日の朝日は拝めたもんじゃない。
 着替えのストックはあっただろうか、と簡易ながらもこの家の中に与えられている私の部屋の状況を思い出している間も、私は鼻をすする。とりあえず着るものの1つや2つはあっただろうと期待をしながら部屋に向かう私の後方から、また声がかかる。
「どうせこの雨だし、今日は泊まっていくだろう」
「そうさせていただきます…」
 私の返事に納得したように頷くと、すぐにまたリビングに戻ろうとする姿を見ながら、私は1つ思い出して引き留める。
「買い物してきたものなら冷蔵庫に突っ込んだぞ」
「いや、ほんとすみません。じゃなくて、もう1つ言い忘れてたことが」
「なんだ」
「ただいま、先生」
 表情こそ「そんなことか」なんて言いたそうなものだが、育ちのいい人なので言葉にはしない。
 ただ「おかえり」と言って、なんの取柄もない私を家政婦として働かせるのだ。
「あ、今日はカレーの予定です」
「だろうな。あと、今度は芋羊羹も買ってこい」
「はーい」
 バスルームの外は、まだ土砂降りだった。
雨のワルツ

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