falling down1 | ナノ





falling down1

 えんじ色のネクタイを結び直したトビアスは、ネクタイの緩みは気の緩みだと説いていた担任オーブリーの言葉をとうとつに思い出して鼻で笑った。鏡の中で端整な顔立ちをした青年も笑う。ライトブラウンの癖毛と同じ色の瞳は長いまつげで縁取られていた。プレップスクール時代から、あまり外に出なかったせいか、青年は色白だ。
 トビアスは鏡へ近づき、色白な肌の上にそばかすができていないか確認する。醜いよりも美しいほうがいい。すでに醜い心を持っている自分は、せめて美しい容姿を維持するべきだと、トビアスは考えていた。ダークグレーの上着にはボタンが三つついている。いちばん上のボタンが取れかけていて、トビアスは慎重にボタンをボタン穴へ通した。
 学校創立以来、変わっていない制服を着崩したり、個性を出すためにボタンをつけ替えたりしただけで懲罰行きになる。ただでさえプリフェクトをまとめている最上級生のビセットには目をつけられており、ボタンが取れた制服を着ていたら、すぐに懲罰部屋へ呼び出しを食らうだろう。
 旧校舎のトイレから出て、ランチタイムでにぎわう食堂を抜ける。一昨日、ビセットから受けていた罰は、いつものように右足を木製のパドルで打たれるというものだった。十回で済んでよかったが、先週の呼び出しと合わせるとかなりの回数になる。トビアスの右足は青アザが絶えず、最近は足首に痛みが走ることもあった。それでも、ビセットの言葉を借りれば、「ケツじゃないだけまし」だと思える。あるいは、「鞭じゃないだけまし」だとも思えた。
 トビアスは食堂ではなく、寄宿舎へ戻って食事をしている。人が多いところは苦手だった。今日はすでに朝、持ち出していたパンを食べた。十四時からのスポーツの授業は芸術の授業へ変えている。昔からよく貧血で倒れていたせいか、必要以上に運動を迫られることはない。スポーツ競技のクラブへ所属している、トップクラスの華々しい生徒達を羨ましく思うが、持って生まれた体質はどうしようもなかった。
 礼拝堂の中へ入り、午後の祈りを捧げている生徒達に混じった。トビアスも椅子へ座り、祈りを捧げる。形式だけだが、学校の規律に朝と午後の礼拝は義務づけられている。トビアスは礼拝の時、目を閉じて、母親と義父、そして義兄のことを思い浮かべた。彼らにこそ罰が下ればいいと思う。
 視線を感じて目を開くと、よく授業が被るトミーがこちらを見ていた。トミーは今学期から入学してきた十三歳の生徒で、その年齢の中での成績は首位だと噂されている。そのため、すでに十五歳の生徒達が選択する授業にも出席していた。まだ背が低く、上級生と混じっての運動競技は厳しいだろうが、彼もあと数年もすればトップクラスの生徒達の仲間入りを果たすだろう。ただ、勉強ができる分、少し変わっていて、そのせいで友達が少ないということは周知の事実だった。
「水彩画のクラス?」
 目上の人間への言葉づかいは必ず敬語を使えと徹底して言われているのに、トミーは誰に対しても敬語を使わない。トビアスは彼のそういうところを気に入っていた。
「そう。君はテニスだろ」
 礼拝に来る生徒達が増えてきたため、トビアスは外へ向かう。トミーがあとを追いかけてきた。
「何で知ってるの?」
 少し頬を染め、嬉しそうに尋ねてくるトミーはトビアスにとっては弟のような存在だった。
「水彩画の教室から、テニスコートが見えるから」
「僕のプレイ、見たことある?」
「あるよ」
「ほんと?」
 スキップでもするのではないかと思うほど、トミーは小走りになりながら、声高に聞いてくる。いつも睨んでくる生徒達とすれ違いざまに、小さく暴言を吐かれた。トミーが足を止めて、「うわ、最低」と、やはり小さな声で言い返す。
 トミーがどうかは知らないが、トビアス自身は完全に孤立している。それは自ら望んだものでもあり、周囲が距離を置いている部分もあった。プレップスクールの頃からそうだった。だが、組織や団体に所属する以上は、自分がいじめの対象になることも仕方ないことだと諦めている。
 どんな世界でも上があって下がある。できれば真ん中で凡庸なまま学校生活を終えたいが、私生活が破綻している以上、無理だと分かっていた。
「トビアス、今日も見てて。僕、頑張るから」
 同年代の生徒と仲よくしろ、と助言をしているのに、トミーは自分を慕ってくれる。元気に走っていく彼を見つめながら、トビアスは溜息をついた。そのうち彼も気づいて、自分と距離を置くようになる。そう思いながら、中庭に設置された時計を見上げ、トビアスは美術室へ急いだ。

 三百年以上の伝統を誇るノースフォレスト校は学力があるだけでは入学できない。上流階級の出身か、財力があるかどうかが入学合否の基準となってくる。トビアスの義父ダレン・マクドネルは貴族院の議員であり、彼の息子エリックは外務省の官僚だった。
 ダレンは表向きはトビアスにも最高の教育を受けさせたいと、寄宿舎つきのプレップスクールへ送り込んだ。だが、自分の存在が疎ましいからだったと、トビアスは理解している。トビアスの母親は名の知れた女優であり、五十代後半のダレンは二十歳以上歳下の母親と再婚した。
 トビアスはダレンともエリックともいい関係を築けていない。幼い頃は邪魔者扱いし、今は社交界での行事やホームパーティーがあるごとに呼ばれる。見世物にされ、交渉や取引の道具として使われていることに、母親は気づいているくせに何も言わない。もっとも彼女は母親としての役割など一切果たさない女性だから、期待するほうが疲れるだけだ。

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