never let me go38 | ナノ





never let me go38

 食べていい、飲んでいい、触れていい、とディノはマリウスへ言い続けた。自分の許可はいらないと教え続けた。朝起きてから夜ベッドへ入るまで、ディノは彼に尽くした。誰かの世話をすることは考えていなかったが、ディノは今の生活に満足している。
 夕食の後片づけを終えて、マリウスの姿を確認すると、彼はソファの後ろで眠っていた。右手に握られたままの色鉛筆はオレンジ色だ。渡していた画用紙にはおそらくリスの絵が描かれていた。ディノはマリウスの体を抱える。一瞬、目を開けたマリウスだが、すぐに肩へ顔を寄せた。
 ディノは安心させるように、マリウスの頭へ頬を寄せながら歩き、メインベッドルームへ入る。ベッドへ仰向けに寝かせて、顔にかかる彼の髪を払ってやると、美しい寝顔が見えた。寝顔だけは変わらない。ディノは彼の頬へ触れ、シャツの裾をめくり、足の様子を確かめた。
 マリウスは大きいサイズのシャツとトランクスを身につけている。通気性の良いトランクスを少しずらして、ディノは火傷の状態を確認した。臀部は少し盛りあがった状態であり、太股の内側もはっきりと火傷の痕が残っていた。背中には鞭で打たれた痕があり、胸から腹、腕には切傷の痕が目立つ。唯一、顔とふくらはぎだけが彼の美しい肌の色を保持していた。
 ディノはナイトチェストの引き出しから塗り薬を取り出し、眠っているマリウスの肌へ塗り込んだ。あと一ヶ月ほどで、彼と出会った十一月になる。それが一年も前のことだと感じられなかった。艶やかな赤みがかったブラウンの髪へ手を伸ばす前に、ディノは手を洗うためバスルームへ向かう。
 脱衣所に設置された鏡の前に立ち、自分の染められていない髪へ触れた。偽造された身分証の数以上に、髪や瞳の色を変えてきた。だが、本当の自分を失くしたのは、稼業ゆえではなかった。ばかばかしくて、まともに向き合えないが、ディノは自分にも心の傷があることを理解している。それは妹が死に、父親を殺した日に起因している。
 引っかき傷程度の傷だった。今はとても大きく深い傷になっていて、ディノはその闇の中で生きてきた。
 脱衣場からバスルームへ続く扉は開いている。バスルームはリビングと同じくらいおもちゃであふれていた。楽しい場所だと教え続けた結果、マリウスはようやくバスルームで体を洗うことに抵抗しなくなった。スプーンさえ握ることができなかったのに、今は絵を描くようになった。変わらないように見えて、変わっていく。それは良い変化だった。
 メインベッドルームへ戻ったディノは、マリウスの隣へ体を横たえた。壁際の本棚には絵本が並んでいる。マリウスはまだ言葉を発しないが、絵本を読み聞かせると、内容やイラストに興味を持ってくれる。照明をしぼった後、彼の髪をなでながら、ディノは目を閉じる。

 最近見る夢は決まっていた。ディノは路地裏を駆けぬけ、嫌な音を立てる自転車を置いた店の裏までたどり着いた。息が苦しくても、とまる余裕はなかった。すぐに自転車に乗り、ペダルをこいだ。罵られても振り返らず、街と街をつなぐ大きな道路を走り、道沿いにあるスーパーの裏へまわり込んだ。
 下着の中へ手を入れて、観光客から盗んだ財布を取り出した。現金だけを抜き、財布は駐車場の植え込みへ捨てた。今日は幸運だ。ディノは紙幣を数えて、それを丸めてゴムでとめた。酒乱の父親に代わり、借金を払わなければ妹を連れていくと脅された。
 ディノは手の甲で汗を拭い、スーパーへ入った。妹のお気に入りのお菓子と数日分のパンを買った。自転車に乗って、家へ戻った。
 ディノは扉を開けた。父親はサッカーの試合を見ているのか、実況中継の音が聞こえてきた。玄関に近い部屋が妹とディノの部屋だ。その扉を開けたくない。
 だが、夢の中のディノは笑みを浮かべて扉を開けた。妹のお気に入りのお菓子を持って、彼女の名前を呼んだ。カーテンを閉めたままだ、と思ったのと、彼女の足の間から落ちる血を見たのは同時だった。
「……っう、ぃ、ア」
 泣き声が聞こえる。ディノは目を開けた。深いオレンジ色の照明が見えた。手首に触れる熱は、マリウスの手だった。
「あ」
 左手でつかんでいたマリウスの髪を放す。指の間に彼の髪が残った。
「マリウス」
 ディノは慌てて起き上がり、泣いている彼を抱き締める。
「ごめん」
 無意識とはいえ、彼の髪をつかんで引っ張っていた。もう一度謝ると、マリウスはまだ涙を流しながら、うかがうようにこちらを見た。
「おまえが悪いわけじゃない。俺のせいだ。本当にごめんな」
 頷くことはなかったが、マリウスは自分で涙を拭き、目を閉じた。ナイトチェストの上のデジタル時計は午前四時を示している。ディノは照明を消し、腕の中にいる彼の背中をなでた。眠りたくない。ディノはデジタル時計の数字を見つめ続けた。


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