エウロパのうみ19 | ナノ





エウロパのうみ19

 二十八階のボタンを押した時、時和は無意識のうちに一階のボタンも押し直した。今さら一階を押しても、目的の階に着くまでは引き返せない。だから、二十八階に到着したら、そのまま降りずに帰ろうかとも考えた。その考えが実現できないのは、自分の弱さではない。目の前に立っている善のせいだ。
「来てくれて、嬉しいよ」
 善は心からそう思っているようで、美しい笑みを浮かべた。木曜がだめなら、日曜はどうかと聞かれて、時和は今年最後の休みを彼と過ごすことに決めた。電話がかかってきた時は、自己嫌悪に陥り、まともに考えることなどできなかった。善は数少ない友人の一人だと言えるのに、彼の好意を利用しているだけのような気持ちになる。
 善の部屋は以前、訪れた時より、温かみが増していた。ダンボールが消え、家具が並んでいるからかもしれない。コートとマフラーを受け取った彼は、丁寧にハンガーへかけてくれた。
 初めての時と同じ飲み物をもらう。時和は久しぶりのアルコールにほほ笑んだ。オーディオセットの前でアルバムを取り出した善が、ジャズを流し始める。
「バーにいるみたいですね」
 隣に座った善に言うと、彼は、「そうだね」と頷いた。彼の視線が足元でとまったため、時和は靴下に穴でも開いているのかと思い、同じように足元を見つめる。今日はジーンズと長袖シャツにパーカーという格好だった。この部屋や彼に見合う格好をしなければ、という思いはいつの間にか消えていた。
 どうしてなのかは分かっている。上等な服を着て、知らない世界の一端を夢見なくても、欲しかったものが手に入ったからだ。携帯電話を取り出して、ストラップへ触れる。
「年越しパーティー、無理そう?」
 電話をもらった時、シフトに入っているから行けないと言っていた。時和が頷いて、謝ると、善は首を横に振る。
「仕事じゃ、仕方ないよ。付き合ってる彼って、片思いしてた人かな?」
 善はテーブルに置いてあった袋から、オリーブの入ったパックを取り出した。
「あ、オリーブ、食べられる?」
「はい、大丈夫です……あの、高校の時の同級生で」
 食べてみて、と渡された爪楊枝の先にあるオリーブを口へ入れる。まろやかな塩味は癖があり、時和は思わずもう一つ食べた。
「おいしい?」
「すごく、おいしいです」
 時和はウィスキーのクランベリージュース割を飲み、こちらを見つめる善を見返した。
「俺が初めて付き合った相手は、女性とも付き合える人でね」
 どうしてそんな話を始めるのか、という疑問より、続きを聞きたいという好奇心が勝る。時和はグラスの中身を飲みきった。
「最初は俺に興味がないって言われたんだ。でも、その後、試しで付き合ってみるって言われて、とても嬉しかった」
 用意していたショットグラスへタリスカーを注いだ善は、それを時和へ差し出した。
「好きな人だったから、彼の望むことは叶えたし、少しでも彼に良く思ってもらいたくて、何でもした。半年くらいして、彼が浮気してるって分かって別れたけど、傑作なのは、俺からすれば浮気相手の彼女が、彼女からすれば、俺が浮気相手になってて、結局、本命は向こうだったってことなんだ」
 まるで今の自分の状況のようで居心地が悪い。異性の相手には敵わないということなのだろうか。タリスカーを喉へ流し込む。時和は空のショットグラスを満たした液体をもう一度、飲みほした。
「善さん、みたいな、きれいな人、振る人いるんですか?」
 久しぶりにきついウィスキーを飲んだせいか、いつもより酔いが回っている。時和は回らなくなる舌を意識して、ゆっくりと言葉を切った。


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