インティワタナの朝の歌


 朝焼けの赤色を背に受けながら、イリスは小さな鐘を鳴らした。
 夜が明けたばかりの酒場は、がらんと静かな空気が流れている。準備中の札を外に掛けに出ようとしていた店主ギルが、扉にくっ付いた小さな鐘を鳴らして店内に入ってきたイリスを見止め、はあと溜め息を吐いて渋面をつくった。
「帰ったのか、イリス」
「ええ。何もいらないから、此処にいていい?」
「まだ夜みたいなもんだ、好きにしろ。生憎、お前のお友だちもいるしな」
 ギルは顎をしゃくってカウンターの方を示し、それから札を掛けに外へと出ていった。
 店主の定位置である、ずらりと酒瓶が並んだ広棚の向かいに設けられたカウンターには、水差しと硝子杯、そしてハーモニカが一つずつぽつんと置かれている。
 その前に座り、氷の入ったグラスの水面を指先でくるりと回している一人の女は、イリスが名前を呼ぶと同時に振り返って、そのつり目がちの黒い瞳をこちらへと向けて軽く手を上げた。
「ああ、おかえり、イリス」
「ただいま……」
 おかえり、の一言に何か胸がじんわりと温かくなるのを感じながら、イリスはハーモニカへと微笑んだ。
「何か考えごと? あんたがぼうっとしてるのはいつものことだけど」
「いつもぼうっとはしてない。……人が死ぬのは、どうして悲しいんだろうって考えてたの」
「思いっきし哲学じゃないのよ、やめてよね」
 ハーモニカは呆れたような顔をして、グラスの水を一口飲んだ。暖炉の、もう燃えさしになりかけた薪が、ばちりと音を立てて崩れ落ちる。イリスは、ハーモニカの座る席のすぐ隣に腰を下ろした。
「……聞いたわ。おやじさん≠スちが旅立っちまったんでしょう」
「知っていた? あの人たちの嵐の歌。心臓を強く叩く鼓動のような音楽を。……脈打つ、嵐」
「たぶん、あんたより詳しい。けっこう憧れだったのよ、おやじさんの奏でるバイオリンが。そうね、あんたの言う通り──脈打つ嵐のような……」
 ──昨夜、王都の酒場にて四名のトレジャーハンターの葬式があった。
 トレジャーハンターのための、葬式だ。船出とも旅立ちとも言う。それは、残された者たちにとっての、見送りの儀式に他ならない。新たな宝を探しに旅立っていく仲間たちを、酒をあおり、想い出話に花を咲かせることで、ハンターらしく笑顔で見送るのだ。そう、浪漫を愛する彼らのために、溢れんほどの物語を名乗る花束の山を持たせて。
 その花束から零れ落ちたひとひらの花びらが、今、ハーモニカの唇からイリスの手のひらへと落ちてきていた。
「だから、あなたのハーモニカは──」
「……何、嵐みたいだって言うの? ばかね、辰月の雨のようにお淑やかでしょうが」
 イリスは小さく声を立てて笑った。ハーモニカは一瞬ふてくされたような表情をすると、しかし、すぐにその顔を和らげて噴き出すように笑う。
「ね、イリス。夜、明けてる?」
「ええ、さっき」
「夜は、明けるわねぇ……」
「そうね。明ける」
 イリスは息を吐いたハーモニカの方を、その紅の瞳で見た。背後の窓からは朝焼けの光が差し込んで、二人の熱く背を照らしている。
 イリスは服の隠しから三冊の手帳を取り出して、両の手のひらで触れた。その中の一冊は自分の手記。そして残りの二冊は、片方は黒、もう片方は茶の革に包まれた手記だった。
「言葉も歌も、想いも、この中に在る。旅立った彼らが奏でた音楽も、私の中に在る」
 イリスは微かに睫毛を伏せ、心の臓の辺りを片方の手のひらで示した。
「記憶は、ここに。だけど……」
「人が死ぬのは、面白いことじゃないわね」
「もう会えないというだけなのに、どうしてかしら。生きていても会えない人はいる」
「……あんた、それって簡単なことよ」
 ハーモニカは水を飲み下すと、イリスから視線を逸らしてどこか遠くを見つめた。彼女は長く息を吐くと、イリスの方を振り返り、目を細めて笑った。
「もう会えないからでしょ、二度とは」
 それは何だか、寂しげな表情だった。
 何かを振り払うようにハーモニカはかぶりを振ると、水差しから新たな水を硝子杯に注ぎ込み、イリスへと茶化すようにして笑った。
「人が死ぬのが怖くて、この仕事はできないわよ」
「怖くない?」
「やだ、怖いに決まってるでしょ」
 ハーモニカはまた笑う。
「怖いときこそ強がって笑い飛ばす。それだってまた、トレジャーハンターの仕事でしょうが。みんな、強がんのは得意なのよ」
 イリスは唇を緩めて、ふっと微笑みながらかぶりを振った。二人とも、互いに耳が痛い。
「実際……死ぬのが怖くなければ、ハンターの仕事はできない気がする」
「──そうだな、イリス」
 ふと、低い声がイリスの耳に飛び込んできた。
「だが違う」
 それは、いつの間にか厨房の方へと引っ込んでいた店主ギルの声だった。彼の手に載った白い皿には、厚く焼いた柔らかな焼き菓子を重ねたものが鎮座している。甘く、どこか懐かしい香りが辺りに漂った。ホットケーキである。
「死ぬのが怖くなきゃ、仕事どころか生きてられねえんだよ。人ってやつはな」
 彼は言いながらその皿をイリスとハーモニカの間に置いて、木の突き匙を一つずつ彼女たちに手渡した。
 彼女たちにとって夜食とも朝食とも言えるそれを、二人はギルに礼を言いつつ半分に切り分けると、各々が嬉しそうな顔をして口に放り込んだ。特にイリスの一口は大きい。
 ほろりとほどけるというよりは、弾力のある噛み心地であるギルのホットケーキは、噛めば噛むほど口の中に優しい甘みが広がって柔らかな気持ちになる。
 ハーモニカがギルの方を振り返り、分かり易く意地の悪い顔をした。
「マスター、お菓子屋さんのが向いてるんじゃないの」
「俺もそう考えてたところだよ。そっちの方がかわいいお嬢さんを拝めるだろうしな」
「何、あたしたちじゃ不満って言うの?」
「そりゃ、じゃじゃ馬と竜巻じゃあな」
「それ、女の子に言う台詞じゃないわよ。だからマスターってもてないのね」
 朝っぱらからハーモニカとギルが何やらやり合っている横で、イリスは半分に切り分けられたホットケーキをぺろりと平らげていた。優しい甘味がすべて胃の中に収まると彼女は小さく息を吐き、ふと、背後を振り返った。
 何の飾りもない、無骨で透明な硝子窓からは今日の陽の光が入り込んでいる。少しばかり熱い朝の炎が、イリスの鮮やかな橙の髪の毛や日に焼けた頬を照らしていた。
 その中で、彼女の赤い瞳は光を吸い込んできらきらと煌めいている。太陽の光が眩しくて細めたイリスの瞳の中に、夜に架かる虹の色が立ち上がった。
「──花をね、持っていけばよかったと、そう思っていたの」
「見送り≠ノ? でも、あんたが来ただけで喜んだんじゃない? おやじさんたち、花が好きでしょう。美人っていう花が、心底ね」
「まだ、間に合うと思う?」
 イリスは、硝子を通して入り込む太陽の熱を見ている。
 夜の空気を漂わせて静かだった店内に、陽の光は朝の輝きを連れてきていた。暖炉の火は燃え尽き、店を暖めるのはもう朝陽に任せてしまったようである。部屋の中を舞う埃すら、光を浴びて黄金の色に瞬いていた。もう、夜は明けた。
 窓辺を眺めて問いかけたイリスの言葉に、ハーモニカは一瞬だけ真面目な顔をする。しかし、すぐにその表情を和らげると、カウンターの向こうに立つギルと視線をかち合わせ、そしてイリスの方を見て悪戯っぽく笑った。
「まだ夜みたいなもんよ、イリス」
「ありがとう。……辛いときこそ、人は心に歌を掲げるものね」
 ギルもカウンターを挟んだ向こうで丸椅子に腰を下ろし、頬杖をついてはイリスに向けて、煽るように余ったもう片方の手のひらをひらひらとさせた。
「ああ。歌えよ、シエラザッデ。お前の言葉で」
「それこそがあたしたちハンターにとって、旅立つ者にとって、何より輝く花束になるわ。浪漫ってやつね。そうでしょ、あたしたちの<Vエラザッデ・イリス?」
 シエラザッデ≠ニいうのは、宮廷詩人に王から贈られる、宮廷詩人だけが名乗ることを許された名前である。
 煽る二人にイリスは困ったような、しかし楽しげにも見える笑みを浮かべて振り返ると、しかしすぐに窓から零れる光の方へと身体を向け、椅子の上でこれから歌い出す者のように姿勢を正した。ギルとハーモニカには、イリスが音もなく息を吸ったのが聴こえた。

 巻き起こる 嵐の旅路 選びしは
 続く歩みが 音と成り
 歌と成っては いま道と
 その道歩むは 誰祖彼か
 我は呼ぶ 其は歌と
 我は呼ぶ 其は嵐
 脈打つ嵐 奏でる者よ
 我は見る 嵐の後を
 燃える太陽 照らす道をば……
 
 旋律もなく歌を詠むイリスの後ろで、ハーモニカが自身の楽器に指先で触れた。彼女の指先は、微かに震えていたかもしれない。
 彼女はイリスにもう一度、と掠れた声で呟くと、ハーモニカを自分の口元に当てて、静かに楽の音を奏ではじめた。
 ……それは、柔らかな音だった。
 ハーモニカは胸にこみ上げる痛みを音の上では隠すことができずに、逝ったハンターたちが奏でていた音楽のことを想い出していた。そう、嵐が呼び寄せるような、あの楽の音を。
 せり上る寂しさにつられて、彼女は自身の故郷のことを想い、太陽の光に照らされて白に輝く、緑色の草原の姿を見た。草を揺らす風は、命のにおいを宿して懐かしく何処かへと吹いてゆく。その風に乗って、町から音楽が流れてきた。ああ、これはリュートの音……
 寂しさと懐かしさ、そして切なさと愛おしさを宿したハーモニカの音色が、イリスの心臓を震わせた。彼女の喉から詩ではなく歌が零れ出し、溢れ出しては、どこか的外れな音をハーモニカの音色に絡ませていく。ただ、二人の音色は月の光のように優しく、しかし太陽の光のように熱い想いが宿っていた。
 そう、その少し不思議で、しかし懐かしい楽の音は、さながら夜空に架かる虹の薄布の揺らめきのようであったかもしれない。
 彼女たちは、気の済むまでその音楽を朝の酒場に響き渡らせると、どちらからともなくゆっくりと息を吐き、心に掲げた歌を床へと降ろした。ギルは後ろで、半ば呆れたように苦笑している。
「ねえ、明るい話題もあるのよ」
 ハーモニカを両膝の上に置いた彼女が、窓辺に向かって歌っていたイリスの横顔を見ながら言った。イリスはこちらを見ているハーモニカを振り返り、小首を傾げる。
「明るい話題?」
「友だちのハンターがね、子どもを生んだの。男の子。すっごくかわいいわよ。昨日の昼間、此処に来ててね。他のハンター仲間とお祝いしたってわけ。名前はこれから決めるっていうから、みんなでいろいろ考えたんだけど、どいつもこいつもきざな名前を考えすぎてね。ま、中々、いまいちって感じよ」
「へえ……それは素敵ね。すごく素敵。きっと、その子にぴったりな名前が見付かるわ」
「何ひとごとみたいなこと言ってんの? あんたも考えるのよ、イリス」
 イリスは微かに目を見開くと、それから少しばかり照れたようにその鮮やかな紅の瞳を細めた。口元をちょっとだけ虹色の首巻で隠すと、痒くもないだろう頬を掻いて彼女は再びちらりと窓辺の方を見る。光は、先ほどよりもまばゆい。
「……どんな天気だった?」
「え?」
「その子が生まれたとき、どんな天気だった?」
「あ──ああ、えっと、そうね……すごく天気がよかったって。珍しく雲一つない、陽の差す青空の下で、あの子は元気に大泣きしながら生まれた」
 ハーモニカのその言葉に、イリスは微笑んだ。踊る朝の光をその目に映しながら、彼女はハーモニカの方へ振り返る。
「──太陽の子ね……」
 イリスの柔らかな笑みに、ハーモニカもつられたように微笑み、そして頷いた。
「後で見に行こうか。あんまりかわいくて、あんたは泣いちゃうかもしれないけど。ほら、あんたってけっこう涙もろいじゃない?」
「そんなことない。だいじょうぶ、泣かないわ」
「どうだか。ま、童謡の一つでも歌ってやりなさいよ。うちのシエラザッデは語りはともかくとしても歌は下手くそだから、赤ちゃんが泣くか笑うか、あたしはどちらに賭けようかしらね」
「……ああ、それならぴったりな歌があるわ。きっとその子を笑顔にしてみせる、任せて」
 ハーモニカはイリスのその自信ありげなその言葉に、声を立てて笑った。
「どうだか!」
 ハーモニカのその笑顔は、どこか澄み切ったものに見えた。
 太陽の光が身体を照らす。
 夜はとうに、明けていた。

 
 ──後日、太陽の子の元を訪れたイリスは、その赤子の柔らかな頬に触れた途端にぼたぼたと涙を零して、ハーモニカとその友人夫婦をおおいに困らせたものだったが、それはまた、別のおはなし。



20170604
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