銀の双翼


 剣は折れた。
 一つしか選べぬ剣は。


*



「──もう、ついて来るな」
 工房都市〈スクイラル〉にて、イルミナスがクエルクスと話をした樹を見るともなく見つめていると、その背後から聞き慣れた、しかしいつも聞き慣れたそれよりも冷淡で平らな静寂ばかりの夜の声が彼女の耳に届く。
 イルミナスは振り返り、どこか虚ろに見えるその瞳を無理やりに細めると、聞き間違いだろうかというように微笑んだ。
「……今、何と?」
「聞こえなかったか?……足手纏いだ、もうついて来るな≠ニ言ったんだ」
 そう言ったウルグの、その瞳の冷たさにイルミナスは驚いた。
 彼は今、まっすぐにイルミナスの瞳を見据えている。
 その何もかも見透かすようなウルグの青い夜に、鷹の瞳に怯んで彼女はウルグから目を逸らす。何だか、身体中が細い針で刺されるように痛い気がした。
 普段の彼女なら拾い上げることができただろう、今一瞬、ウルグの眉間に皺が寄ったことを、微かに表情が歪んだことを、手のひらをきつく握ったことを。
 しかし今のイルミナスの瞳にその力はなく、彼女は目線を下げるばかり。
 そんなイルミナスの様子を見たウルグは、その青い瞳を一瞬瞑り、それから小さく息を吐くとイルミナスに背を向けた。
「俺は──お前に、泣くなとも、喚くなとも言ったつもりはない。そうやって、腑抜けられているよりよっぽどましだ。……君は、いつまでそうしているつもりだ? 人の面倒を見る前に、まずは自分の面倒を見ろ。
 手段は何でもいい、さっさと立ち上がれ。それができない人間に、できることなど何一つとてない。……ずっと腑抜けているつもりなら足手纏いもいいところだ、置いて往く」
 月白のローブが翻り、ウルグはそれから何も言葉を発することなく都市の何処かへと去っていった。
 イルミナスがその背を掴もうと伸ばした手は宙に取り残され、やがて力なく大気を掻き落ちる。
 彼女は腰に差している、折れた剣の柄にそっと手を触れると微かに首を左右に振り、そして、透明な棘が刺さっている重たい身体で市街の中へと歩いていった。


*



「──お嬢さん、何か失くしたのかい?」
 俯いて街を歩いていれば、まだ幼さの残る声にそう呼びかけられた。
 イルミナスがはっとして顔を上げると、そこに立っていたのは自分より幾つか下に見える、青年と呼ぶにはまだ相応しくない一人の少年だった。
 透き色にも近い淡い水色の髪はところどころ金色を含んでおり、その様子はさながら金紅石のようである。癖っぽいその髪は耳の近くで一房、三つ編みにされており、そして残りの長い髪も後ろで細く編上げられていた。
 そのようにして二つの三つ編みをもつこの少年は、そのどこか幼さの残る顔立ちから遠目に見ると少女のように見えないこともなかったが、着ている服と変わりかけている声によって少年であろうことが、今まさに判断力に欠けているイルミナスにも理解することができた。
 少年は、手に持っているたくさんの鈴の付いた短い杖を鳴らして言う。
「僕、召喚師。それで、失せ物探し=B失くした物があったら、僕が召喚してあげるよ。お代金はもらうけどね。……で、何を失くしたんだい?」
 少年は足の下が石畳ではなく、柔らかい土でできた道──単にまだ整備されていないだけである──へとイルミナスを引っ張っていき、鞄から分厚い書物を取り出す。
 それからその本の頁をぱらぱらと捲ると、さて財布かな、いや手帳かなと呟きながら土の上にその手の短い杖で小さな円を描き、その中へ何やら文様のようなものを描き足していった。
 その紋様の中に古代語を見出したイルミナスは、なるほどこれが召喚術のやり方なのだろうかと少年の描いていく紋様をぼんやりと眺めた。
「はい、準備完了。お嬢さん、さっきからだんまりだけど……そんなにたいせつなものを失くしたの?」
「失くした、のは……」
「──ああ……そういうこと」
 イルミナスの翳る表情を見て、この少年は何を悟ったのか納得したように頷き、己が地面に描いた紋様の前に座って胡坐をかいた。少しばかり首を傾げてはその灰色がかった緑色の瞳に自身の持っている杖を映し、それから片手をひらひらさせてイルミナスに声をかける。
「流石に、亡い命とかそういう類のものは召喚できないからね。当たり前、だけどさ……
 たまにいるんだよ、死んでしまったあの人を召喚術で喚んでほしいとか、病にかかって今日が関の山のあの子を助けることができる薬を召喚してほしいとか、水を無限に召喚してほしいとか、そういう無理だってみんな分かってること、わざわざ言ってくる人がさ」
「……藁にも縋る、思いなのでしょう」
「そうさ、分かってるよ。僕だって、そんな風にすごい力を持ってたら……って思うこと、たくさんある。この術でさ、死んだ人を、万病を治す薬を、溢れる水を召喚できたらどんなにいいかって。そしたら、誰も黄昏なんて怖くないじゃないか……
 でも、そんなこと、誰にだってできないんだよ。分かってるから、いつだって苦しいんだ、みんな」
 暗くなってしまった自分の声に気が付いたのか、少年はそれを振り払うように鈴の杖を少しばかり笑いながら振った。涼しげで心地好い音が心の中に転がる。
 イルミナスはふと、この少年に暮れゆく大地の片鱗を見たような気がした。
 この少年は、そうだ、この一人の少年は何を──何を抱えて生きてきたのだろう。生きているのだろう。生きて往くのだろう。
 彼もまた、何かを失ったのだろうか。
 ああ、失ったのだろう。
 今、少年の髪に、瞳に声に手のひらに黄昏の面影が見えた。胸に突き刺さった、抜け消えることはない透明な棘──
「……誰かを失ったとき、守れなかったって……きっとみんな思うんだ、守れなかった、守れなかった、自分にもっと強い力があれば……って。でも、そんなこと言ったって、もう戻らないんだよ。死んだ命は、帰ってこない……。だから、これから守るしか、これから守っていくしかないんだ。残ったたいせつなものや、出会うたいせつなものを」
 少年の言葉が透明な棘となり、イルミナスの心臓に突き刺さった。
 彼女は心の中で、そっとその棘に手を触れてみる。
 それは失ったものを想うほどに切なく、そして苦しく、哀しい痛みを宿した優しさ──そのすべてを感じながら瞼を閉じ、そしてイルミナスは訳もなく思ったのだった。
 ──これこそが、黄昏。これこそが、人の心の黄昏なのだ……
「でも、わたしには、守れないかもしれない……」
「守れるとか、守れないとかじゃないよ、きっと」
「え──」
「守りたいか、そうじゃないか……じゃ、ないかな」
 暮れゆくものを内に秘めた少年は、そう言ってまた鈴の杖を振った。
 そんな少年の言葉に触れ、イルミナスもまた自分の中に暮れゆくものがずっと、この世界に生まれたときからずっと在ったことを今、初めて知ったのだった。
 何て切なく、苦しく、哀しく、優しい痛み……
 これは誰の痛みだ。
 これは、この大地に立つ、すべての命の痛みか──心の中が夕焼けのやさしい橙に染まっては、そこに痛みの紅が水晶のように輝いて空に舞い、いつかの夜の星々となっていく。
 薄く涙が滲む瞳で、イルミナスは少年の老竹色の瞳を見た。
「……あなたは、失せ物探し≠ネのですね」
「ああ。何か、見付かった?」
「──はい。見失っていた、ものが」
「そりゃあよかった。でもまぁ、あんたは今回が初めてだからお代金はいいよ」
 イルミナスは礼を述べると、黒髪に青い瞳、白いローブを着た男を見なかったかと少年に尋ねた。少年はああ、という風に頷くとしゃんしゃんと杖を鳴らして、
「あんたの連れなんだ? あの方向、都の外へ出ていったと思うよ。最近この近くに大きな魔獣が出るって聞くけど、だいじょうぶかな。あ、恋人なら仲直りは早くした方がいいよ。些細なすれ違いが大きな溝を──」
 と言ったが、イルミナスは少年の言葉をすべて聞かずに走り出していってしまった。
 そんな彼女の背を眺め少年は口笛を吹くと、鈴を軽く一回だけ鳴らし、そして胡坐をかいたままその灰色がかった緑の瞳を細め、肩と二本の金紅石の三つ編みを揺らして面白そうに笑ったのだった。
「──勇ましいお転婆娘!」


*



 〈スクイラル〉から出てしばらく行くと、近くで獣の唸り声のようなものが聴こえてきた。
 それはイルミナスの全身を電撃のように刺激し、彼女の心臓は何か昏いものを予感して激しく脈打つ。
 イルミナスは命すべてを研ぎ澄ませると、それにより拾い上げることができた二度目の唸り声の方へ勢いよく走り出した。
「──ウルグ!」
「ルーミ?……おい待て、こいつは危険だ!」
「待ちません!」
 唸り声の正体はやはり、魔獣である。
 先ほど少年が言っていた大きな魔獣というのは、おそらくこの魔獣のことだろう。牛のような、いいや昔物語の挿絵で見た犀≠フような魔獣。
 ウルグは自身の背後にいる老婆を庇うように魔獣と距離を取った位置から、錬金術で創り出した、熱い光を放って弾ける球を相手に向かって無数に投げ付けていたが、この魔獣の身体はさながら亀の甲羅のように硬いらしい。
 魔獣はウルグに怯むことなく、一声空を裂くような声で鳴いてみせた。
「……わたしが」
「馬鹿を言うな! 君の剣は、折れただろう!」
「──そう、剣は折れた」
 確かめるように呟くとイルミナスは、老婆と、その老婆を庇うウルグの前に立ち、鞘から剣を抜いた。
 折れた、剣である。
 イルミナスはその欠けた剣の切っ先を今にもこちらをひき殺さんとしている魔獣の方へ向けると、その銀の瞳で獰猛な魔獣の瞳を見据えた。
「わたしは、イルミナス・アッキピテル。王の娘。わたしは、ルーミ・アッティラ。ただの剣士。それだけ。それがすべてだった。わたしは最初から、騎士ではなかった」
 魔獣がはたと動きを止める。
 それは、イルミナスの揺れぬ目に怯んだからだろうか。
 それとも、彼女の足元から微かに風が立ち上りはじめたからだろうか。
 いいや、魔獣の中にも在るだろう黄昏が、イルミナスの言葉に耳を傾けようと思ったからだろうか。
「騎士ごっこをしていたわたしは、一人を守ることができなかった、どちらか一つを選ぶことしかできなかった。はじめにウルグが言ったとおり、わたしの剣は見せかけだった……でも、その見せかけの剣は折れた。──折れた!」
 イルミナスは折れた剣を魔獣へ向けたまま、ゆっくりと歩いて魔獣に近付いていく。
 魔獣は黙って、イルミナスを見つめるのみ。
 最早彼女が言葉を紡ぐのは、魔獣相手にでないことは誰の目に見ても明らかだった。
 その言葉は、己に。
 その言葉は、黄昏に。
 イルミナス・アッキピテル、ルーミ・アッティラ、彼女はもう、決めたのだ。
「わたしは王の娘だ。この國を守り、そのために進むさだめがある。
 けれど、でも、わたしはただの剣士だ。守りたいものを守りたい、その心がわたしにも在る。
 進むか守るか、そのどちらかしか選ぶことができないのなら、そんなの──アウロウラ・アッキピテルの、光の王の娘ではない。
 わたしは進む、守るために。わたしは守る、進むために。わたしは信じる、わたしの選んだものすべてを、それにより失ったものすべてを、そしてわたしを。
 わたしは信じる、わたしの信じるもののために進むわたしを、わたしの信じるものを守るわたしを!」
 何処へ往くのだろう、風は。
 ──それは、未来へ。
 何を信じるのだろう、風は。
 ──それは、自分を。
 何を守りたいだろう、風は。
 ──それは、風にしか分からない。
 それでいい。
 もう、迷わない。
 風は、未来へ吹いている。
 風は、風を信じている。
 それだけでいい。
 その思いが力の対価だというように、凄まじい風がイルミナスの周りに立ち上った。
 それは微かに銀と翠を纏う、透き色に輝く風。
 魔獣もウルグも、気を抜けば地に押さえ付けられそうなほどの風──イルミナスはそれを全身に受けても、揺らぐことなく大地の上に立っていた。
 ウルグは放っておけば吹き飛ばされてしまいそうな老婆を支えながら、イルミナスの握っている、折れた剣の切っ先を見た。
 その剣はイルミナスの呼んだ風を浴びて、銀と翠に一瞬煌めく。
 それが合図だったかのように、凄まじく吹き荒れていた風は段々と治まってゆき、その銀と翠の透き色は折れた剣の切っ先へと集まっていった。
 イルミナスが剣を鋭く一振りする。
 ウルグが次に見たときには、折れた剣は最早一振りの長剣となっており、彼は目を見開いた。
 確かに未だ剣は折れたままだ。
 しかしそれは二度とは折れない剣となったのだ。
 欠けた切っ先が銀と翠の透き色を纏って、折ることなどできるはずもない、長い風の刃となったのだった。
 その折れぬ風の剣を、イルミナスが振るう。
 風が、雲を切る音がした。
 その音に魔獣は怯み、一歩退く。
 イルミナスはその風の長剣の切っ先を魔獣の鼻先へ向けると、誰にも揺るがすことができない声で叫んだ。
「黄昏!──屁理屈だと、嗤いたければ嗤えばいい! それでもわたしは、わたしの心まで、たいせつな人の心まで、おまえにくれてやる気はない!」
 この剣で、守る。
 この剣で、進む。
 この剣を、信じる。
 信じる、わたしを。
 そして、わたしが未来を選び続ける限り出会うもの、失うもの、そのすべてを信じ往く。
 ──もう、決めたのだ。
 イルミナスは二度と折れることのない剣の柄を強く握り、背後にいるだろうウルグに向かって声をかけた。
「剣を抜くのはたいせつなものを守るときだ≠ニ、いつかわたしは言いましたね」
「ああ、言った。そして俺はこう言ったな……それは、いつだ?=v
「──今=I」

 ──今、黄昏に立ち向かわん!



20160916

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