ヴォイス


 ざあざあと夜が声を上げている。
 わたり空の月、六日。ほむら葉の三十一日に蛍花の町を出てから、何日か野宿が続いていた。話に聞いていた通り、町の近くにはこれと言って村里も見当たらず、看板伝いになんとか辿り着いた旅人用の小屋も一軒目は雨漏りのため修繕中、そこから二日かけて見付けた別の小屋は大所帯の隊商が既に使用中であった。ちなみに、後者の小屋は、自分の荷物すら間借りさせてもらえないほどにぎゅうぎゅうの始末。けれども、商人の一人が此処を独占している代わりに、と言って、堅焼きのパンを一袋もくれたのは飛び跳ねそうなほどに有難い出来事だった。路銀はできるだけ節約した方がいいのだと、先月になってやっと気が付いたから。
 少しでも体温が上がればいいとパンをもぐもぐ噛み締めながら、風がびゅうびゅう唸る夜を行く。それからパンのその最後の三口分ほどを一気に口の中へと詰め込んで、舞う風を吸い込まないよう、息を止めて走り出した。
 強い向かい風のせいで中々思うように前へと進めないが、ふっと上げた視界に洋館らしき大きな建物が見える。そう遠くはない。噛んでいたパンを飲み込み、つま先をそちらへと向けた。
 そうしてしばらく歩を急がせて、どうにかこうにか建物の前に辿り着くと、しかし扉を叩く前にふと疑問に思う。そういえば、この家には明かりが灯っていない。確かに季節が移ろって夜の時間は長くなったが、それでもまだ明かりを落としきるにはいささか早い時刻な気がする。相当な早寝一家以外は。それに、今しがた駆け抜けてきた門も、館の明かりが落ちている割には開け放たれたままだった。
 背後を振り返る。庭のそこここに、土だけが盛られた植木鉢が転がっていた。庭木は手入れをされていないのだろう、そのどれもが好き放題に枝葉を茂らせ、まるで寝起き頭のようにぼさぼさとしている。辺りで自由に山を作っていた落ち葉たちが、今夜の激しい風に巻き上げられて笑い声を上げていた。同時に、庭に置かれていた古ぼけた木椅子ががたりと倒れる。舞い上がる砂埃にくしゃみを一つしながら、とにかく扉を叩こうと片手を上げれば、
 ──瞬間、扉が内側へと開け放たれ、強い風に背を押された。
 その風に思わず、館の中へと踏み入れる。背後でばたんと勢いよく扉が閉ざされたが、けれども振り返ることはしなかった。何故ならば、それよりも自分は、目の前に広がるその光景に心を奪われてしまったから。
「──星……」
 己が入り込んだ館は、誰かの家ではなく、誰のものでもない図書館だった。
 そのぐるりの壁一面には本棚がびっしりと並び、様々な背表紙の本がずらりと並んでいる。しかし本棚は図書館の中心を避けるようにすべて壁際へと寄せられ、床に積まれている本もそこで身を寄せ合っているようだった。そんな図書館の中心には、今にも壊れそうな椅子が一脚と机が一前置かれ、それぞれ等しく光を受けている。けれども外から見た通り、館の中には明かりは灯っておらず、火の点いていない燭台が床に幾つか転がっているのみだった。
 ──その光は、上から降ってきていた。
 図書館の中心に注ぐ白光を追うように見上げれば、目に映るのは満天の星空。風が強いために澄んだこんにちの夜空で、星々がさざめくようにあちらこちらで輝いている。そう──図書館の中心、その天井には、ぽっかりと大きな穴が空いていた。或いは、空いてしまったが故に、此処はこのように打ち棄てられたのか。
 服の砂埃を払うのも忘れて、空を見つめる。図書館が身に宿すこの暗がりと相まって、星がそれぞれもつ色彩すら目に映すことができるようだ。気が付けば、あんなに唸っていた風の声も、この館に入ると同時にどこか遠くへと行ってしまっていた。
「……そう、星」
 星月の明かりにつられるように一歩を踏み出せば、つと囁くような声が自分の方へと流れてきた。足を止め、視線を空から声のした方へと向ける。それはちょうど、穴の空いた天井の真下であった。
「風、踊り狂う夜。星、奏でる」
 降り注ぐ白い光を浴びて、彼女は立っていた。夜の闇に溶けるような黒い肌に、空を見上げる銀色の瞳が月に輝いている。半月型の真っ白な帽子から覗く髪の色ばかりが、燃えるような橙をしていた。言葉を紡ぐ彼女の目は瞬くこともなく夜空を見つめたまま、こちらへは向かない。
「名前、ヴォイス。ヴォイスは此処で、星の声、聴く。星が語る言葉。モノガタリ聴いて、ヴォイスたち一族、新しい星座、繋ぐ」
 自分が何かを発するよりも早く、彼女はそう言った。ヴォイスと名乗った彼女が羽織る、肩掛けの短いローブもまた、帽子と同じように真白な色をしている。身に着けているもののあちこちに星月を模したような意匠が施されていたが、その中でも最も輝きを放っているのは、やはり彼女のもつ月のような瞳だった。
「マイロウド」
「──え?」
「アナタの名前。違う?」
 ヴォイスの視線が空の星から外れ、こちらを向いた。その光を受け、光を放つような瞳が驚くほど真っ直ぐに自分の目を見ている。そんなヴォイスのまなざしから逃れることが今は許されないような気がして、視線をかち合わせたまま彼女に向かって頷いた。
「……でも、どうしてだろう?」
「ヴォイス、星の声、聴く。から」
「僕、……星、ですか?」
「アナタ、人、ね。でも、星。人、七つまでは、みんな」
 木々の葉擦れのような、さざめく星の光のような、その柔らかく掠れた囁き声で、けれども彼女ははっきりとそう言いきった。ヴォイスは自身の大きな丸い目をゆっくり瞬かせると、こちらから視線を外して椅子の背に積もっていた埃を払う。
「ヴォイス、太陽の国からやって来た。此処、昔の本棚。暗く、静か。よく、聴こえる。光が」
 言葉の一部分をつど確かめるように発して、ヴォイスは再び空を仰ぐ。こちらはと言えば、未だに扉の前で立ち止まっていたのを思い出して、彼女が立っている光の帳の元まで歩を進めた。そうして、夜空を見上げている彼女の方を見る。唇を引き結び、一心に星の瞬きを見やるヴォイスの横顔は、息が止まるほどに真剣だった。
「……アナタ、眠る? 星、見る?」
 ふと、視線を動かさずにヴォイスがそう問うた。その言葉につられるように、空を見上げる。
「じゃあ、少し……」
「そう」
「お邪魔じゃあないですか?」
「いい。マイロウド、アナタ、声が星。ヴォイス、目は空に、耳はアナタに」
 星を見る。高い空に、無数の星々がちかちかと輝いていた。そして、その中でも特に目を惹かれるのは、赤、青、黄と色付いては三つ横並びに光っている星の姿。その三つ星をじっと見つめていれば、そんなこちらの様子に気が付いたのかもしれない、ヴォイスがそっと片手の指先を空へと向ける。
「──赤、天ウサギの瞳星。青、ソラ馬の蹄星。黄、昇タカの爪星。三つ、中心、置く。周り、結ぶ。王のかんむり座」
「王のかんむり座……綺麗な星座、ですね」
「王のかんむり座、周り結ぶ星、人の喜び。称える。栄える。けれど中心、痛み、嘆き、問い」
「問い?」
「王。冠作るため、三匹、殺した。から」
 揺らぐことのない囁きの声に、けれどふと彼女の方を見た。瞳は変わらず、星の海へと向いている。空を指していたヴォイスの腕が下ろされ、胸の下でその両の手が組み合わされた。それはきっと祈りよりも強い、希うような握り方だった。
「……ヴォイス。何か、怒ってますか?」
 何故、そんな言葉が自分の口から出たのかは分からなかった。ヴォイスは自分の問いを聞き、星月の光を浴びている目をぱちりと瞬かせると、顔をこちらに向けて少しばかり首を傾げる。
「怒る? 違う。これ、……言葉、どう、言う? 恐怖。怖がる。怖い?」
「怖い?」
「きっと。ヴォイス、人は怖い。そう。苦手? 星の語る言葉、残酷。だけど、人の語る言葉、行動、もっと残酷なとき、ある」
 言って、ヴォイスは天井の穴から覗く真白い月を見上げ、今までほとんど動かなかった表情を少しだけ和らげた。小さく笑ったのだろう、その目も淡く細められている。
「アナタ、まだ星に近い。星、生まれる前の命たち。星、また生まれてくる、死んだ命たち。星、巡る。必ず。アナタ、巡った。分かる?」
 巡る。巡った。頭の中で首を傾げる。記憶の話だろうか? 記憶ならば、確かに一度失っている。前の自分は、きっともう、死んだと言っても過言ではないのだろう。それを取り戻せる気もしなければ、取り戻す気もしない。いや、と、言うより。かぶりを振る。ヴォイスへ向けて、曖昧に頷いた。
「──アナタ、聴くの、下手ね」
「えっ? す、すみません。やっぱりうるさかったですか?」
「違う。声。自分の声、聴くこと、とても難しい。難し、そう」
「自分の……声?」
「人。自分じゃない、別の人。その声、聴ける。よく聴ける。でもアナタ、自分の声、聴こえない? 聴きづらい? でも。聴こえてる? 時間、かかる。とても?」
 ヴォイスは考えるように瞼を瞑り、片手の人差し指を額へと置く。沈みゆく太陽に染められた空の色にも似たその前髪の下で、星の額飾りがちかりと輝いた。
「……だからアナタ、日記、書いてる。違う?」
 月の瞳が、夜の光を宿してこちらを見た。そのまなざしに、半ば呆然と立ち尽くしたまま、自分が書き記している旅の記録をぼんやりと思い出す。そこに延々と連ねられるのは文字の羅列、無数の書き損じ、下手くそにも程があるスケッチ──そういう、取り留めのない言葉たち。自分のそれは、とても人に読ませられるような代物ではない。けれど、それでも書かずにはいられなかったものだ。自分の中に在る、自分の。自分が、見付けた? 自分の。
「マイロウド」
 そうしてどれくらいの時間、自分は押し黙っていたのだろう。再び星空を見つめていたヴォイスが、身体ごとこちらを向いて問いかけるように名を呼んだ。はたとして彼女の方を見れば、ヴォイスはその目にほんの少しだけ憂うような光を湛えていた。
「ヴォイス、アナタの声、聴こえる。今は」
 言いながら、ヴォイスは自身の背後に置かれている椅子に座り、その眼前に在る机へ向かった。そこには広げられた大きな羊皮紙と、此処ではない何処か──おそらく、ヴォイスがやって来たという太陽の国の文字で言葉が連ねられていた。いいや、広げられているのが羊皮紙かどうかは、あまり自信がない。その紙は、光が差していなければそれと分からないほどに深い黒色に染まっていたから。夜空の光を浴びて、その漆黒に記された銀色の文字が瞬くように浮かび上がっている。
 つと、ヴォイスが卓上に置かれていた硝子のペンを取り、微かに息を吐いてこちらを向く。
「──でも、アナタのモノガタリ、ヴォイス、書き留めない。星座にできない。アナタ、マイロウド、星。だけど人。人になる。人、自分の声、自分で聴くもの。だいじょうぶ?」
 だいじょうぶ、とそう問うた彼女の眉間に皺が寄る。返答に困ってちょっと笑ったつもりだったが、自分はそんなにおかしな表情をしていたのだろうか。ヴォイスは柔くかぶりを振る。彼女が身に着けている星を模した装飾品が、そこここできらりと光った。
「アナタ、自分の声、聴きたい?」
「……それは、うん、そうですね。聴きたい。僕はいつも迷ってばかりだけど……でも、僕は僕になりたいって思います、ちゃんと」
「どうして? せっかく、透明。なのに。綺麗、なのに。そんなに」
 そう首を傾げる彼女の目は、それこそ透けて見えるほどにひどく純粋な問いの色を宿していた。そのまなざしに少しだけいたたまれなくなって、誤魔化すように小さく笑う。そうしてヴォイスからそっと視線を逸らし、手元の杖を見た。
「たぶん……それが嫌、なのかもしれない」
「人の色、綺麗じゃない、あまり。分かる? わざわざ、自ら? 不思議。ヴォイス、分からない」
「うん」
「……でも、分かった。アナタ、そう、強欲」
「うん。──それだ、きっと」
 手元で硝子のペンをくると回して、ぴしゃりとそう言い放ったヴォイスは、その言葉に頷いた自分を見てにやりと微かに口角を上げた。それがなんだか可笑しくて、こちらも口の端から笑いを零す。
「その、強欲なのは……いけない?」
「いいえ。良い。だいじょうぶ。それが人。欲が、星を人にする」
 頷いて、ヴォイスは黒い羊皮紙の前へと向き直った。そして、そこに浮かぶ銀色の煌めきたちを見やって、指先で言葉の羅列をするりと撫でる。
「そう。強欲。アナタも、ヴォイスも」
「ヴォイスも?」
「もちろん。ヴォイス、人。人、欲深い。モノガタリ欲しい。だから、星の声、聴く。違う?」
 その問いに、笑みながら緩くかぶりを振った。そうしてふと、帳を下ろすように流れた穏やかな沈黙に、そういえばと眠気が首をもたげる。ヴォイスはまた、瞬きも少なく机上の星空へと向かっていた。
「……ヴォイスは、眠らないんですか?」
「眠る。太陽、昇ったら」
「そっか。じゃあ……」
 ちらりとこちらを見たヴォイスに、自分は彼女が向き合っている羊皮紙を指差した。正しくはそこに書かれている、言葉を。
「僕に聴かせてくれませんか。その、星の物語」
「……太陽の国の言葉、アナタ、知らない。訳さないと。意味、アナタ、分からない」
「いいんです、そのままで」
「何故?」
 先ほどのような透き色のまなざしでそう問われて、けれども首を傾げる。その問いの答えを、自分は今、上手く言葉にできない。持ち合わせていなかった。思わず、痒くもない頬を掻いて彼女に笑いかけた。
「……なんでだろう?」
 ヴォイスの丸い瞳が更に丸くなって、その口が引き結ばれる。それから彼女は小さく溜め息を吐くと、かぶりを振ってこちらの目を真っ直ぐに見た。
「変ね。すごく、とても。無意味なこと」
 洩らした息に乗せるようにそう発して、彼女はペンを置いて立ち上がる。そうして彼女は机上から羊皮紙を両手で取り上げると、先ほどまで腰掛けていた椅子に向き合い、そこへ座るようにとこちらに目線で合図した。
 ヴォイスの示す通りに椅子に腰掛ければ、それと同時に彼女の橙色の睫毛がそっと伏せられる。天上から夜の光を受ける彼女の手には、今、一つの星空が乗っていた。彼女の装束が纏う澄んだ白光、夕暮れを宿す髪、夜の色をした肌、そして、瞳の月、そのすべてが手のひらの星々と一つになる気配がする。
 けれども、物語の一説を口にする前、そのためを呼吸をする少し手前で、彼女は笑った。確かな笑みを、こちらに注ぐようにして。
「──でも、それが人。アナタ、ね。マイロウド」
 彼女の言葉に、夜空を見上げる。それは、星の綺麗な夜だった。



20191103

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