ホープ


 ほむら葉の月。夜風はもう随分と冷たくなり、目に映る木々の多くはその葉の色を夏の頃とは全く異なる色彩に染め上げていた。春先に揺れていた初々しい薄緑は夏の訪れと共にいつしかくっきりとした深緑へと変わり、今では初秋の淡い黄緑も通り越して、或る葉は優しい橙へ、また或る葉は金のような黄へ、柔らかな桃へ、そして鮮やかな赤色へと移ろっている。
 宿屋の露台から見える、蛍花の町の景色は、しかし夜になっても尚他の場所と比べて明るい。それは日が落ちてから花開き、その身に光を灯すランプキャンドルという名前の花がそこここに植えられ、そしてこの町の木々には葉とそっくり同じ形をした、夜になると灯り出し、燃料切れを起こさない不思議な明かりが取り付けられているからである。なんでも、この辺りにはこれといって目立つ町村が少ないため、旅人や行商人たちの目印となるよう、この町は夜になっても明かりを絶やさない方針を随分昔から貫いているらしかった。そのため、此処ではこのように夜が深まっても優しい光をこうして目に映すことができるのだった。
 露台の柵に背を預け、宿屋の寝室と此処との出入り口をなんとはなしに眺めながら、こみ上げてきた欠伸を噛み殺す。今日こそは手記を付けてから眠ろうと思っていたのだが、けれどもここ最近はそれがひどく難しく感じるものだった。と言うのも、それは夜風に吹かれるように心許なくなってきた路銀に余裕をもたせるため、一月ほどこの宿屋の畑仕事や雑用を手伝わせてもらっている自分の体力の無さが原因であるのだが。部屋に戻るとただ単に疲労ですぐに眠ってしまうので、手記を書く時間がほとんど取れていないのだ。
 ぐっと伸びをして、肩を回す。ぼんやりとする頭に、今日もだめかもしれないな、と諦めの声がそっと響いた。
 そんな情けない自分の視界、その端にきらりと何かが輝いた気がして、そちらへと思わず顔を向ける。たぶん、空だ。流星だろうか? 星が流れて見えた方角の空をじっと見つめてみるが、しかしどれだけ眺めてみたところで星空の顔色は一向に変わる気配がなく、もしかしたら気のせいだったのかもしれないと結論を付けかける。そうして視線を空から外したところで、けれどもう一度視界の隅が光った。
 気のせいではないなと確信をして、そうだ、と露台から寝室へ戻って荷袋の中身を漁る。有るじゃあないか、自分にはとっておきの文明の利器が。偉大なる発明家の友人から贈られた、遠い空と自分を繋いでくれる硝子の目が。
 荷物の中から自分の視界を何倍にも見たいものへ近付けられるゴーグルを引っ張り出して、半ば慌てながら首へ掛ける。それからもう一度露台へと足を進め、光った空の方をゴーグルのレンズ越しに見てみた。
「う」
 急激に夜空へと近付いた景色と、手元をほんの少しでも揺らすと大げさに震える視界の繊細さにぐわんと頭と耳の奥と肺が同時に悲鳴を上げた。それでも、レンズ越しに見る空は月の表情までもはっきり見えるようである。このゴーグルを使うときにはいつも見える景色の面白さについ笑んでしまうものだったが、今回も変わらず口元が緩む感触を覚えた。
 しかし、これではおそらく空に近すぎるのだろう。もう少し引きで見られるならいいのだが──そう考えたところで、天才少年発明家である友人の抜け目ない閃きを思い出し、レンズの隣辺りに在る大きめのねじをちりちりと回してみた。そうしてみれば、近付いていた星々がゆっくり遠退いていく。このねじを回すと、自分がどれくらい遠くの景色を見たいのかを調節することができるらしいのだ。これは彼が自分が牧場から旅立つ前日に、思い付き≠ナ付けてくれたものである。やはり自分は、にやりと浮かんでくる笑みを抑えることができなかった。
 そして自分の視界は目的地へと向かっていく。何かの──一度ゴーグルを外して裸の目に戻り、光を感じた空のすぐ下の方を見た──町の中に在る、古びた高い塔の上に──再びゴーグルをかける──人がいた。見えるのは一人だけ。鮮やかな金色をした頭が見える。何やら塔のてっぺんで立ち上がり、空を指差しているようだ。瞬間、その指先がきらりと光り、何かを描いた。まさしく、先ほどの流星の正体だ。
 ゴーグルを両目から外し、それを首に引っ掛けたまま、露台から寝室へと戻る。寝台の隣に立て掛けてあった杖だけ持って借り部屋を飛び出し、そうして宿屋からも飛び出した。流星を描く人のいる塔を目指して、明るい夜をほとんど駆けるように歩を進めながら、ふと気が付く。ああ、そういえば──いつの間にか、目が覚めてしまっていたな。







 目の前にした塔の姿はもちろん低くはなかったが、しかし特筆するほど高いものでもなかった。横幅もその通りで、短くはなかったがそこまで長くもない。それは外周をすぐにぐるりと歩いて回れる程度で、数歩下がれば、塔はそのてっぺんの方までを視界に映すことができる。そのため今しがた塔の周りを一巡りしてみたところだが、不思議なことに何処にも入り口が見当たらなかった。そうして目に付くのは、塔の外側に螺旋を描くようにしては頂上まで続いている階段だったが、けれどもそれは所々の足場が欠け、とてもてっぺんまで上っていけような代物ではなかった。
 では、塔の頂上にいた人物は、どうやってそこまで辿り着いたのか?
 首を捻りながら、階段へと近付く。それから試しに足を掛け、数段上ってみる。一段、二段、三段──そう続けて上って、六段目で足を止めた。七段目と八段目の足場がすっかり欠け、そこから先の階段が目に映らなかったからである。先へ先へと続いていくはずの足場は影も形も見当たらないのに、手摺ばかりが宙に浮いたように続いているのがなんだか不自然だ。その場に留まったまま、手摺を掴んでしゃがみ込む。或いは、目に見えない階段が此処に在るのかもしれない。
「……なあんて」
 そう呟きながら、本来階段が在るべき場所へと手を伸ばして──それから思わず引っ込めた。
 感触があった。柔らかくはない。岩のように硬いというわけではないが、それでも拳で叩いてみれば多少痛みを感じるほどの硬さがある。自分が知らないだけで、階段を作るための素材にはこういった透明な種類も在るのだろうか? 目を凝らす。何も見えない。なんとなく杖の先で透明な階段を叩いてみた。橙色の球と見えない足場が軽くぶつかって、こつ、と鳴る。
 瞬間、光が音を立てた気がした。
 今まで無色透明を保っていた階段が、突如として光の輪郭を得たのだ。それは眩しいものではなく、淡く穏やかに映るものだったが、いきなり現れた光に驚いて階段から足を踏み外しそうになる。咄嗟に前に杖を突き、手摺を握り直して難を逃れては、目の前の階段をじっと見つめた。光の階段に突いた杖は、この通り安定している。そして隣には、手摺も在る。少しだけ階段から視線を外し、明かりの灯る町の方を見た。ひゅう、と風が吹く。少し溜め息を吐いて、階段の方へと目を戻した。例の如く、好奇心が勝っている。
 恐るおそる、淡い光の輪郭を保つ階段へと一歩を踏み出す。緊張で手摺を掴む力が強まり、じわりと汗が滲むのを感じた。片足を輪郭ばかりが光る、しかして未だ透明なままではある階段へと乗せ、少し力を入れる。だいじょうぶだ。ぐっと体重を掛けてみる。そのまま杖の石突で数度階段を叩いた。安定している。これなら落ちることはないだろう。もう片足も光の階段へと乗せる。だいじょうぶ。たぶん、おそらく、きっと。
 一瞬下を見ようとした顔を思わず上げて、手摺を命綱にほとんど跳ぶようにして駆け上った。先ほどより強くなった風が、今いる場所の高さを突き付けてくるようだ。どうして自分はこう後先を考えることをしないのか。もし──もし今、この階段が何かの拍子にうっかり消え失せてしまったら、自分は? 子どもでも分かる、明らかに大怪我だけでは済まないだろう。階段が消えてしまわない保証はない。だって、この光の輪郭が現れたのも突然だったのだから。
 いや、ああ、いいや考えるな!
 とにかく上だけを見て歩を急がせていれば、長く感じたこの螺旋階段の旅も目的地へと到着しつつある。それを目にした途端、集中力が段々と抜けていくのを感じ、急に足が重くなったような気がした。それなりに長い階段を駆け足で上ってきたため、その疲れが今急にどっと押し寄せてきたのだろう。流石に息も跳ね、最後の数段をよろよろと手摺に掴まりながら上っていく。
「──やあ、いい夜だな」
 そのようにして光で縁取られた階段を上れば、しかしその螺旋の頂上一歩手前でそう声が降ってくる。投げかけられた言葉にか、それともひゅうっと吹き抜けた風にか、なんとなくもう一歩進むのが憚られて、自分の足は悲しきかなこの透明な階段の上に縫い止められた。塔のてっぺん、その端に腰を下ろしてる彼──背格好と声質からして男性だろう──は、こちらを振り返らずに星空を見上げているようだった。
「そう思わないか、魔法使い?」
 光を可視化したような彼の金髪が、自分の立つ階段の方から吹き通る風に煽られている。彼はそんな自身の髪を押さえることもせずに、顔の半分だけをこちらに向けるようにしてそう問うた。空の星に交じって彼の瞳がきらりと光る。その色は青かった。
「……僕は魔法使いじゃありませんよ」
「はは、何を言うかと思ったら。べつに隠さなくたっていい。俺だって魔法使いなんだから」
「いや、僕はほんとうに……」
 そう否定しながらやっと階段の最後を上り、ちゃんとこの目に映ってくれる石造りの頂上を踏めば、その端にいた彼が身体ごとゆっくりとこちらを振り返る。すると苦く笑うような、困ったような瞳と目が合った。夜明けを待つ空にも似て見える青色。自分より幾らか年上に見える青年だ。見定めるようにこちらをじっと見つめる彼の目に、さながら吸い込まれてもう少し歩を進めれば、ふと気が付くのはそんな彼が片腕に何かを抱いているということだった。
 ──少女だ。
 彼は、まだ幼い少女を抱きかかえて座っていた。
「なあ、此処はいい国だよな」
 塔のてっぺんをぐるりと囲う風除けの塀を背もたれ代わりにしながら、彼は睫毛を伏せたのか、目を細めたのか、そのちょうど中間くらいの表情をしてそう発した。
「草も木も、誰のものでもない」
 膝の上に頭を乗せて眠っている、幼い少女の頭を撫でながら、彼はひとりごちるように呟いた。そんな青年と同じ色をした少女の細い髪が、入り込む風にさらりと揺れている。彼は自身の白い上着を脱いでは少女の小さな身体にそうっと掛け、それからその隣を手のひらで軽く叩いた。彼が目線だけでこちらに問いかける。座るか? その質問に自分は、彼の隣に腰を下ろすことによって答えを返した。青年の目は、じっとこちらを見ている。
「──僕はマイロウド。あなたは?」
「ホープ」
 こちらの問いに短くそう答え、彼はその目を空へと向けた。
「それで……こっちはドリームだ。こんな状態ですまないが」
「ああいえ、そんな。妹さん、ですか?」
「まあ、……そんなところだな」
 ホープと名乗った彼は少し笑み、何気なく息を吐くような調子でそう頷いた。彼の耳で揺れている、三日月と同じ形をした飾りが夜空の光にちかりと煌めく。自分と彼の間に流れる沈黙の中に、少女の小さな寝息ばかりが控えめに漂っていた。
「……此処では何を?」
「うん? ああ……」
 そう問えば、ホープはいつの間にか瞑っていたその目を開け、曖昧に答えながらこちらの方を見る。彼もまた眠たいのか、それとも疲れているのか、どこかぼうっとした光をその瞳の中に湛えていた。
「その、この塔……町の人たちに訊いても、なんのために建っているのか誰も知らないようでしたから。ただ、ずっと昔から建ってはいる、ということ以外は」
「まあ、この町、魔法使いが住んでいないからな。一人も」
「え? でも、あなたは……」
「俺は流れ者だよ。きみもそうだろう?」
 こちらを覗き込みながら首を傾げて、ホープは柔くその口元を緩めた。秘密をそっと分け合うような言葉のその発し方に、なんとなく魔法使いではないということを強く言い出せなくなって、良くないと分かりながらも曖昧に頷いてしまう。それを目にしたホープは自分から視線を外して、ひどく優しい手付きで妹の頭を撫でた。
「魔法使いの塔ってのは、俺ら以外の人間にとってはなんの意味ももたない建造物だろうな」
「……えっと、どうしてだろう?」
「どうして? だって……上ってこれないだろう、魔法使い以外は」
「……え……」
「魔法使いのつくり出したものに干渉できるのは、同じ魔法使いだけだって……なんとなく分からないか? こう、魔法使いとして生きているとさ」
 ホープの言葉を頭が理解する前に、思わず自分が上ってきた階段の方を振り返った。自身の眉根に皺が寄っていくのが見えなくとも分かる。だって、上ってこれないだろう、魔法使い以外は。*「だ淡く輪郭を保っている光の階段を見つめながら、そうしてやっとホープの言葉を反芻するが、けれども思考はどこか低いところでぐるぐると絡まっていくようだった。だって──だって、どういうことだ? 上ってこれないのか、此処には? 魔法使い以外は?
「……僕は、魔法が使えるのだろうか……?」
 そう口を突いた言葉は声になってこの耳へと入るまで、しかし自分のものとは分からなかった。それほどまでに無意識で発した言葉は、果たしてホープにまで届いたのだろうか。彼は伏せていた睫毛を少し上げ、こちらを見る。月明かりを帯びて発光するような金の色に、今度はこちらが目を細めた。
「……ホープ」
「うん?」
「魔法は、自分のもつ何か一つと引き替えに手に入れるもの、なんですよね」
「まあ、そうだな」
「ホープは……?」
 問うた自分の声は、掠れるような囁きにも似て、そのほとんどは夜の風に攫われかけていた。眠る妹の髪を撫でていたホープの手のひらが一瞬だけ止まり、それから短く息を吐いた音が聞こえる。笑ったのかもしれない。彼の瞳は彼自身の指先を捉えていた。
「そのとき──自分がもっているものの中でいちばん邪魔だと思ったものを差し出たいんじゃあないか、普通は」
 言って、彼はそっとかぶりを振った。
「……でも、話したことがあるならきみにも分かるはずだ。自分が欲しい魔法に対して、どれだけのものが対価として必要なのか。大抵いつも、これだけでは足りない≠ニいうことが。その天秤の動きが」
「話す……?」
「世界と。魔法使いなんだから、あるだろう?」
「な──」
 先ほど彼がそうしたよりも力なく、自分は首を左右に振った。
「ない……です」
「ああ……ま、そうかもな。よく考えてみればあんなの会話じゃないか。一方的にこっちが話すだけだ」
「いえ、その、僕は……」
 言葉が詰まる。膝の上で杖を握り締める手の中に、塔を上るときよりも熱い汗が滲むのを感じた。通り抜ける風に杖の飾りがしゃらしゃらと揺れるのを見つめて、少しだけ顔を上げる。そうして視線が合ったホープの青い瞳が、凪いだ水面のように静けさを湛えていた。目を逸らす。それから彼に向かって分からないと憶えていない、そして想い出せないを順に唱えて、下手な呼吸を一つだけ呑み込んだ。
「──それでもあるよ、きみは世界に向かって話したことが」
 ホープはそうっと睫毛を伏せる。彼の目は自分が膝の上に乗せている杖を映しているようだった。そしてそこに飾られている橙色の硝子玉を見つめて、彼の瞳は再びこちらを向いた。
「橙色の球か。どういう願いの色なんだろうな」
「この球……何か特別なものなんですか?」
「俺たちにとってはそうだな。なんというか、入れ物、と言ったらいいんだろうか。世界に自分の一部を差し出す入れ物、それと引き替えに世界から力を受け取るための入れ物。こいつは魔法使いにしか生み出せないから、普通、人はこれを近しい魔法使いから受け取って世界と話を始めるってわけだ」
「……僕──僕は、僕になる前の記憶がないんです。でも、昔の僕は、これを誰かから貰ったのかなあ……」
 言えば、今度はホープから言葉が失せた。彼はその青い瞳を見開いたまま、瞬き一つすることもなくこちらを見つめている。それは驚きと困惑がないまぜになり、少しだけ自分を咎めるような視線だった。息がふつと詰まるような沈黙は、なんだかひどく長い時間のように思える。
「……そうか」
 ふと、ホープがそう呟く。彼を見やれば、その表情は──なんと、表せばいい? 彼の目に、様々な色が浮かび上がっては沈み、また浮かび上がる。
「いいなあ、それは」
 そう言う彼は、笑んでいた。風に吹かれて、彼の金色をした前髪がふわりと流れる。確かに彼は、笑っていた。伏せるように目を細めて、口角をそっと持ち上げて。それでも──それでも彼の形の良い眉は、ひどく悲しげに、或いは寂しげに歪んでいた。
「きみのそれを俺も考えたことはある。でも、結局今までこいつを差し出す決心だけはつかないままだ。失う勇気が出ない。たぶん、一生」
「……ホープ?」
「すまない、独り言だ」
 柔らかく微笑んで、ホープは膝の上の妹を撫でた。それから彼はこちらの杖を緩く指差す。
「魔法使いたちの球には、それを生み出した本人の願いが色濃く移る。きみがその球を自分で生み出したのか、それとも誰かから貰ったのかは分からないが、……優しい色だな。透けるような橙色。海に映る夕暮れのような色だ。優しくて、暖かい色だと思うよ。少し、悲しくなるほど」
「海に映る、夕暮れ……」
 彼の言葉をおうむ返しして、指先でその透き橙の輪郭をなぞる。夜風に晒されたその身は、ひやりと冷たかった。冷たい? いや、そうでないときもあった気がする。むしろ、この間は朧に温かかったような気さえした。この間? それは一体いつのことだろう。
「……この硝子玉、一度使ったらもう使えなくなってしまうんですか?」
「うん? うん、そうだな。ちなみにきみのそれは既に使われているぞ、光が失せてるから」
「これがないと、魔法は手に入らないんですよね」
「ああ。そう簡単に世界と話ができても困るしな。仮に誰も彼もが心の中で呼ぶだけで世界と取引ができるんなら、今頃世界は魔法使いであふれ返っているだろうさ」
 ホープの言葉に、ゆるりとかぶりを振った。
「魔法って、なんなんですか?」
 分からないことが多い。多すぎて、結局口から発せられたのはこの問いだった。自分の質問を聞いてホープは少しだけ思案するような仕草をすると、その視線をそっと妹の方へ向け、そうしてやはりどこか悲しげで、それでいて寂しげな微笑みを浮かべた。
「魔法は代替品だと、俺は思う」
「代替品?」
「うん。その人間が差し出し、そうして失ったものの穴の中に魔法の力は入り込む。そして、そこはきっと……目にははっきりと見えるかたちではないかもしれないが、限りなく世界という概念──自然のものに近くなる。魔法は、自然のものを操る力のことを言うだろう? だから、その……上手く言えないな」
 ホープはぎゅっと眉間に皺を寄せて、自身の指先で耳飾りを軽く触った。
「少し見ていて違和感があるというか、人っぽくなくなるというか、いや……この言い方は好くないか。その、とにかく、人よりも目を惹く部分があるってことだ」
「目を惹く……ホープの髪や目、みたいに?」
「ああ、はは、そう見えるんならそうなんだろうな。でもまあ、きみもそんな感じなんだよ、きみ以外の人にとってはね」
「ぼ、僕も眩しいんですか? ホープみたいに?」
「えっ、俺は眩しいのか?」
 ひゅるりと風ばかりが音を立てて、一瞬の間が空く。ちょっとだけ困惑したようにぱちぱちと瞬きをくり返すホープの目には、おそらく彼と同じような表情を浮かべた自分が映っているのだろう。それがなんだか可笑しくて少しだけ笑い声を洩らせば、それを聞き取ったホープもまた小さく声を上げて笑った。
「きみは……マイロウド、そうだな、眩しいと言うよりは──ふわふわ、している」
「ふ、ふわふわ?」
「いやごめん、俺は喩えが下手だな」
 困ったように首の後ろを掻いて、ホープはくすりとした。それから彼は妹を抱きかかえて、その場に立ち上がる。彼は淡く息を吐きながら、空を見上げた。夜空には無数の星々が互いに言葉を交わすかの如く瞬いている。ホープは言葉もなく目を瞑っていた。その横顔が、彼に抱きかかえられて眠っている少女にそっくりだった。
「きみは、少しだけ俺の知り合いに似ているよ。それでいて、全く似ていないとも思える」
 彼は目を開けるとそう言って、こちらを見た。
「知り合い……どんな人なんです? 友人とは違うんですか?」
「友人ってのはたぶん、相手の命を握ったり、互いに互いを憐れんだりしないだろうからな」
「い、命?」
「まあ、色々あるんだ。俺の知人──いや、主人と言った方が近いのかもな。とにかくそいつは世界をすっかり変えてしまおうとしていて、俺はそれに与している。病気の妹をなおして≠烽轤チたからというのもあるし、彼がいないと今度こそほんとうに妹が死んでしまうというのもあるし、それに……俺は少し、あいつに同情しているかもしれなくてね」
「世界……?」
 ホープの言っていることがいまいち理解できずに、頭の中で糸がぐるぐるに絡まったままおうむ返しをする。そんな自分を目に映した彼はふっと息を吐くように笑うと、妹の頭を撫でながらかぶりを振った。
「つまり、俺はあんまり善いやつじゃあないんだ」
「え? ああ、……僕、それならけっこう慣れてますよ。ホープ、その……盗みとかするんです?」
「いいや。俺は、俺の主人に人が殺されていくのを見過ごしてきたんだ、何度も、何度も。夢に見るほど」
 ホープの口から淡々と語られるその言葉に、息を呑むことすらできなかった。
「……それに、──だから、俺は友人を裏切っている。まだそう長い付き合いでもないが、それでも出会ってから俺はずっと、彼のことを裏切り続けている」
 自分自身で確かめるようにそう発しながら、ホープは少し歩を進め、中央に設置されている石造りの円卓のような物の前で足を止めた。それは夜空の様子を映すほどに磨き抜かれており、天板にはちかりちかりと星の光が散っていた。二人で声も発さずに卓を見つめていれば、つと、ホープがそこに音もなく片手をかざす。
「初めて友だちと思えたやつなんだ。母と妹を失ったあの日から」
 その瞬間、天板からふっと光が消え、それと同時に地上の明かりが消える気配を感じた。まさか夜空の星を消してしまったのかと反射的に空を見上げれば、しかし星は瞬きをくり返しながら淡い光を地上へと送っていた。月明かりの下、兄妹の金髪ばかりが煌めくように浮かび上がっている。
「昔は此処にも魔法使いがいたんだろうな、俺と似たような光を操るやつが。星明かりを触媒に、木々の光を保っている。そもそも誰もいじってないっていうのに夜になると勝手に点灯して、しかも燃料切れも火事も起こさない明かりなんて、そんなの魔法以外には考えられないからな」
 そう言いながら天板の上で光を再度灯してみたり、また消し去ったりをしているホープへと自分は曖昧に頷いた。むしろ、そうすることしかできなかったのだ。なんだか肺の辺りに引っかかりを覚える。きっとそれは、先ほどホープが発した言葉のせいだった。ふと、彼の青色と目が合う。母と妹を失ったあの日から。&黷ニ、妹。彼の瞳からするりと視線を逸らして、彼の抱えている少女を視界に映した。耳を澄ませば、微かな寝息が聞こえる。ホープはおそらくそんなこちらの様子に気が付いて、何かを諦めたような笑みを浮かべながらそっと頷いた。
「ああ、うん、そうだよなあ。此処にいるもんな」
 ホープは手のひらを天板から離す。そうして彼はぐるりの塀まで歩いていくと、そこで立ち止まり唐突に木々の明かりを失った町を見下ろした。寝入った町の変化に、眠る人々はきっと誰一人として気が付かない。ホープの青は今、花の光だけで灯る町よりも静かな色を宿している。
「……ホープはどうして、光の魔法を?」
「ああ。咄嗟だったんだ。気が動転していた。目の前が真っ暗になった気がして、それで光が欲しかった。なんの……誰の役にも立たない魔法だよ」
「誰かの役に立たなければだめですか?」
 問えば、彼はゆっくりと瞬きをして、そうして似たような速度でこちらを見る。
「いいんじゃないですか、誰の役に立たなくても。だってその魔法は、あなたのためのものだ」
「俺の?」
「僕の友人──旅を始めて最初に出会った人なんですけど、彼は魔法というのはその人の使い方によると言っていました。魔法だけではなく、いろんなことがそうだと。だから……ホープの魔法は、ホープの思う使い方をすればいい……と、僕は思います。あなたが望むように」
「それが……たくさんの人の命を奪うことだったとしてもか?」
 少し息を吸う。彼の目が、どこか乞うようにこちらを見ていた。
「後悔、しませんか?」
 ホープが目を逸らす。今度は彼の方がそっと息を吸っていた。
「きみは、怒るかい。俺たちが世界をめちゃくちゃにして、誰も彼もの命を奪って──マイロウド、きみの命さえも奪ったら。きみは恨むか? 恨むだろうなあ、俺のことを」
「……それは……流石にそのときになってみないと分からないですけど、でもまあ、そうだなあ、うん。たぶん……きっと、少しくらいは」
 夜風と共に沈黙が流れる。ホープは妹を抱えている自身の手のひらの方を見やると、それから無言のまま再び円卓の方へと歩いていった。背後で光の灯る気配と共に、眼下で町が木々の明かりを取り戻した。振り返る。ホープの腕の中で、少女が軽く身じろぎをしていた。
「これは、……僕の予想に過ぎないのですが、先ほど話した僕の友人──彼はきっと、誰かの兄だった。でも、彼は妹との手がほどけてしまった。そして、そんな彼が空を見るときの横顔は、何か……何処か遠くの景色を見るようでした。悲しそうな、寂しそうな表情。その顔が……僕は、あなたにも似ていると思う」
「……それは、赤毛の?」
「えっ? よ、よく分かりましたね。どうして?」
「じつは心が読めるんだ、魔法使いだからな」
「ほ……ほんとうですか?」
「嘘だよ」
 ホープが振り向く。微笑むその表情は、彼から発せられたその声色よりもやさしいものだった。
「……似ていないさ」
「え……?」
 彼は吐息だけで笑うと、今度は星映しの円卓を背にするようにしてその場に座った。言葉が途切れるたびに、此処には静かな風の音と少女の寝息ばかりが漂う。ホープは少し困ったような笑顔で首を振った。
「いや、やっぱり似ていないな、と思って。俺の主人ときみは。ぜんぜん違う」
「そう……なんですか?」
「ああ。マイロウド、きみは──」
 ホープが目を細める。その隙間から覗く夜明け待ちの青色に、不思議な光が宿っていた。
「きみは、魔法みたいだ」
 その言葉に思わず首を傾げる。ホープの方を見つめたままその場で少し考えて、それからなんとなく手元の杖を揺らしてみたが、特に何も起こることはなかった。
「……でも僕、魔法使いじゃあないみたいですよ、やっぱり」
「うん、そうだな、知ってるよ。きみは、きみだな」
「ホープは……不思議ですね」
「何、きみほどじゃあない」
 からかうようにホープが言う。そんな彼の様子に痒くもない頬を掻いて、なんとはなしに再び空を仰いでみた。星は先ほどと変わらずその場に留まり、一つは忙しなく、また一つは眠たげに輝いている。
「──ねえ、ホープ。光で流れ星を描いていましたね」
「なんだ、見ていたのか?」
「そのとき……きっと、笑っていたんでしょう。その子も、……あなたも」
 空から視線を外してホープの方を見れば、彼はなんだか苦しげな困り顔でこちらを見ていた。彼は眠る少女を抱きかかえるというよりは、離れがたいと言うように抱き締めていた。少女の小さな方に顔を埋める彼の青い目だけが、疲れ果てた色を宿している。
「……なあ、マイロウド。俺は何処へ向かえばいいんだろう」
「僕も迷いっぱなしなので、あまり偉そうなことは言えないですけど……でも、たぶん、それは……」
 振り返り、眼下の町を見る。そこでは、いつか魔法使いが灯したあたたかな光が旅人たちの目印として満ちていた。夜は未だ続いていくようだったが、しかしそれもいずれ明けるだろう。呼吸をする。風が柔く吹いていた。
「──あなたが信じ、あなたが往きたい方へ」
 彼はそっと、空を見上げていた。あの何処か、遠くを見るようなまなざしで。



20190929

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