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美しい話はもうやめよう



「お前ら、消灯時間過ぎてるぞ」
 会議というものは、どうしてこうも時間がかかるものなのか。
 春公演に向けての簡素な企画予算会議は、すでに脚本のたたき台を四クラス分完成させているダリア・ダックブルーが言葉を発するのを皮切りに──仮にも敗北を喫したのだとは思えない活き活きとした表情で、流暢に次の公演の構想を話す脚本家兼演出家兼エグレット担任教師には最早恐怖すら覚えた──学園長のレッドアップル・レグホーンを巻き込んでは簡素≠フ意味を履き違えながら異様な盛り上がりを見せ、十七時から行われたその会議は会議室の振り子時計が二十二時を告げる重たい鐘の音を鳴らすまで続いた。
 長時間座っていたことによりばきばきと運動不足を訴える肩を回しながら、ガーネットはダリアが「今の段階ですでにここをこうしたいとかもっと面白いやり方があるだろうとか気になることがあったらなんでも言ってネ」と早口に捲し立てながら押し付けてきた脚本のたたき台と、アンチックがダリアの息継ぎの合間を狙って教師たちの腕の前に滑り込ませてきた、それぞれのクラスの新人公演に関する評価点や彼の考え得る改善点を纏めた細やかな資料、そしてマドンナが用意した新人公演での歌唱や発声を受け、今後目指すべき役柄や参考にすべき過去の役者ないし歌手が生徒ごとに一覧化された分厚い資料を片腕に抱えては、クーデール寮内へと戻ってきていた。そして、そんな彼が夜も更けてそれなりというのにもかかわらず、未だ明々と灯りが透けて見える談話室の猫間障子──クーデール寮は猫を飼ってはいなかったが──を無遠慮に開け、消灯時間を過ぎていることを告げれば、畳の上に各々胡坐をかいて卓を囲んでいたクーデール生数名が一斉にガーネットの方を見る。
「すいません」まずはじめにそう生返事をしたのは、今回の新人公演でレイヴンを務めたマルヘル・ブルーナだった。
 彼は上級生と共に一枚板のテーブルを囲んでは、四日間に渡って行われた新人公演の初回公演時の映像を眺めているようだった。おそらくは、生徒の押しにすこぶる弱い舞台映像制作部から上級生がふんだくってきたのだろう。
 ガーネットは視線をぐるりと談話室に走らせた。顔ぶれは、新人公演でのレイヴンとスワンに合わせて、普段はレイヴンやスワンないし名付きのクロウやダッキーを務めている三年生たち……想像通りといえば想像通りである。彼らを誰がこの場に集めたのかも明白だった。
「先生、ちょうど良いところに」そして、その司令官は担任教師の姿を目にした途端テーブルに片手をついて、自身の緑がかった黒髪を揺らしながら立ち上がった。「新人公演のことで、ちょっと聞いてほしいんですけど」
「それなら俺もだ、ラシャ。新人公演のお前の演技だが──」
「できる限りのことはやったと思いますよ」ラシャ・ラセットはガーネットの言葉を遮って、顎をしゃくって隣に座っている相手を示した。「それより、マルヘルなんですが」
 言われて、ガーネットはちらりと一瞬だけマルヘルの方へと顔を向けたが、しかし彼はぎょっとした色を瞳の中に滲ませたマルヘルに対してはもちろん、ラシャの言葉にもぴくりとも表情を変えないままに視線を戻しては、開け放った障子戸の縦框に肩を預けた。
「次の練習から、俺と組ませてください」ラシャもラシャでそんなガーネットには構わずに言葉を続ける。「アンチック先生はこいつのことをクロウに育てようとしてるっぽいですけど、向いてんのは絶対レイヴンです。新人公演、観てたっしょ? こいつが一番目立ってた。レイヴンの配役正解でしたよ」
 レイヴン≠ニいう部分をいやに強調しながら、ラシャはひらりと片手を振る。彼のすぐ近くに座っていたナギット・ナンフェアが、片眉を微かに動かして中指の爪で卓の上を軽く叩いた。ナギットは、クーデールの新三年生の中で、今年度の主格スワン候補と名高い役者であり、同様に主格レイヴン候補であるラシャの相手役を務めることが多い生徒だった。
「マルヘルはこっち側の場数を踏んだ方がいい。クロウの動きばっかやってたら変な癖がついちまいますよ」けれどもラシャは、ナギットの立てた苛立ちの現れにも彼に対する抑制にも聞こえるトン、という音を全く気にしていないようだった。「レイヴンの俺が言うんだから間違いないでしょ?」
 ナギットの細い指先が、卓の上で動きを止めている。彼の溜め息めいたものが発されてもいないのに部屋中に充ち満ちるのを感じたのだろう、マルヘルの視線がナギットの指とラシャの鼻先のあいだ辺りを彷徨った。ガーネットは何も言わない。
「それと、スワンですけど」次いで、ラシャは視線ばかりを動かして、一人の人物が立っている談話室の壁際を示す。「……ヘザーはダッキーの方が向いてるんじゃないですか。確かにうまいですけど、クーデールのスワンにするには地味ですよ。今日の公演だってあんま印象に残らなかったでしょ。こいつ、レイヴンに遠慮がある」
「ラシャ」そうしてようやく声を発したのは、やはりナギットだった。そこには苛立ちも制止の色も確かに乗っていた。
「ナギ、小言なら後で聞く」ラシャはナギットの方を見ようともしない。彼は真っ直ぐにガーネットを見据えて、拳を固く握っていた。「もっと前に出すべきやつがいるんじゃないですか? ミリアンは? 新人公演の配役、逆の方が良かったんじゃない? ヘザーは器用だからダッキーは問題ないだろうし、ミリアンなら華がある。目を惹きますよ。適材適所ってやつです」
 ついには今この場にいない人間の名前まで引っ張り出してきたラシャに、談話室はその名称に反してキン、と冷たく張り詰めた。
 けれどもヘザーは何も言い返すことなく、壁を背に立ったまま自分が演じたスワンのシーンで止められている、新人公演の映像を見つめていた。マルヘルが今、息を潜めるような呼吸をしているのだとすれば、ヘザーはおよそその息を止めていた。おそらくは、ガーネットがやってくるまでの間にもこの会話は幾度かくり返されたのだろう。ヘザーのレーズン色の瞳はどんな感情も湛えていないように見えて、けれどもそこにはうっすらと辟易の色が滲んでいた。それはさながら、ドラムの主張が激しい歌の間奏を延々と聴かされているような色だった。
 今や、談話室の行く末をそこにいる誰もが担任教師のガーネットに託している。彼はラシャの発した言葉を反芻するみたいに息を吸って、相手のことをじっと見つめていた。そうして、縦框に預けていた身体を元の位置に戻すと、ガーネットはすっと背筋を伸ばしてラシャを眼下に見下ろした。
「ラシャ」ガーネットはまるで先ほどの続きのごとくにそう言った。「お前の今日の演技だが」
 話の通じない相手を前にして、ラシャは苛立ちをもう隠しきれていなかった。「なんです?」
「あれはなんだ?」
「はい?」
「あれはなんだ、と言っている」
 冷えきっていた談話室から、今度はシン、と音が消えた。
 何を言われたわけでもないのにその場にいる全員が背筋を伸ばして、一つの音も出さないように息を止めている。突如白羽の矢が立てられたラシャは立ち上がったまま、呆気に取られてガーネットのことを見ていた。
「お前は随分とレイヴン以外がお気に召さないようだが」そう告げるガーネットの声色には怒気も苛立ちも感じられない。「もちろん、自分の演じたクロウもそうなんだろうな?」
 が、しかし、ただ事実を淡々と述べるようなガーネットのそれには、何か言外の重力めいたものが備わっていた。誰かがごくり、と控えめに喉を鳴らす。
「群舞のとき、お前だけ半歩前に出ていた。クロウとアンサンブルキャストを演る以上、抜いておけと言ったレイヴンの変な癖、、、が抜けていなかった。そのおかげで、群舞のときには舞台に微かな歪みが生まれていた」ガーネットがつらつらと並べ立てる言葉に、最初は何を言われているのか分からないという表情をしていたラシャの顔がみるみるうちに引き攣っていく。「お前はそれでも三年か? 金科玉条を守れないやつが随分偉くなったものだな」
 瞬間、ラシャの顔がかっと真っ赤に染まったが、有無を言わさぬガーネットの視線に射貫かれて、今度はさっと青ざめる。そんなラシャの顔をナギットが視線だけを動かして見やり、固く唇を噛んでいる相手の表情に微かに息を吐いていた。
 そんな二人を目に映しながらも、ガーネットは小脇にしていた書類たちを不意に床へ放り、それから躊躇もなく凍った談話室の畳を踏んだ。そうして彼が腰を折り、何かを転がすような仕草をすると、そこにはばっと赤い絨毯が広がって、談話室は一瞬にして『ドッグ・イート・ドッグ』の舞台へと様変わりする。
「ミリアンに王妃の従順な侍女をやらせたのは、あいつに華があって、自分でもそうと気付いていないような微妙な悪気≠演じることができるからだよ」
 言いながら、ガーネットは長いエプロンの裾を持ち、じつに短い歩幅で王城の中をちょこまかと動き回った。見えない銀のトレイに乗ったゴブレットを玉座に腰掛ける女王へと差し出す侍女は、己が仕える女王を崇拝しており、彼女の命には盲目的に従う。そして、彼女はその従順さを女王から認められるたびににっこりと愛らしく笑んでみせるのだ。
「それはあの役にとって必要不可欠なもので、ミリアンの才能だ」悪戯っぽい笑みに口角を歪めていたガーネットはぱっとその表情を打ち消して、壁際に立つヘザーのことをすっと指差した。「ヘザーにはできない。こいつにはナイチンゲールどころか悪意の才能がまるきりないんだよ」
 その言葉に、ヘザーが初めて分かり易く表情を動かした。彼はまるでそんなことはたった今初めて聞いたというように目を見開いて、ガーネットの指摘に身体を固くしている。そんな教え子にガーネットはふっと息を洩らすと、差していた指先を開いてひらりひらりと天に向け、星空の見える庭園に降りる光をその輪郭で受け止める。
「そして、今回のスワン──オディーリアの演技、いやダンスには一切の悪意を持ち込むことが許されない」
 ゆっくりと、それでいて音もなく静かにガーネットはヴァリエーションを踊った。
 クラシック・バレエを踏襲しているオディーリアのダンスは、いつでも真っ白なオーガンジーが翻るようなものでなければならない。優しげな笑みを湛え、バロネを連続させながら軽やかにジュテで飛ぶオディーリアは、物語に登場する人物の中で、唯一清らかな存在なのである。オディーリアは月光に照らされながら、祈りのように踊った。
「そう」左膝を折り、そっと片手を伸ばして、天上から降り注ぐ光を抱き締めながら、ガーネットはその場に立ち上がって辺りを見渡す。「一滴たりともだ。純真なオディーは照らされる光だけで輝かなくちゃいけない。彼女は太陽じゃあない。シグルスに照らされる月だ。派手じゃだめなんだよ」
 次いで、ガーネットは庭園で踊るオディーリアを彼女からは見えない場所から眺めやった。だというのに、オディーリアはその視線に気付いて、柔らかな笑みとマイムで、己を盗み見る相手──シグルスへと片手を差し出した。
「オディーが優しく踊れば踊るほど、純粋に微笑めば微笑むほど、復讐者としてのシグルスの覚悟と苦悩は狂気的に浮き彫りになる」呟くように発して、ガーネットは一人でパ・ド・ドゥを踊りはじめた。オディーリアと共に踊るシグルスの顔には鮮やかな歓喜が浮かんでいたが、しかし彼がオディーリアからは見えない位置に足を運ぶたび、その瞳には明らかな狂気と苦悶が閃く。
 シグルスは片手で顔の半分を覆うと、辺りにさっと視線を走らせ、そこに在るものをすべて射殺すような光をその目に宿した。事実、彼はこの場にある何もかもを焼き尽くす想像をして、ほむらを隠す瞳の奥でほくそ笑んでいたのだ。「正しく月に照らされる人間の顔というものは昏く翳り、瞳には怪しい光を孕む」
 睫毛を伏せたままで地面を這う蛇を踏み潰し、代わりにまなざしの炎の首をもたげさせたシグルスの片手が今、天上の月を握って砕いた。彼は頤を上げ、一歩、第四の壁の向こうに立つラシャの方を見た。
「適材適所だよ、ラシャ」
 そこにはもうシグルスの猟奇的なまなざしも狂気の微笑みも存在していなかったが、ラシャは近付いてきたガーネットに思わず一歩退いた。ガーネットは彼の顔の前でパチ、と指を鳴らす。ラシャははっと瞬いた。そういえば、微かな雨音が談話室の磨り硝子窓を打っていた。
「舞台の上に求められるものは公演毎に変化する。俺はお前やナギットのことを必ずしも主演のレギュラーとは考えないし、それは今回、新人公演で主演を演じた二人に関してもそうだ」ガーネットは談話室に集まっている教え子一人ひとりの顔を順に見やって、自身の腰に片手をやった。「そのときの物語に求められるものに応じて配役は変える。だから、公演が終わると同時に役の癖は抜いてフラットな状態にしておけ。どんな役にも対応できるようにな」
 言って、ガーネットはくるりと踵を返し、いつの間にやら拾い上げた書類を再び抱えて談話室を出ていこうとした。
「……ルビー先生なら」けれどもそんなガーネットの背に、ラシャが低い声で投げかける。「ルビー先生なら、もっとちゃんと意見を聞いてくれましたよ」
 影を踏みつけられたように、ガーネットは足を止めた。彼は手にした書類の一部をぐしゃり、と握り締めると、す、と息を吸ってゆっくりと背後を振り返った。
「──それが意見、、なら、俺だってちゃんと聞くさ」ラシャのヘーゼル色の瞳を見据えながら、ガーネットははっきりとそう言い切った。「自分が言った言葉が何を意味するのか、口にする前に一度くらいは考えてみろ」
 それはほとんど、とどめと呼んでも差し支えない言葉だった。ラシャは大きく舌を打つと、ずかずかと大股でガーネットの横を過ぎ去り、談話室を出ていった。
 一部始終を静観していたナギットだったが、あんな様子の相棒を捨て置くことはできないのだろう。彼もまた溜め息を吐きながら立ち上がると、ガーネットに軽く会釈をして足早にラシャのことを追いかけていった。そして、それをきっかけにして、後に残されていた名付きのクロウやダッキーたちも今が好機と踏んではばたばたと談話室を出ていく。そうして談話室に取り残されたのは冷えた静寂と、新人公演のレイヴンとスワンだけだった。
「先生」ヘザーが卓の上のノートパソコンや散らばった台本たちを一箇所に纏めながら、なるべく感情を抑えた声でそう呼んだ。「明日の放課後、お話があります。ダンスルームで」
 彼の申し出に、ガーネットは頷く。「ああ、聞くよ」
「ありがとうございます」
 ヘザーは波紋も立たない静けさでガーネットにお辞儀をすると、談話室の外に一歩踏み出した。そうしてその場でちらりと背後を見やり、まだ座ったままのマルヘルに何事かを発そうと口を開いたが、しかし何を言うべきか分からなかったのかもしれない。彼は、お疲れ、とただ一言だけ発して、自分の部屋がある方へと戻っていった。
 雨音は少しだけ強くなり始めていた。ガーネットも、またマルヘルも未だにその場から動こうとはしなかった。
「ところで、マルヘル」酷い徒労感が満ちる空間に、ぽつりとした口火を切ったのはガーネットだった。
「……なんですか」半ば額を抑えるふうにして、マルヘルが呻くような返事をした。「できれば、一人にしてほしいんですけど」
「すぐにしてやるよ」ガーネットは緩くかぶりを振って、溜め息交じりに笑った。「お前、オリーブのこと見かけたか?」
「……見てないすけど」そう呟いたマルヘルの声色には、けれどもどこかばつの悪そうな色が滲んでいた。
「お前、……」
「なんですか」
「いや、いい」ガーネットは微かに目を細めてマルヘルの方を見たが、しかし擦り切れた顔色の教え子の表情を見た瞬間、発そうとした言葉も追求の気持ちもすべて引っ込めて、ひらりとぬるく片手を振った。「もう戻って休め」
 そうしてガーネットは今度こそ本当に踵を返しては、一本の傘を握り締めて再び校舎の方へと駆けていった。
 春の雨は冷たく、空気は揺らいでいた。


20211219 執筆

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