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美しい話はもうやめよう



 広げた傘に雨の音が鳴る。
 赤という色は、発光していなければ存外闇に溶けるものだった。
 ガーネットは街灯が淡く照らす校舎前広場をカツカツと踵を鳴らして歩きながら、控えめに傘の中に入っているオリーブ──ガーネットは何度かきちんと入るように指示し、オリーブもその瞬間は従っていたが、数十秒後には傘の外側近い場所へと縮こまってしまうため、根負けしたガーネットは傘をオリーブ側へと傾けるのに専念することとなった──を見やり、それからなんとはなしに振り返って、微かに常夜灯の光が洩れ出ている校舎の窓を眺めやった。うそ寒い春時雨の夜が、こんにちの舞台の熱狂、その輪郭のみを心地よく冷やしていく。濡れるのは嫌いだ。内側に残る灰の味がより明確になるのは。故に、ガーネットの傘はいつも大きかった。
「先生」ぱしゃり、と雨に濡れたローファーを鳴らしてオリーブが呟く。「すみませんでした」
 ガーネットは前を向いたままだ。「何度も聞いた」
「でも」
「あのさ」服の裾を引くように控えめに、しかし確かに抗議をくり返すオリーブに向かって、ガーネットは首を傾げるみたいに頭上の傘を見た。「悪いと思ってるんなら、ちゃんとお入りやがれよ」
 オリーブは決まりが悪そうにガーネットの指差す傘の端を眺め、半歩にも満たない分だけ傘の柄に身を近付ける。それから、視線はすぐに足元に落とされた。水の膜が薄く張られては、街灯の光をちらちらと反射している石畳の切れ目の数でもかぞえているようなオリーブのまなざしの動きに、ガーネットは真っ直ぐ頤を上げたまま呟いた。
「何が悪いのか分からないのに謝るのはやめろ、と前に言ったと思うが」彼はちらりと横目にオリーブを見た。「付け足しておく。自分の責任でないことに対して謝るのはやめな」
 オリーブははたとして顔を上げたが、ぐ、と唇を引き結び、そうして腹の辺りで両の手を組み合わせた。「だけど。今回のは、俺が悪いです」
「なんで?」
「だって、俺がいつまでも帰らなかったのが悪いですし。それに……」閉じた口の中で言葉を発するみたいにそう言いながら、オリーブはそっとガーネットの横顔を窺った。「新人公演、俺が足を引っ張ったようなものでしょう」
「まさか」ガーネットは息を吐くように笑った。「自惚れるなよ」
 それからしばらく、二人の間に言葉はなかった。
 校舎から寮への道というものは、目に映り込んでくるその印象よりも多く歩数を要する。一時強くなった雨は再び春の気配を宿した穏やかさを取り戻していたが、水滴と霧の狭間のような雨は視界を鈍くし、夜雨の肌寒さも相まって寮への道のりは長く、そして冷たく感じられた。月も見えない夜だ。ガーネットは月明かりの代わりに、劇場のゴーストライトの灯を思い出していた。
「オリーブ」ガーネットは自分の声が暗やみに消えていくのを眺めながら、自身の冷えた指先を少しばかり握り込んだ。「……あいつが悪かった、と観客に指差して笑われるほどの大根を、この俺が舞台に上げると思うか?」
 それは問いかけと呼ぶには些かはっきりとしすぎた声色だった。彼の靴音と同じほどに。オリーブは雨の中でもどこか乾いた睫毛を上げ、おずおずとガーネットの方を見ていたが、彼の問いらしくない問いに対して何か言葉を発することはなかった。
「ここはルニ・トワゾだ」ガーネットは問いかけに対して自分自身で答えた。「そして腐っても俺はその教師。この一ヶ月……金を払っている観客に、新人です、と紹介できる程度にはお前らを育てたつもりだが?」
 オリーブは自分の方を向いたガーネットの瞳に視線を縫い止められながら、組んだ両手に力を込めた。「で、でも、それとこれとは。俺は……」
「過去の自分を悪役にして逃げるな。みっともない」
 その言葉は果たしてオリーブだけに向けた言葉だったろうか。ぐらりと教え子の瞳孔が揺れるのを横目に、けれどガーネットは歩を拾う速度を緩める。オリーブはほとんど歩みを止めていた。
「致命的なミスがなかった舞台で、個に責任を押し付けられるほどルニ・トワゾは甘くない。群で舞台をつくり上げることの多いクーデールでは特にな」淡々とそう発するガーネットの声は、しかしまるで教科書に乗っている言葉の一つひとつを自分の頭に叩き込むような色をしていた。「つまり、悪いのは全員だ」
 オリーブがぼんやりとおうむ返しをする。「全員……」
「全員が悪い」ガーネットはくり返した。「それがどういうことか分かるか?」
 無論、この言葉も輪郭だけの問いかけだった。「俺が悪いってことだよ」
 ガーネットははっきりと確かにそう断じた。小脇に抱えたままの分厚い会議資料は外の空気を吸って少し湿気っている。あの時間という概念を呪いそうになる会議の中で、椅子に縛り付けられた自分は、しかし他の教師たちと比べて一体何が出来ていただろうか? ダリアが書いた次期公演のたたき台、アンチックやマドンナが用意した生徒のための資料を前に、自分が見ていたのは一体なんだった? 新人公演の後、すべきことをしている彼らを尻目に、この自分がしていたことは? 
「俺に全責任がある」
 その言葉だけが今ガーネットの手の上にある、たった一つの事実だった。
「舞踏カリキュラムを組んだのは誰だ? 指導内容を考えたのは? クーデール全体の指導責任があるのは? 舞台の監督責任は?」ガーネットはさながら箇条書きのリストでも読み上げるように発する。「俺だ。俺以外に誰がいる?」
 公演後の舞台を眺めていた自分は、学生の頃となんら変わりない、舞台の上から未だ羽ばたいていけない過去の影を、あろうことか己の教え子と重ね合わせて見ていただけだ。それだけだ。それだけしか、俺はしていない。濡れた傘の端から水滴が落ちて、音も静かに地面に落ちる。
「……そんな」オリーブはガーネットを見上げ、それから自分の両手を見下ろした。「だけど」
「くどい」ガーネットはオリーブに向けていた顔を前に向け、カツ、と歩を伸ばした。「クーデールは俺のクラスだ」
 再び寮への歩みを再開したガーネットの後を、はっとしたオリーブが早足に追いかける。
 身勝手な春の風が、夜と雨のあいだを横切りながら吹きはじめていた。否応なく濡れる髪の毛先と頬が不快で、だからこそその感触は忘れ難かった、いつでも、いつまでも。
「俺が悪い。だから、お前が言うその場をやり過ごすための謝罪にはなんの意味もない」頬に張り付いたその不快感を拭うこともせず、傘の下に入ったオリーブの方を見やってガーネットは言った。「うだうだと謝っている暇があるなら、今回の公演を省みて練習の一つでもするこったな」
 それから、彼は赤くて低い空を仰いだ。多少の風程度では揺らぎもしない傘の表面を、時折降る大きな雨粒がぱたりと叩いている。つと、ガーネットが隣のオリーブを見やれば、少年は暗い緑の瞳に不安げな色を溜めて、担任教師の顔をじっと見つめていた。薄暗い校舎の中でゆいいつ明々と光が洩れていたダンスルーム、その内側で正解の分からない問題を前にし、ひたすら発声練習をくり返していた一人の少年。あ、え、い、う、え、お、あ、お……
 ガーネットは鼓膜の向こう側で蘇った掠れ声に、はあっと大きく溜め息を吐いて呟く。「まあ、それも俺の仕事なんだよなあ」
 そう洩らして、彼は微かに呼吸するように笑った。赤い瞳が弧を描くのを見て、オリーブがぱちりと瞬きをする。ガーネットはそんな教え子の表情を見て、眉間に皺を寄せながら苦笑し、目の前の丸い頬をむい、と軽く引っ張った。
「悪かったな、オリーブ」
「えっ?」頬を抓られているために、オリーブはまなざしだけで首を傾げた。「あ、……何が、ですか?」
「できたと思ったら戻ってこい=v夕暮れ時に自分が発したそれを真似た、しかしそこに存在していたはずの鋭さは多少削がれた声色で、ガーネットはぽつりと零した。「そんなこと言われたって、分かるわけがない。何が悪くて、どう直せばいいか。それを指導するのが教師の役目だ。違うか?」
 オリーブの瞳の中に困惑めいた光が浮き沈みをくり返している。ガーネットはオリーブの喉元に指先をト、と当てると、相手の目を真っ直ぐに見据えながら息を吸った。
「お前は台詞を言うと、姿勢が大なり小なり悪くなる」言いながら、ガーネットは誰のためでもなく頷いた。「とりあえずの目標は、その喉声の癖を直すこと。声は腹から出す。マドンナさんにも言われるだろうが」
 それは、当然すぎる指摘だった。教師はもちろん、オリーブの同輩でさえも気が付けるほどの、当たり前すぎて誰も口に出さないような彼の弱みであった。大方、アンチックやマドンナから手渡された会議資料の中にも、オリーブ・オーカーに対する改善点として同じ旨が記載されているのだろう。それはガーネットにも分かっていた。
「──はい」
 けれどもオリーブから発された、その微かにくぐもった返事だけが、今のガーネットにとってはすべての答えだった。
 彼は満足げに口角を上げて、歩を拾う速度を上げた。なんだかほんの少しだけ、胸のすくような思いだった。だって、おそらく、言わなければ分からないのだ。言わなければ分からないことの方が、この世界には、舞台の影には多い。少なくとも、自分はそうだった。放り出されて、雨に濡れて、出口も見えず彷徨って、それで一体何を得ることができるだろう。ガーネットは足元の影と明かりを踏み潰すようにして歩いた。寮の窓から落ちる光が、すぐそこまで迫ってきている。
「先生」不意に、オリーブがそう呼びかける。
「ん」
 そして彼は頭上の傘を見上げると、淡く首を傾げた。「傘、不思議な形ですね」
「ああ、これ」ガーネットはオリーブの言葉に目を細めると、気分を好くしたのか傘をくるりと回してみせた。「日本の傘でな、番傘って言うんだよ」
 美しい正円を描くえんじ色の番傘は大きく、ローレアで一般的に売られている傘よりも骨の本数が多い。街灯の光を一心に受けているそれを内側から眺めると、和紙が光を透かしてこちらまでやってくる様子が分かった。そのさまはまるで、傘が赤く発光しているようにも映る。ガーネットは番傘の藤巻を指先で軽く叩いて、オリーブの側に傘を傾げた。
「大きいし丈夫だし、何より形が気に入ってる。和傘にも色々種類があってさ、中でも舞傘ってのは踊りにも使われてんだ」
「傘を持って踊るんですか?」
「粋だろ?」ガーネットは自信ありげにくつりと笑った。「一度はやってみたいものだな」
 雨はまだ止まない。きっと未明頃まで降り続けるのだろう。オリーブはガーネットが時折回転させる傘の動きを見て、ほんの少しばかりくすりとしたようだった。ガーネットの指先が傘の柄の上でト、ト、ト、とステップを踏んでいる。
「先生は」オリーブはガーネットの指先の動きを追いながら、ふと思い付いたみたいに呟いた。
「うん?」
「なんで踊ろうと思ったんですか?」
 そんな突飛にも思えるオリーブの問いかけに、ガーネットは意外そうに足を止めて相手の顔を見た。「おや、知りたいか?」
 けれどもガーネットが足を止めたのは、何もオリーブの質問に驚いたからというだけではなかった。彼は階段を上り、寮の前を刻限と共にかっちり固めている門をじっと眺めると、教師の数少ない特権である鍵をちゃらり回しながら錠前を外す。彼らは、いつの間にか帰るべきところに帰ってきていたのだ。
「分かった、教えてやるよ」玄関ポーチに立ち、傘を閉じたガーネットは、そう発しながらその石突の部分でオリーブの腹をトン、と押す。「だが、それより先に」
 そうして、彼は悪戯っぽい笑みと共に一言を添えた。「今のお前に最も必要なことを教えてやる」


「……ライスを煮るんですか?」
 コンロの点火音がチチチと鳴る向かい側で、オリーブが覗き込むようにしてそう問うた。二人分にしては明らかに大きい寸胴鍋に、二人分にしては明らかに多い数の包装米飯を放り、その上から米が浸るほどの水を注ぎ込んだガーネットは、ちら、とオリーブの方を見て頷く。
「ああ、白粥を作るからな」
 オリーブは首を傾げた。「シラガユ?」
 クーデール寮の三階に位置する談話室には、地続きで調理場が設けられている。談話室の端で磨り硝子戸を境に仕切られている調理場は、安全面の観点から普段は施錠されており、教師の持つ鍵がなければ開けることができない。
 そんな硝子戸の鍵を、先ほどもそうしたようにガーネットは教師の特権で開けてしまうと、消灯時間などはまるきり無視をして深夜の調理場に立ちはじめたのだ。今のオリーブ・オーカーに最も必要なことを教えるために。もちろん、食事である。
「まあ、リオレみたいなもんだよ。食べない?」
「はい、あまり……」首を傾げたまま、オリーブが頷いた。
「じゃあ、リゾット。あれほど味濃くないし、具も入れないけど」
 そう言えば、オリーブは合点がいったような表情をしたのちに、台所と対面に設えられている小上がり畳の上でこぢんまりと三角座りをし直した。個人的に使い慣れているのだろう、ガーネットはお玉を片手にフローリングの上を歩いていっては──彼は台所用のサンダルに履き替えていたので、鳴る足音はカツカツではなくスタスタだった──冷蔵庫の扉を開けて、小さな硝子瓶を一つ取り出している。
 くしゃくしゃになった赤い飴玉めいたものが入っているそれを、ガーネットは機嫌良さげに調理台に置く。そんな彼のことをオリーブは不思議そうに見やっていたが、しかしガーネットが水の中に沈んだ米たちをお玉で突っつき出すと、少年の興味はすぐにそちらの方へと移ったらしい。
「シラガユ……」寸胴鍋の前に腕組みをして仁王立ちをし始めたガーネットに、オリーブが再び問いかけた。「日本の料理ですか?」
「そう。よくお分かりになったな」
「響き的にそうかなって。それ、先生の好きな料理なんです?」
「いや? 俺でも作れるから便利ってだけ」ガーネットはあっけらかんと言った。「公演後は疲れやら興奮やらばっかが残って、食欲なんぞろくに湧かないからな。ただ、食わないと次の日動けないし。とりあえずこういうのを流し込んでおくに限る」
 ガーネットは思い出したみたいに今さら顔を出した欠伸を噛み殺しながら、寸胴鍋の下でこうこうと鳴る青い火の音を聞いていた。それから目分量で鍋の中に塩をばら撒きつつ、水が炎の熱さに耐えかねて大騒ぎし出すのを辛抱強く待った。それより先に、すぐ向かい側でぐう、と鳴いている腹の虫の声が聞こえて、ガーネットは思わずくすりと笑む。オリーブは恥ずかしそうに顔を伏せていた。
 ややあって、眼下の湯はついに、ぼこぼこと音を立てながら身の熱さに暴れ出すという暴挙に出た。ガーネットはそれを見るなりコンロの強さを弱火に設定し、湯の中の米を本格的にほぐし始めた。火が燃えているときの音が好きだ。水が沸騰する音も、昇る湯気が熱いのも、存外、料理を作り上げるための細々とした作業も、次の出番を待つ時間も。料理はどこか、舞台に似ているのだ。ここではいつも、熱と冷たさ、騒々しさと静けさ、火と水が共存しているから。
 しばらくののち、ガーネットのおそろしく正確な体内時計が十分の時を告げ、熱い湯の中でことことと揺蕩っていた米たちはとろりと丼の中に盛り付けられる。彼は小上がり畳に置かれた卓の上にその丼を二人分置いて、オリーブに木製のスプーンを手渡した。
「塩でしか味付けしてないけど、お前、なんか乗せる?」ガーネットは先ほど冷蔵庫から取り出した小瓶を卓に乗せ、何やら薄茶色の細い端切れのようなものが詰められている透明パックの封を切りながら、オリーブの向かい側にあぐらを掻いた。「俺は鰹節と梅干し乗せっけど」
 聞き慣れない単語たちに、オリーブの瞳が疑問符を浮かべて瞬いた。「カツオ……ボシ? ウメ?」
「鰹節な」面白げに笑いながら、ガーネットは丼によそった白粥の上にパックから取り出した薄くて細い端切れ──鰹節を乗せた。「ごらん。こいつ、踊るんだぞ」
 ほかほかと湯気の立つ粥の上に降り立った鰹節が、ガーネットの言葉を合図にするみたいにゆらゆらと踊り出した。オリーブの睫毛が、ぱちぱち、と数度瞬く。彼らは米の上に頽れることもなく、立ち上がった姿勢を保っては白い湯気を身に纏って軽やかに揺れ続けていた。踊っている。骨も心臓もないのに。
「……生きてるんですか?」オリーブは微かに口を開きながら、ずい、と丼に顔を近付けていた。
 その問いかけにガーネットはくつくつと喉の奥で笑い、それがオリーブの答えと受け取って相手の丼にも鰹節をぱらぱらと盛り付けた。「かもな?」
 スプーンを片手に握り締めたままで未だ食い入るように鰹節を眺めているオリーブを横目に、ガーネットは硝子瓶の蓋を開けて、その中から大粒のくしゃりとした赤い実を取り出した。彼はそれを自身の白粥の上に盛りながら、ちょん、とその果肉をスプーンで示す。「それで、梅干しはどうする?」
「ウメボシ」オリーブは半ば困惑した様子で、目の前の独特な見た目とにおいを放つ赤い実を見る。「なんか、プルーンみたいですね……」
「まあでも、これはちょっとキツいかもな」
「でも、美味しい……んですよね?」
「俺はな」
 自信なさげにオリーブは淡く頷いた。「じ。じゃあ、せっかくなので……」
「まじで?」驚き混じりに、ガーネットは悪戯っぽく笑った。「いいね、そうこなくっちゃ」
 そうしてオリーブの粥に梅干しを乗せたガーネットは、まだ踏ん切りが付かずに固まっている教え子に構うことなく、ぱくり、と熱い粥を大きい一口で食べはじめる。熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちにかっ食らうが主義のガーネットは、オリーブが恐る恐る一口分の粥と梅干しの欠片を口に運ぼうとする間に、丼の中身を三分の一程度は食べ終えていた。
「先生は食べるものまで踊ってるんですね」オリーブはスプーンの上でも踊っている鰹節を見て、ふとそう呟いた。「本当に踊るのが好きなんだ」
 返事の代わりにごくりと粥を飲み込んで、ガーネットは片眉を上げた。「ダンスを始めたのは十四のときだがな」
「え?」
「お前と同じ」ガーネットは休みなく粥を口に運びながらそう言った。「ルニ・トワゾに入学して初めて、俺はちゃんとダンスを学んだんだよ」
 その言葉と同時に、ようやく一口の粥をそうっと頬張ったオリーブが、一瞬だけ瞳の表面をうるりとさせた。それからすぐに眉間に皺を寄せ、少年が浮かべるには深刻げな表情を顔中に刻むと、彼は口の端でほんの少しだけ難しそうに唸る。そして、そんな教え子の表情の移り変わりを見たガーネットは思わず卓を叩いて笑い声を上げ、無理すんな、と片手を振った。けれどもオリーブは粥の上にちょんと残った梅干しをじっと見つめ、スプーンの先でそれを至極丁寧に切り崩しながら、果敢にも丼の中身を食べ進めていく。三口目にはけろりとした表情で、けっこういけます、と呟いたオリーブにガーネットはまた笑った。「惚れさすじゃん」
 それから、そう長い時間ではない。スプーンが器の内側に当たる音がからんと鳴り、ガーネットは卓の上に頬杖をついた。
「昔さ」呟きながら彼は睫毛を伏せ、そうとは分からないほどに淡く笑む。「よく行ってた場所に、不思議な人がいて、日本人の。車椅子のおばあちゃんだったんだけど、器用に自分で車輪を動かしてそこらじゅうを走り回ってさあ、いつも傘を椅子の上に乗せてにこにこしてんの」
 その声色は、常のすっぱりと物を切るようなそれや淡々と事実を読み上げるようなそれとも異なっていた。
「なんだかえらく有名な日本舞踊家らしくて」ガーネットは両手を背後について、何か可笑しそうに目を細めて微笑んだ。引き出しを開けて日記帳を眺めるというよりは、どこか微睡みながら夢の尻尾を追うような声で彼は言葉を零していたが、それでも瞳だけは、まなざしだけは震えることなく、いつかの日の情景を真っ直ぐに捉えていた。「動かせない足を自分の傘で叩いて、年を取るってこういうことね=Aって笑ってた」
 白い城壁めいた病棟と、茫漠とした広い庭。人の姿はいつもちらほらと見えるのに、どこかに空いた穴が人が立てる音だけをすっかり呑み込んでしまうみたいに静かな場所。静寂を歩いていた。使命感もなく、責任感もなく、歩いている心地もほとんどしないままに、言われるままにその道を歩いていた。足音もなく、幽霊のように。
「ここにいないみたいな歩き方をするのね」
 けれども、静寂というものは前触れもなく破られるものだった。突如として背後から声を掛けられたガーネットは驚きを隠せないままに振り返り、それから目に飛び込んできた色彩に対して重ねて驚いた。
 車椅子に座った細身の老婦人は、静謐な病院には似付かわしくない上、ローレアでは見たことのない意匠が凝らされた鮮やかかつ繊細な衣服に身を包んでおり、そんな彼女の座る車椅子の肘置きには竹の柄の傘が横向きに置かれていた。そこに座っているだけで庭の雰囲気をがらりと変えてしまうような、どこか不思議な魅力を彼女は放っていた。そして、その彼女がもつ色彩や姿の輪郭が、まだ幼いガーネットの網膜にはっきり映り込んで、彼はそれを振り払おうとぱちぱち瞬きをしながら、きゅっと唇を引き結んだ。
 半ば不機嫌そうにガーネットは問う。「どなたですか」
「舞踊家よ」
「ブヨウ?」
「日本のダンサー。分かる?」
 その柔い問いかけに、ガーネットは曖昧に頷いた。それから、舞踊家の老婦人はおそるべき対話力で自分が今日退院する入院患者であること、着ている服は日本の伝統衣装で着物という名前であること、その柄の一つひとつに意味があること、持っている傘は舞傘で、日傘だけでなく踊りにも使うものであること、肌のケアや日焼け対策は若い内からしておいた方が良いこと、自分の両脚がもう二度と動かないことなどを語った。老婦人は一つ語ると芋づる式に次の話題が引き出される、生粋のおしゃべりだった。「年を取るってこういうことね」
 ガーネットは無遠慮に問う。「踊れなくなるってこと?」
「いいえ。別の表現で踊ること」
「足が動かないのに?」
 不作法に不作法を重ねる少年にしかし老婦人はふっと微笑み、そうっと睫毛を伏せると、手元の傘をふうわりと広げた。
 そして、彼女は踊った。
 そこには、孔雀がいた。
 目の前で、孔雀が踊っていた。彼女がそっと両手で弧を描けば、孔雀の飾り羽はその場にぶわりと広がり、上半身を揺らせば孔雀はひらりひらりと光を乱反射させながら踊ってみせる。誰のために? 無論、雌孔雀のためである。老婦人の広げた舞傘は最早、今では雌の孔雀そのものであった。ゆらゆらと思わせぶりに揺れるそれは、付かず離れずをくり返す、気まぐれな雌孔雀だった。
 ガーネットは両足がその場に縫い付けられたように放心し、眼前で行われる孔雀の恋の駆け引きを言葉もなく見つめることしかできなかった。演じているものの説明などされなくとも、彼女がその踊りで何を表現したいのか、いやしているのかはひどく鮮明に、うるさいと叫んで突き飛ばしでもしなければ逃げられないほど力強く、しつこく、ガーネットの瞳の奥より奥に刻み付けられた。ミドルスクールの卒業を眼前に控えたガーネットの瞳に、その姿は痛みさえ伴って焼き付けられた。しまった、とさえ思えなかった。息ができなかった。心臓が痛かった。心臓が痛いせいで、息ができないことを感じていた。心臓が動いていると思った。今。告げられていた。これだ。
「──おそろしく綺麗だった」
 ガーネットはたった今呼吸を思い出したように息を吸って、じいっとこちらを見つめているオリーブの顔を見る。彼の声の中にあった、どこか夢を揺蕩うようなそれはいつしか消え去って、いま発されているガーネットの声色は思い出話の輪郭を取り戻していた。
「それでさあ、変なんだよ。その人、俺にも踊ってみろって言うわけ」仕方なさそうにかぶりを振って、ガーネットは片手をひらひらさせた。「人生で一度も踊ったことなんかない俺に対してだぜ? でも、なんでだろうな、俺は──」
 ガーネットの言葉をオリーブが引き取る。「踊りたかった?」
「踊った」言葉を奪い返して、ガーネットは赤い目を細めた。「演目・『孔雀は羽ゆえに』……通称『孔雀』。三分間だけの短い演目だよ。ま、あの人、教えるのが凄まじく下手だったけど」
 言いながら、ガーネットは敢えて不格好に見える仕草で、片手を宙に踊らせる。これではまるで、羽がはらはらと抜け落ちていく孔雀の姿だ。ガーネットはくつりと笑む。それでも、これだった。これだ。
「でも、楽しかった……」そして、無意識に洩らすみたいに彼はそう呟く。「あの人、俺のぼろぼろした踊りを見てやっぱり笑うんだ。綺麗ね≠チて言って、それで……泣いてた」
 なんだか胃の中が熱いような気がして、ガーネットはついていた手の片方でその場所を押さえた。なんとなく痛い。どうせ、急いで粥を食べたせいだろう。彼は息を吸って、少し笑った。
「それから数日も経たない内に、そのおばあちゃんが亡くなったって話を聞いたよ。末期がんだったらしい」
 ガーネットはその場に立ち上がり、すっかり食べ終えていた二人分の器を持って流しの方へと置いた。そうして小上がり畳から降りると、調理場の方まで歩いてゆき、流しの器に水を溜める。
「名前も知らなかった。だけど、俺はあの人の踊りをまだ憶えている。彼女の指先が孔雀の羽になるさまを、まだ憶えてる。それは俺のダンスの根本にずっとある。生きてる」ガーネットは小上がり畳の頭上にある吊るしランプを見つめ、自分からも見えない位置でぐっと片手を握り締めた。「ダンスは、舞台は、何もかもが地続きで生きてるって教えてくれる。演じた人間のたましいは、それを観た誰かの中で永遠に生き続けると」
 そして彼は、堪えきれずに握った拳を広げ、指先を明かりのやってくる方へと伸ばした。
「だから、俺は踊ろうと思った」ガーネットは心の中だけで心臓に触った。「生きてるって感じがするから」
 そんなガーネットの言葉に、オリーブからの返事はなかった。ただ彼はどこか羨ましげで眩しそうな光を目の中に浮かべながら、こくり、と小さく頷いて微笑んだだけであった。不思議と会話は、それだけで成立した。言うべきことも、この場には存在しなかった。
「なあ、オリーブ」しかし、食べ終えた後の丼を洗いはじめた教え子のつむじを眺めながら、不意にガーネットがそう問うた。「舞台ってなんだと思う?」
「舞台? あ……えっと」オリーブは視線をうろうろと彷徨わさせた後、スポンジを握っている自分の手元を見た。「劇団は巨大な鳥の巣、舞台は大空或いは険しい山、豊かな森、広大な湖、波打つ海──いわゆる自然界であり、我々はそこで息づき羽ばたく鳥の群れである……」
「座学の優等生。それはレイヴン・レグホーンの言葉だな」ガーネットは肩をすくめた。「お前自身はどう思う?」
 その問いかけに、オリーブはくるおしい哲学者から命題を投げかけられたかのように手を止め、まるで油ぎれでも起こしたみたいにかちりと動かなくなった。
 そんな教え子の様子に、ガーネットは別段怒りも焦りも感じていない顔でふっと笑うと、火の点いていないコンロの上をトン、と叩く。「俺は、舞台は暖炉だと思う」
「暖炉?」
「巨大で精巧な衣装を凝らされた暖炉。火のための劇場」まなざしで傾げるオリーブに、ガーネットは同じく視線で頷いた。「そして俺たち──お前たち役者はそこで燃える炎だ」
「炎……」
「今に分かるさ」ガーネットが肯定の代わりに瞬きをし、そこから火の粉が散る。「炎は風が吹けば大きく膨れ上がり、抑え付けられれば小さく萎む。物語に求められるまま無数に色を変え、激しく、繊細に燃え踊る。そして、それを眺めている人間にも火は燃え移る。俺がそうだったように」
 ガーネットの言葉に、オリーブは担任教師を見ていた視線を自分の手元に戻し、それから自身の心臓の辺りまでも見やった。彼はわしわしとスポンジを動かし、泡まみれになった器をどしゃ降りみたいな流水で洗いながら、す、と顔を上げて再びガーネットの方を見た。
「先生」
「ん?」
「さっきの、……クジャ、ク? って、どんな踊りなんですか?」
「おや、知りたいか?」
 どこかで聞いたような問いかけをするガーネットに、けれどもオリーブはこくりと頷き、そうしてはっきりと答えた。「はい」
 ガーネットは教え子の真っ直ぐな返事に、思わず彼の微かに緑がかった金髪をくしゃりと撫でた。その感触に驚いたオリーブが手にしていた器を取り落としそうになったので、ガーネットは慌ててそれを宙で受け止め、笑いと共に水切りかごへとひっくり返して置いた。
「ところでお前、『孔雀』がどういう意味か知ってる?」
 オリーブはふるふると首を振った。「い、いえ。全然」
「ピーコック=Aだよ」
「ピーコック?」
「ああ。だから、教えてやる」ガーネットはじつに性悪げににっこりとした。「ピーコックの踊り方を」
 そうして彼は、オリーブが何かを発するよりも早く食器棚から大きな漆塗りの盆と、その上に何人分もの丼やスプーンや、梅干しと鰹節を含む薬味を重ねて乗せて、それをずい、とオリーブの方へと差し出した。「じゃあ、とりあえずこれを持て」
「え?……え?」困惑しきった様子で盆を受け取りながら、オリーブは瞬きをした。「先生、どこに」
「まあ、まずはラシャんとこかな。ナギットも一緒だろ」ガーネットはお玉を突っ込んだままの寸胴鍋に蓋をし、それを軽々と持ち上げてにやりと笑った。「どうせ、どいつもこいつも一番必要なもののこと、一番はじめにお忘れになってるんだろうしさ」


20210101 執筆

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