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美しい話はもうやめよう



 舞台というものを、自分たちはいったい何に喩えるべきか。
 公演を終えた劇場では、先ほどまで舞台上に息づく世界を明々と照らしていたスポットライトは鳴りを潜め、そこに漂っていた静かなる熱狂や、抑えきれない興奮の拍手などもまたすでに遠くなっていた。
 観客が劇場の外へと去ってから、もうどれほどの時間が経ったことだろう。ガーネット・カーディナルは一階席の出入り口近くにあるS席に腰掛けて、ゴーストライトばかりがぼんやりと灯る舞台を思案するように眺めやっていた。時の流れを曖昧にするその電球、炎と呼ぶには心許ないそれが照らす劇場は、薄明るいというよりは薄暗がりの中で保たれる、か細い糸に等しかった。
 常々思う。マントルピースの上に飾られたシェードランプのように、観る者を眠りに誘うぬるい明かりが忌々しい、と。こんな火ではだめだ。火は闇を照らす。けれども闇がなければ、光ることさえできない。しかし、ここには幸福と思えるほどに暗やみがある。これほどまでに、光が輝くための闇があるのに。なのに、だめだ。こんな火では。ガーネットは座席から立ち上がり、ゴーストライトが差し出す細い糸の方へと歩を伸ばそうとした。
「ガーネットくん」けれども、そんなガーネットに向かって、突然背後から声が掛けられる。「もう閉めるって。早く出ないと怒られるよ」
 淡々とした調子でそう告げる声の主は、アトモスクラスの担任教師、アンチック・アーティーチョークであった。ガーネットは立ち上がりかけた腰を再び座席に下ろして、古い友人を見上げた。そして彼は、特に気もなさそうに脚を組み替えながら問う。「誰に?」
「レッドアップル学園長」
「怖かないね」ガーネットは軽く笑い、緩くかぶりを振った。「怒られ慣れてる」
「そのうち担ぎ上げられて校舎の上から放り出されても知らないよ」
「それはそれは。着地が苦手なダンススターがいるなら見てみたいもんだがな」
 皮肉っぽい笑みを浮かべて呟くガーネットに、アンチックは慣れた様子で溜め息もなく、当然のように彼の隣の座席へと腰を下ろした。ガーネットはそんな相手をちらと見ることもせずに、未だ無人となった舞台を睨んでいる。
「綺麗だったね、クーデール」アンチックはガーネットの視線を追って、舞台上にひっそりと立つか細い街灯のようなゴーストライトを眺めながら、ふとアンチックが呟いた。
「それは皮肉か?」
「いや、感想」
「薄いな」そう返すガーネットの語気に、しかし怒りは孕んでいなかった。
 薄い。ガーネットは片脚の上に頬杖をつきながら、頭の中で自分が発した言葉を反芻した。確かにそうだ。一糸乱れぬほどに統率の取れた群、どのクラスよりも躍動感のある美しいダンス、それを盛り上げる楽団ラマージュの演奏、制作部の衣装、美術、そして古来から現在に渡って評価され続けているグースグレイ・クリアスカイの素晴らしい脚本──そのすべてが揃っていたにもかかわらず、しかしクーデールは薄かった、、、、。ガーネットは瞬きもせずにゴーストライトを睨む。
 今年度はロワゾ史における生きる伝説、ダリア・ダックブルーによってクラスが新設された記念すべき年である。そして、新人公演はそんな彼が率いるエグレットクラスの初舞台でもあった。しかし、話題性という名のハンディキャップは新人公演には関係がない。それを真っ向から証明したのは、劇団ロワゾの現トップ・メルルであるマドンナ・マジェンダが担任するココリコクラスであった。クーデール、アトモスばかりか新星エグレットを差し置いて貫禄の優勝をもぎ取ったココリコというクラスは、ガーネットやアンチックが学生時代の頃からルニ・トワゾ公演での優勝を競う相手として非常に厚い壁だった。それでも、クーデールの担任教師がルビー・ルージュだった時代には、幾度もココリコの手から優勝杯を奪い取ることができていたが。
 クーデールがこのような調子なのは、何も今回ばかりの話ではない。負けが込みはじめた、という評判がクーデールに立ちはじめたのは、前任のルビー・ルージュが突如として教師の席を立ち、その後任として彼の教え子だったガーネット・カーディナルが指名されてから一年後──つまり、ルビーが育てた三年生が卒業して間もなくである。それから更に一年が経ち、先月にはルビーの二年生も卒業した。彼の時代の頃に一年生だった生徒たちが今年度は三年生となり、実力は十分なのにもかかわらず、未だクーデールは低迷が鳴り止まない。レッドアップル学園長にクーデールの担任がガーネット・カーディナルに変わって良かった点は?≠ニ問えば、彼はにっこりとしてこう言うだろう。中途退学者が大幅に減ったことですね=c…
「なあ、面白いよな?」つと、呟くようにガーネットが問う。「『ドッグ・イート・ドッグ』。お前、どうだった?」
「面白かったよ、あれはストーリーも分かり易い」アンチックはごくごく自然に頷いた。「古典にしては、今でも通用するダンス表現が多いから生徒にとっても良い勉強になるよね。アンサンブルキャストの群舞も多いし」
 アンチックの返答に、ガーネットもまた小さく頷く。「『ドッグ・イート・ドッグ』はクーデールにとっては登竜門的作品だ。俺たちだって、新人公演で演っただろ」
「そうだね」かつての時代を思い出す素振りもなくアンチックは微笑んだが、それと同時に彼の瞳の中でひらりとした光がひらめく。「でも、ちょっと意外かな」
 その物言いに、ガーネットは怪訝と不機嫌をないまぜにした表情で眉根を寄せる。
「クーデールが新人公演で演じるのは去年も、その前も、ルビー先生の時代からずっとこの作品」ただ事実を並べ連ねているような調子でそう発するアンチックは、しかし不意にガーネットの方を見て、その青みがかったグレイの目を少し細めた。「ガーネットくん、学生時代はルビー先生の敷いたレールに従うのがあんなに嫌いだったのに」
 それから、一瞬の沈黙。ガーネットは内心、うなじに刃物でも突き付けられたような気分になりながら、けれども比較的のんびりとして見える速度でゆったりとアンチックの方を向いた。
「ガーネットくん、もう学生じゃないんだよ=v普段よりも柔らかく、そして普段よりも平たい音でガーネットはアンチックの声色を真似た。「お前の口癖だぞ、アンチック」
 そんな親友を相手に、アンチックが肩をすくめる。「言葉の綾だよ」
「意味が分からん」ガーネットはまなざしばかりで首を傾げた。それから人差し指の腹をアンチックへと向け、その頤を上げるような仕草をする。「そもそも、お前のクラスだって負けたんだ。どうしてそう余裕でいられる?」
「まだ分からないからね」アンチックは平然と言ってのけた。
「何?」
「本当に勝ったかどうかは、次の公演まで分からないよ」まるで周知の事実をわざわざ口にするようにアンチックは発した。「教師の視点ではね」
 そんな相手の物言いに、ガーネットは言外に付き合ってられないと溜め息を吐いては座席の背もたれに深く座り直した。アンチックは尊大な態度の後輩──教師的視点では──に多少困ったふうに眉を下げてから、吹けば飛びそうな明かりの方を向いた。
「君だって、さっき言ってたでしょ。新人公演は登竜門だよ。ここで脱落する生徒も少なくない」その世界最後の点滅みたいな光をじいと見つめながら、しかしアンチックは微かに伏せた睫毛の隙間から明かりとは別の何かを眺めているようだった。「でも、まだくぐっただけに過ぎない。この公演で何を学んでどう自分の力にするか、次の舞台に活かせるか。それが真に分かるのは春公演だ。たとえ新人公演で勝ったとしても、それを身にできなければ意味がないからね」
 ガーネットは、今この隣人が、無人の舞台上に何を見ているのかをおそらく正しく理解できた。過去だ。それがどの辺りの過去なのかは分からない。今しがた終えた今年度の新人公演なのか、或いは前年度、前々年度の教え子たちによる新人公演なのか、それとも……
 それとも、更に前、自分たちが演じた新人公演の影なのか。
 ただ、それよりも分からないのは──ガーネットは不意にこちらへと視線を戻したアンチックと目が合った──何故、この男がこうも容易く過去の幻影を振り払って物事を見据えることができるのか、ということだった。舞台の板を焼くみたいに、そこここであの日々の残り火がこうも揺らめいているというのに。こちらを見て、まだ燃え足りなかったと恨めしげな目をしているというのに。自分自身の影すらも。
「お前、悔しくないのか」ガーネットはアンチックのその迷いなく見える灰の瞳から顔を背けて、さながら床に落とすように呟いた。「負けは負けだろう」
「もちろん、悔しいよ」ガーネットの言葉にアンチックは浅く頷いて、それから少し前のめりに相手の顔を覗き込んだ。「だから次は勝つって言ってる」
「……嬉しそうに見えるが」
「それもあるよ。みんな、顔つきが変わったからね」
 言われて、ガーネットはつと、舞台の上から薄暗い観客席を見下ろした。席は立っていない。ただ、そういう心地がした。たった今、自分は舞台上のゴーストライトとまるきり同じ位置に立ち、関係者席に座ってこちらを眺めているアンチックのことを見つめていた。
 アンチックはとうの昔にあちら側へ行ってしまった。かのマドンナのように、圧倒的な指導者としての才と役者としての才の両方を、しかしどちらかが劣ることなく兼ね備えているのならばともかく、己のような凡百がより良い教師となるためには、今いる立ち位置にいつまでもしがみつかないということが考え得る中で最も冴えたやり方なのだろう。その判断が迅速にできること、それもまた人は才と呼ぶ。現に、天才と呼ばれたアンチックでさえ早々に舞台を降り、未来の種を学園に捲いては、アンチック・アーティーチョークのアトモスクラスという巨大で強固な大樹をすでに育て上げているように見える。
 ならば、俺は?
 まだ、ここにいる。ここに立っている。自分もいつかは、などという想像をするだけで胃の中がひっくり返りそうな思いのまま、未だここに立っている。俺を見ろ。鬼火みたいな後悔が舞台の上で燃えている。俺を見ろ。焦燥が吹いてその炎を急き立てる。俺を見ろ。欲望が真っ赤な色をして一面に燃え広がる。俺を見ろ。その熱さで踊っている。ここは最早燃える鉄の板だ、一人で踊るには熱すぎる。足の裏の皮膚が熱に溶けて、舞台から離れない。お前らもそうだろう? 振り返れば、新人公演の結果を受けた教え子たちの表情が火の中に見えた。果てしない悔しさ、怒り、焦り、苛立ち、怯えが、無数に。お前らも、そうだろう? 俺たちはもうどこにも行けない。どこにも。物語と楽の音に踊らされるこの身のせいで。
 揺らめく火に手を伸ばせば、そこから身体が燃えて焦げて灰になる気がした。分かっている。ここにいてはいけない。否、ここにはいない。いる、気が、している。自分だけが。だって、自分たちがルニ・トワゾ劇場の舞台から卒業して、今年で何年になる? 自分は、この舞台の上にはいない。在るのは、己の手では一つの勝ちも飾ることのできなかった瀕死のスワンの亡霊めいた炎ばかりだ。柔いからだの雛鳥たちを、こんな火の上で踊らせてはいけない。いけないから、ここではこんなに必死になって、ルビー・ルージュの板で上から覆ってまで封じ込めているというのに。それでも、公演が終わって人が捌ければ、息を潜めていた火が息を吹き返して、何もかもを焼き尽くして踊りながらこちらを指差すのだ。お前の負けだ!=c…
 舞台のゴーストライトを瞬きもせずに見つめるガーネットの瞳には、影とも光とも取れない名状しがたい色がいくつも浮かんでは消えてをくり返していた。アンチックはそんな相手に気付いてか気付かずか、何かを思案するふうに少しのあいだ瞼を閉じ、それから静かな声で、勝つよ、とそう呟いた。
「アトモスが勝つよ」そして、再び彼は先ほどよりも確かな声色で言い切って、その視線をすっと真っ直ぐに舞台へと向けた。「お行儀の良い君になら、まず負ける気がしないし」
「それは、……」
 相手はこちらの顔などまるで見ていないというのに、それでも何故か目が合ったような心地がして、ガーネットは一瞬言葉に詰まる。あまりにも短い沈黙を、けれどもゴーストライトの頼りない光が重たく浮き彫りにしていた。ぷつり、と言葉の糸が切れる音を誤魔化すように、ガーネットは息を吸う。「……売り言葉かな?」
「どうだろう」アンチックはふっと笑った。「そう聞こえた?」
 そんな相手の表情を目には映さずに、ガーネットは眉根を寄せて喉の奥で笑った。ああ、学生時代のようにぐしゃぐしゃに頭を掻き毟って、声を荒げながらこのいけ好かない親友のことを思いきり詰られたらどれほど良かったか。心臓の内側に爪を立ててがりりと掻きながら、ガーネットは席から立ち上がり、言葉の一つも発さないままにアンチックへと背を向けた。
「ガーネットくん」けれども、そんなガーネットの胸中など意にも介さず、アンチックは振り返って彼のことを呼び止める。
「大先生」ガーネットは、アンチックの方を見向きもせずにその足を止めた。「まだ何か?」
 アンチックは相手の問いかけに、頷きも否定もしなかった。ただ彼は自身のグレイをガーネットの背へと向けながら、すっと静かに息を吸い、それから、
「──俺の方がうまく演れる=v
 そのように彼は、自身の隠し持っている苛烈さを以て、普段よりもいくらか低い声色でガーネットのそれを模した。「……その顔、やめた方がいいよ。君、もう学生じゃないんだから」
 アンチックはそれ以外には何も言わなかったが、しかしおそらく、誰もがそうだと評するそのおそろしい観察眼には、ガーネットが微かに身体を強張らせたさまも映っていたことだろう。ガーネットは履いているハイヒールの踵に力を込め、口内を奥歯で噛んだが、それでもほとんど片意地のようなもので彼は、ハ、と舌の上で笑った。
「おありがてえお言葉どうも」そうして意地悪く唇を歪め、振り向きもしていないのにその目を細める。「肝に銘じるよ。飲み過ぎて機能していないが」
 その皮肉に、アンチックは言葉を返すこともしなかった。彼は眼前の意固地な親友に対し、まったく日常茶飯事であるというような顔をして、ふ、と小さく笑っただけであった。
「『ドッグ・イート・ドッグ』って言葉、僕はけっこう好きだな」
 そして、不意にアンチックはそう発した。ガーネットから飛んできた言葉の矢が刺さることはもちろん、追うことも、また拾うこともなく、彼は彼で新たな言葉をガーネットに向かって放ったのだった。
「共食い?」相手の言葉に、ガーネットは眉を顰める。「俺は嫌いだ」
「どうして?」
 問われて、ようやくガーネットは一瞬だけアンチックを振り返り、そうして当然のごとく笑った。「スケールが小さい」
 それだけ言ってのけると、ガーネットは足音を呑み込む赤絨毯の上をすたすたと歩いてゆき、苦々しい疲労感を抱えながらやっと劇場の出入り扉に手を掛けようとした。けれども、そんなガーネットの背に本日何度目かのアンチックからの、ガーネットくん、という呼びかけがあり、彼は最早隠すこともなく大いに溜め息を吐いた。「しつこい。何?」
「十分後から会議だよ」言って、後輩教師のつれない態度に、アンチックはどこか大げさに肩をすくめてみせた。「忘れてたでしょ?」 
 それからガーネットがルニ・トワゾ劇場の外に出ると、斜陽のまばゆい光が学園中を橙色に染め上げ、そのさまは薄暗い劇場内にいた両目が自分の意思とは関係なく細められるほどだった。ガーネットは自分の身体にのし掛かる徒労感と、苛立ちにも似た無力感を燻らせながら、先ほどまでは控えめに鳴らざるを得なかったヒールの音をカツカツと鳴らしては、会議室のある校舎を目指して進んだ。
 しかし、ほとんど歩数も稼がない内に、ガーネットはつとその足を止めてしまった。学園内には生徒たちも含め、もうほとんど人の姿は見られない。観客たちはとうの昔に帰路に就き、生徒たちは公演を終えた疲労や脱力感のために寮に戻ったか、或いは達成感のために打ち上げにくり出したかしたのだろう。けれども、そんな中で、よく見慣れた輪郭が夕暮れの中に浮き上がっていた。
 少年は自身の片側を斜陽に照らされながら、何かひどく申し訳がなさそうな表情で俯いていた。深く影が落ちる顔の内、唇がもごもごと浅く言葉を発しているらしいことだけがかろうじて分かる。二人の何者か──どことなく容姿が少年に似ているような気がした──に見下ろされながら、逃げ場を失ったみたいに両手で腹を押さえ、背を丸めて浅い頷きをくり返している少年の顔色は、夕陽の橙色が差しながらも青白く見えた。それでも、ガーネットは構わずそちらの方へと足を進めた。話している相手が誰なのか? 一体なにを言われているのか? そんなことは彼にとっては二の次だった。
「オリーブ」そうしてガーネットは少年の背後に立ち、ごくごく静かに相手の名を呼んだ。「姿勢が悪い」
 劇場の暗やみに当てられて視野の狭まったガーネットがいま気になるのは、とにもかくにもただその一点のみだったからである。
 強い夕暮れの光のために、オリーブから濃く長く伸びる影が曲がった背の印象を更に強めていた。ひゅっと息を呑む音を発したのは一体、その場にいた誰だったろうか。オリーブはガーネットの言葉に弾かれたように顔を上げて振り返り、明らかな怯えの色を両目の中に浮かべながら、どこか縋るみたいな表情で担任教師の方を見た。
「──発声練習からやり直せ」
 だが、ガーネットはそんな教え子に差し伸べるものは持っておらず、その指は無慈悲にも思える速さで校舎の方、クーデールのダンスルームがある方角を指す。「できたと思ったら戻ってこい」
 ガーネットの有無を言わさない物言いにただならぬ気配を感じたのだろう、オリーブはまるで背を叩かれたようにその場から駆け出し、校舎の方へと走って行った。
 そして、残されたガーネットはといえば、早くも今しがた発したルビー・ルージュ先生の言葉≠ノ後悔の念を抱きはじめていた。学生時代、幾度も幾度もルビーから言われたこの言葉は、相手に驚くほどの嫌悪感と焦燥を覚えさせる。少なくとも、公演の直前や公演直後に学生役者へと発するべき言葉ではない。それがまともな教師ならば。故に、ガーネットはたった今オリーブが走り去った方へと自分も向かおうと片足を踏み出した。
 瞬間、学園内に軽やかなチャイムの音が鳴り響き、次いで教師の招集を掛ける学園長の声がそれを追う。ガーネットは内心で舌を打つと、駆け出そうとしていた足を元の位置に戻して、ふと思い出したようにくるりと背後を振り向いた。
「失礼、ご両人。道でもお訊きになっていらっしゃった?」そうしてガーネットは、自分と同じくこの場に取り残されている二人を見るともなく見て、引き攣りそうな顔の上に出来うる限りの柔和な笑みを浮かべた。「お帰りは正門の方からお願い致します」
 くり返しのチャイムと学園長の声が、まるで残照のように辺りに響いている。ガーネットはその柔らかい音に急き立てられながら、今度こそ舌打ちをして、会議室に最も近い出入り口へと向かって足早に歩き出した。


20211211 執筆

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