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ねえ、マリア



 親愛なるあなたへ。
 ダリアはそんな言葉から始まる手紙のことを考えて、まるでたったいま呼吸の仕方を思い出したように、小さく息を吐いた。
 二階建てをした寝台列車のコンパートメント室には、大きく景色を切り取った車窓から、夕暮れ前の微かに黄みがかった光が差している。そんな列車のスイートで、彼は二つ並んだ寝台の向こうにあるソファに腰掛けており、そこで物憂げ伏せられた睫毛を、しかし陽光はまあるく照らし出していた。
 白く、そして淡くこがねの色を宿した陽。
 窓から見える風景はその光を一身に浴びて輪郭を柔らかくし、この間まで寒々とした衣装を着ていた木々たちは、すっかり黄緑色の甘い色合いの服へと衣替えを済ませていた。もう、じきに春が来る。とてもカーテンを閉める気にはなれなかった。レースから透ける陽の光もまた格別に美しいことを、たとえ知っていたとしても。
 ダリアは、茶の漆塗りがされたテーブルの上でいくつかの筆記用具を広げていた。ぼろぼろの革に守られた手帳と、学生が使うみたいな罫線入りのノート、使い古してところどころが剥げている濃藍の万年筆、黒いインクがたっぷり入ったインク壺、先の丸くなった数本の鉛筆と黒ずんだ消しゴム──筆圧が強いために消しても消しても跡が残ってしまうので、使わなくなって相当経つ──最後に、真っ白な原稿用紙。
 彼は滑らかな手触りをしている白い紙を好み、それを原稿用紙、と自ら呼んで己を鼓舞していた。ダリアは文字、或いは文字らしきものの手によって隅々までびっちりと征服されている手帳を開き、彼以外が見たなら落書きにさえ映るプロットが縦横無尽に殴り書きされているノートをその横に置く。そうして、右手の最も近い場所に原稿用紙を。万年筆の蓋をきゅるきゅると回して開け、ペン先を原稿用紙に触れるか触れないかの位置で浮かせる。彼は息を吸って、吐いた。
 まったく、なのだ。
 まったく。まったく、まったく、一行たりとも、一言たりとも、一語たりとも、一文字たりとも、物語は彼に話しかけなかった。ぱったりと、風の音ほども、吐息の音ほども、物語は彼に話しかけなかった。物語はまったく何も言わなかった。まったく、何も言わずに彼の元を去った。それから、今日でちょうど一週間になる。
 一週間。ダリアはペンの握りすぎで親指と人差し指、中指、小指とそのほとんどが変形してしまっている右手を眺めた。今までの人生において果たして、一週間も何も──ほんとうに何も、一文字も物語を紡がないでいたことなどあっただろうか? ましてや、書く時間も、書こうという気持ちも嫌というほどあるというのに。それなのに、一文字も書かない、書けない、などということが。
 確かに数十分や数時間のあいだ、かちりと筆が止まってしまうような軽い不調はこれまでにも数え切れないほど経験したが、それらは重くとも数日が限度で、一週間も続いたことはない。自分でも気が付かない内に霧は晴れ、ペン先は白い海原に再び船を漕ぎ出すものだった。けれど、今回は。今回ばかりは、いつまで経っても霧が晴れないのだ。そういえば、自分は船の漕ぎ方は分かっても、霧の晴らし方は知らなかった。ダリアはペン先の銀色を見つめる。
 ずっと。
 ずっと、何かを書いてきた。
 書かずにはいられなかった。そうしていないと、息さえできないような心地がした。書きたかった。書かなければいけなかった。そうでなければ、生きていられなかった。とかく、物心ついた頃から自分はこんな様子だった。息がしづらいから何かを書いていた。息ができないから何かを書いていた。息を繋ぐために何かを書いていた。いつからか、何かを書いていなければ息ができなくなっていた。物語は呼吸だった。書かなければと思う。書かなければ。書けなければ。書けないのなら、それこそ。
 それこそ、物語に死ね、と言われているようなものだった。
 けれども、筆は微動だにしない。今このときも、ペン先は汚してしまうだけの原稿用紙と触れ合うことを拒否し続けた。目の前には、無数のメモ書きがされている手帳や、いくつもの物語の構想が書かれているノートが広げられているのに、自分が何を書きたいのか、何が書きたかったのかが、それこそ身体中に穴が空いたみたいに何も、何もかも思い出せなかった。書きたい物語が、こんなにたくさんあったはずなのに。
「ダリアくん、……何か書いてるの?」
 ふと、背後から車窓の風景よりも柔らかな輪郭をもって投げかけられた声に、ダリアはぴく、と肩を揺らした。片手に万年筆を握り締めたまま、彼は後ろを振り返る。
「マリア」
 そうして眉尻を下げて微笑み、ダリアは相手の名を呼んだ。それから淡くかぶりを振る。
「うん……ううん、違うんだ。まだ、……」
 窓に近い方の寝台で先ほどまで微睡んでいたマリアンヌは、どうやらたったいま目を覚ましたらしい。彼はゆっくりと身を起こしながら、どこか申し訳なさそうに笑うダリアを視界に映していた。
「ああ、いいの、ダリアくん。だいじょうぶよ。僕だって眠っちゃってたもの。あ、そういえば、……僕、どれくらい寝ていた?」
「え? ええとね、前の駅を出てからだから……でも、三十分くらいだと思うよ。まだ日も落ちてない」
 ダリアは宙を眺めて、手の中でくるりと万年筆を回した。その仕草は彼が物心ついたときから、すでに彼の癖になっていたものだった。時折かたんと揺れる列車の中、窓の向こう、街並みの隙間から光って見える海を映して、ダリアはそれよりも深い色を宿している自身の瞳を細めて笑んだ。
「次の駅まではもう少しかかるし、まだ眠っていてもだいじょうぶだよ、マリア」
 彼の言葉にマリアンヌはぱちりと瞬きをし、そうして自分の身体に掛けられていた、寝台列車の備え付けとは別のブランケットをちら、と見た。フリンジ付きの分厚いそれは、ダリアが少年時代から好んでいたタータンチェック柄である。マリアンヌは微かに息を吐いた。それから自分のことを少々大げさに毛布にくるんでいた相手の方へと視線を戻して、こてりと首を傾げる。
「それなら、ダリアくんも眠ったら?」
「僕?」
 ダリアもまた自身のまなざしで首を傾げた。
「ええ。あまり眠れていないんでしょう? それに、このベッド、とっても気持ちがいいのよ」
 マリアンヌはぴんと張られたシーツを、その手のひらで柔らかく撫でてみせる。そんな相手の様子にダリアは困ったみたいに──実際困っていた──視線を彷徨わせ、マリアンヌの周りで輝く、太陽が出ているときにだけ舞う金色の粒子を誤魔化しついでに眺めた。何かを言おうと薄く唇を開いて、けれどもでも≠ニだけど∴ネ外の言葉が己の口から出てくる気がしないために、息を呑む他に何もできずに彼は再び口を噤む。ペンを握る手の中にじわ、と汗が滲んだ。嫌な汗だった。それこそ言葉を失うような。
「ダリアくん」
 呼びかけが鳴る。列車がかたん、と言った。ダリアはマリアンヌの目を見た。
「ほら、ここよ」
 彼は続けて、とんとん、と優しく寝台の上を示している。ダリアは迷ったのちに、結局ソファから立ち上がって、ふらりとした足取りで相手のところまで向かった。マリアンヌはよろよろと自分の元へやってきたダリアを隣に座らせると、自身のさくら色をした唇をどこか安堵したみたいに和らげた。
「マリア、……」
 相手の抜けるような碧眼があまりにもやさしい色をしているから、ダリアは思わずその渇いた喉から名前を呼んだ。名を呼ばれたマリアンヌは心得ているようにそっと微笑み、凝り固まったダリアの肩を撫でながら、そこに先ほどまで自分の身体に掛けられていた厚手のブランケットを掛けてやる。
「ねえ、……僕はまだ、何も、書けていないんだよ……」
「うん」
「それに。今日なんか、教壇にだって立ってもいないし」
「うん、そうねえ」
 変わらず、マリアンヌはブランケットの上からダリアの肩を撫で、そうして腕をとんとん、と柔く叩いた。それはまるで、だいじょうぶよ、と語りかけるような仕草だった。まなざしの熱に、彼の肩にのし掛かる期待や、呼吸を急き立てる焦燥は感じない。だからといって失望や落胆の類も、マリアンヌの視線にはこれっぽっちも、陽光の粒子の一粒分ですら混じっていなかった。こちらに向けられるのはいつだって、どこまでも深い信頼と、いつまでも待ってくれるような愛情めいたまなざしばかりだった。
 白くなるほど握り締められていたダリアの右手からほんの少しだけ力が抜ける。マリアンヌはそんなダリアの顔を覗き込んで、影の落ちている鴨羽色の瞳を見た。
「ダリアくんって、最近はいつも黒いインクで書いてるの?」
 なんだか、突飛にも聞こえる問いかけだった。ダリアはぱち、と瞬いて、少しだけ首を傾げようとし、けれども相手に向かってこく、と頷いた。
「ん、ん? うん、そうだね。黒じゃないと、なんだか書いてる気がしなくて……」
「鉛筆は? もう使ってない?」
「あんまりね。ほら、僕、昔っから筆圧が強いだろう? 消しても消えないし、すぐ芯を折ってしまうし……だから、いっそ、消しゴムで消すという発想を消してしまおうと思って」
 年々筆圧が強くなってる気がするよ、と笑って、ダリアは空いている左手でぽり、と頬を掻いた。右手では相変わらず万年筆が回転する。そのさまにマリアンヌは何を思ったのか、ふんわりとしたベッドから不意にすっくと立ち上がり、荷台に載っている自身のトランクを引っ張り下ろした。
「あのね、ダリアくん。僕も今日、ペンとノートを持ってきたのよ。それに、インクも」
「マリアも?」
 マリアンヌは頷き、トランクの蓋をするりと撫でる。
「ダリアくん、僕と遊ぶときはいつも持ってこないでしょう、筆記用具。だから……」
 革張りのそれは甘い飴色をしており、そこに触れる彼の指の白さをより際立たせていた。ダリアはそんな彼の指先が革の表面を滑るのを見つめながら、睫毛を伏せるようにして笑むマリアンヌの顔をそうっと窺った。
「マリア」
「うん?」
「ど、んなペン……と、ノート? 見せて、くれるかい」
「ええ、もちろん」
 言えば、マリアンヌは膝の上に乗せていたトランクを自分の右隣へと置いて、その留め金をかちゃりと外した。ダリアといえば、なんとなくそこを直視しているのが憚られたために、思わず顔ごと視線をトランクから背けていた。それからほどなくして、もういいよ、の合図として、彼はマリアンヌに手の甲をとんとんと叩かれる。
「ダリアくんは、インクは絶対に黒じゃないと嫌?」
 そうして渡された手帳はトランクと似た色の革に包まれていたが、ダリアが驚いたのは、金の罫線が引かれた手帳紙が淡い水色を湛えていたからであった。綺麗な紙だな、こういったものをマリアはいつもどこで買うのだろう、そんなことを思うのと同時に、ああ、なんだか海みたいだな、とダリアは空の色を映して揺らめく水の色を想像する。
「そんな。嫌なわけじゃあ、ないよ。ただ、手に馴染むっていうだけで。実際、インクがなかったら、そこにあった誰のかも分からないボールペンを使ったりするからネ。真っ赤なインクの。はは……」
 マリアンヌの問いかけに、ダリアは手帳を眺めるために伏せていた睫毛を上げてそう答えた。言葉尻が萎むダリアの声は、書くことができない今はそれも叶わないけれど、という自虐的な苦悩を言外に滲ませていた。まるで遠い昔を夢想するようなダリアの声色に、けれどマリアンヌはにっこりわらって、後ろに隠していた両手をじゃあん、と発しながら相手の目の前に差し出してみせた。
「それなら、今日はこれを使ってみるっていうのはどう? 気分転換に」
「……これは」
 眼前で、琥珀色をした水面が揺れている。
 透明の瓶の中でゆらゆらと揺蕩うそのインクは、窓から入り込む陽光により金色の輪郭を保っており、列車が揺れるたび、あたたかみのある色の中にどこか鮮烈な光を宿しては輝いていた。ダリアはそのインク瓶をマリアンヌから受け取りながら、ほとんど無意識に車窓へとかざし、それから中身を透かし見る。
「綺麗な色でしょう? 夕焼けみたいで」
「夕焼け……」
「そう、夕焼け。ダリアくん、好きだよね?」
「夕焼けが?」
 ダリアの視界で、過ぎゆく街並みが琥珀色の海に溶けていた。彼はマリアンヌの問いに少しだけ目を上げる。
「──うん」
 そして、半ば反射的にそう頷いた。
 夕焼け。ダリアはそのこがねの色彩をインク越しに眺める。夕焼け。祈りのような言葉を口の中だけで呟いて想い出すのは、やはり、あの日に廃植物園の展望台から見た、身を投げてもいいと思えるほどの夕焼けだった。
 夕焼け。
 夜明けを嫌っていた自分にとって、それよりも柔らかく街々を染める橙色は、もしかすると安堵の色だったのかもしれない。何もかもをまばゆく鮮やかで、美しくもあたたかな色で包み込む時間。水平線を赤く光らせる陽がゆっくりとうなぞこに沈み、次に現れる月は淡くやさしい白で海を、街を、人を、世界を照らしてくれる。毎日、毎日、今日と明日を怖がっていた自分は、今日の終わりを感じることができて尚、明日の始まりを未だ予感させない黄昏時に安心感を覚えていたのかもしれない。ああ、このような思いすら、果たして好きという言葉でくるんでしまっていいのだろうか、彼のもつやさしさに甘えて。ああ、けれど。けれど、これを、こんな思いを愛だったと呼んではいけないのなら、きっと、僕は。
「うん……」
 ぽたり、と心臓の奥底、それでも確かに感じ取れる場所に水滴が落ち、深呼吸めいた波紋が広がる。似たような音を立てて、目の前のインクが揺れていた。
「……そうだね、ああ、そうかもしれない。そうだったのかも……」
 それは、走る列車の音にかき消えそうなほど小さな呟きだった。しかし、きっとマリアンヌの耳には届くほどの声でもあった。ダリアは車窓に向けていたインク瓶を下ろし、ふ、とマリアンヌの方を向いては、いつかの少年の日のごとく、困ったみたいに眉尻を下げる。
「夕焼けの前では、なんだかすべてがゆるされる気がして」
「すべてが?」
「すべてが。太陽と月のあいだにある空が、あんまり美しいものだから。そこに、何もかもが溶けていくような気がする。本来、ゆるされるはずもないことさえ、みんな」
 そう、息を吐くように彼は言った。その青い瞳は、隣の陽光を溶いた柔い髪先を見ていた。けれど、マリアンヌの目は、それよりも柔らかいかたちと光を伴ってダリアの瞳を見つめている。そして、まるでそうあるのか自然であるかのように、さながら呼吸じみた速度をもって、二人の視線がかち合った。
「……マリアの目は、綺麗だね。早朝の湖、みたいだ」
 ダリアがそんなふうに言ったのは、或いはマリアンヌの視線の中に、自分が焦がれる夕焼けめいたものを垣間見たためだったかもしれなかった。
 言ってしまってから、彼は心の内側だけで微かに首を振る。
 マリアンヌの甘やかなまなざしに包まれるのは、いつだって心地が好かった。今だって。だけれど。だけれども、ゆるさないでほしかった。何かを言う前から、すべてをゆるさないでほしい。だって、誰かに何かを問いかける勇気を教えてくれたのは、きっと、いつも君だったのだから。何も言わなくていいのならずっと何も言わないでいたいだなんて、そんなものは少年時代のかさぶたを盾にした、ただの言い訳に過ぎないのだから。だから、君だけは。君にだけは。
「ありがとう。ダリアくんの目もとっても綺麗よ」
 マリアンヌは笑った。どこか脈絡すらなく聞こえるダリアの言葉を受けても尚、彼は淡く睫毛を伏せながらそう微笑むのだった。
「──いつも、綺麗」
 なんだか、その言葉がすべてのような気さえした。
 ダリアは瞬きもしないままに、右手に乗っている万年筆をぎゅう、と握り締めると、音もなく息を吸って、それから吐いた。開きっぱなしの手帳に目を落とす。そこに在るのは、冬と春のあわいにある、まだ冷たい海の色。かたん、と予告なく鳴る列車が、時は変わらず動き続けていることをこちらへと伝えていた。目を上げる。車窓の向こう、段々と存在を大きくして近付いてくる海もまた、この紙と似たような色をしているのだろうか。
「ねえ、ダリアくんのペン、僕も見ていい?」
 ふと、マリアンヌが軽く挨拶するほどの調子でそのように問うた。ダリアは反射的に相手の方を見る。
「あ……うん、もちろん」
「やったあ。ふふ、ありがとう」
 頷きながら、彼は自分のものよりも一回りは小さいマリアンヌの手のひらに、自らが使い倒しすぎて本当に万年持つのかも分からないペンをそっと置いた。
 喜色ばんだ表情をしていたマリアンヌの目が、手の上に乗った万年筆を見やるためにひっそりと伏せられる。窓を越えてやってくる傾きかけの陽に照らされて、その睫毛の隙間がきらきらと光っていた。マリアンヌはそこに在るのが心底たいせつなものであるかのように手の中の、ところどころ塗装が剥げて白くなってしまっている濃藍色の万年筆を眺めては、
「なんだか、星空みたいね」
 と、そんなふうに言ってみせた。
「星空?」
 ダリアはおうむ返しをしながら、ぱち、と瞬く。
 マリアンヌは頷きの代わりに両手の親指と人差し指を使って万年筆を横向きに持ち、それを目線の高さまで持ち上げてみせた。
「ローレアの空。特にエクランの方の。ね? ルニ・トワゾでは、きっとこういう星空が見えるでしょう?」
 彼の言葉に、ダリアはもう一度瞬いた。そうしてみると、不思議なこと。マリアンヌの持つ万年筆が陽光の白い輪郭を保ちながら、淡く、静寂の色に輝いているのがダリアの目に映り込む。
 星空。
 夕焼けが過ぎた後の、光がどれほど瞬こうとも静かで厳かな、一日の中で最も神聖な時間。想い出すのは、学園のグラン・ククから眺める、銀河さながらの星空だった。ダリアはマリアンヌの方を向き、目を細めて笑む。マリアンヌの瞳が、歌っているように見えたのだ。そして、そこに美しい星々が映るさまを、彼は密やかに見つめていた。
「……マリアの方は?」
「うん?」
「マリアの方は、どんな星空が見える?」
 問われて、マリアンヌはちらりとダリアのことを見た。それからくる、と万年筆を回しながら、彼は、んん、と唸る。どこか大げさに、それでいて楽しげに。
「そうねえ。この辺りかしら」
 ややあって、彼はとん、と形の良い爪の先で、傷付いた濃藍の表面、万年筆の星空の一部を示して笑った。つられて、ダリアもくすりとする。
 そうしてみると、マリアンヌは更にその笑みを深めて、ついには自身の唇から歌を零した。ラヴェンダーは青い、ララ、ラヴェンダーは緑……
「マリア」
 気が付けば、ダリアもマリアンヌと一緒になって歌っていた。
 それは子どもみたいな気持ちで、大人のものをした声で。唇からは、歌が溢れて止まなかった。そうして一曲分を共に歌い終えたのち、彼は随分と車窓に近付いた海の姿を目に映しながら、マリアンヌに向かって声色だけで問いかけた。
「昔、君に書いた物語のこと、憶えてる?」
「もちろん。忘れるわけがないわ」
「あ、ありがとう。それで、あのノートを受け取ったとき、……読んだとき、なんだけれど、マリア、君は……あれのことを、一体なんだと思った?」
 そんな、喉元に言葉がつかえたような質問に、けれどマリアンヌは瞼を閉じた。彼は手の上に未だあるダリアの万年筆を指先でそうっと撫でて、それから左胸の上に片手を置くと、何かを思い描くように、夢想するように、淡くあわく睫毛を上げる。
「物語。君が書いてくれた、僕のための物語。とても、とっても嬉しいもの。宝物。ダリアくんから生まれたもの。すごく、美しいもの。待って、まだあるわ。それから……」
 ダリアには、マリアンヌが息を吸う音が聞こえた。それはまるで、歌うたうかのようだった。
「──ダリアくんがくれた、僕への手紙」
 それからどちらからともなく視線がかち合う。目が合ったことすら、二人は気が付かないほどであった。目が合ったから微笑み合ったことすら、二人は気が付かないほどであった。
 マリアンヌが首を傾げ、彼の何よりもやさしい色をしたミルクティーブロンドが揺れる。そうして、今までどこに隠し持っていたのだろう、白軸をした一本の万年筆を取り出して、それを顔の横で指揮棒みたいにゆるりと振った。
「ダリアくんも、たまには書いてみたら?」
「うん?」
「誰かのためじゃなくて、自分のための物語」
 その言葉を、ダリアは全く同じようにくり返すことさえできなかった。ただ、手のひらに微かな重みをもって乗せられた白い万年筆を、彼は見つめていた。手帳の紙は淡い青で、渡されたペンは白く、その中に満たされているインクは、きっと夕焼けの色をしていた。ダリアはマリアンヌを見る。いつも書いているよ、と言おうとした。けれど、マリアンヌのまなざしがあまりにやさしくて、できなかった。
「……海が近いね、マリア」
 だから彼は黙って息を行い、それから、景色も見ずにそう言った。
「そうね。もうすぐ日も暮れるわ」
「うん。次の駅で、降りようか」
 ダリアはゆっくりと瞬きをした。そして、瞬きよりも更にゆっくりと、まるで何かを確かめるかのように、手の中の万年筆を握り、離し、それからまた握った。おそれるままに、問いかける。
「海まで行こう。君が良ければ」
 返事も、頷きすらもなかった。マリアンヌは何も言わずにダリアの瞳を見つめ、うっすらと呼吸をしていた。この場では、それがすべてであった。斜陽と呼ぶにふさわしい光が、部屋の中に満ちている。彼らの輪郭は互いに白いこがねの色に輝き、それでも二人は、車窓から見える、美しい風景を覗き見ることさえしなかった。
「マリア、書いていいかな」
「もちろん。そのためのものよ」
 内緒話をするときみたいな、囁き声だった。
 ダリアはその睫毛を伏せることで頷き、卵のような白をした万年筆の蓋を微かに震える指先で外して、そっと、そうっと、ペン先を紙の上に触れさせた。息を吸う。息を吐く。それよりも強かな音を立てて、ペンは紙の上を滑りはじめた。
 春を待つ冬の海に、まだどこか白んだままの斜陽が差す。冷たく澄んだ海の上に、黄昏がいくつかの言葉を羅列していく。言葉。言葉。言葉。彼ら以外にとっては凡庸な、意味をもたない単語たちを。夕焼け、星空、歌、物語、手紙……
 それから、
 ねえ、マリア=B
 と、彼は書いた。



20210629 執筆

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