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ねえ、マリア



 物語。
 夕焼けが綺麗だった。だから彼は、呪いじみたその言葉を、心の中で呟いた。
「ダリアくん、見て。真っ白な巻き貝があるわ」
 階段下の砂浜から、マリアンヌがこちらに向かって手を振っている。ダリアは自らの視線を眼下へと向け、潮風に揺れる彼のカーディガンや、それよりもずっとやさしい速度で風を含むミルクティー色の毛先を見た。ふうわりと揺れ動くそれらはどこか、可視化できる呼吸のようでもあった。その息づかいに合わせて、ダリアも息を吸って、吐いた。
「いま行くよ、マリア」
 目の前には、海が空と混じり合いながら広がっている。
 その水平線の中心では、今にも溶かされそうな太陽が朱く染まり上がり、それは驚くべき鮮やかさをもって水面を照らしていた。水平線に近い空はまさしく朱に塗れていたが、けれども天上の方では未だ白昼の紺碧が微かに残っており、その青は淡く波間にも映し出されて、透明度の高い海は鮮やかな朱色と白藍のグラデーションを滲ませている。
 こんにちの陽はインク瓶の琥珀色とも、廃植物園の展望台から見たあの夕焼けとも、随分と異なる姿をしているふうに見えた。空の果てで、鮮烈な色を湛えた太陽が辺りを巻き込みながら輝くさまは、さながら燃える命そのものだった。遮るものが何もない夕焼けというものは、いささかまばゆい。それは、目眩さえ感じてしまうほどに。
 ダリアは砂浜へと続く階段を呼ばれるままに降りていきながら、その片手でたいせつに持っているマリアンヌの手帳のことを思った。頭の中で、眼前の海よりもずっと淡い色をした水面と、こがね色の黄昏、そして卵の殻みたいな砂浜が、見たこともないはずのそれらがよみがえる。結局、マリアンヌの手帳にダリアが書き込んだのは、あまり意味をもたない瞬きのようないくつかの単語と、それから、ねえ、マリア≠ニいう呼びかけめいた題名──ダリアは題名を決定するときに、その言葉の下に二重線を強く引く癖がある──だけであった。本格的に筆を走らせる前に、列車はこの海の最寄り駅に到着してしまったのだ。
 ダリアはマリアンヌの隣に降り立つと、
「どんな音が聴こえる?」
 そう訊いて、片耳に巻き貝を寄せている彼の顔を覗き込んだ。マリアンヌは伏せていた睫毛を微かに上げて、ふ、とダリアのことを目に映し、それからまた貝殻の方に耳を澄ませる。
「ううん、そうねえ」
 ざあ、と波が寄せては返している。輪郭が朱く染まっている。逆光で足元にも濃い影が伸びている。マリアンヌの髪の毛はいま金糸のようにきらめき、ダリアにとってそれはまったく原風景の夕陽に思えた。その淡い水色の瞳でさえも。
「──秘密の浅瀬のものかしら」
 言って、マリアンヌがまなざしで傾げた。貝殻の中のみに存在する音を聴く彼の呼吸は、眼前の漣よりもずっと静かなものであるはずなのに、しかしダリアの耳にはそれが確かな音となって届いていた。
 マリアンヌは不意に自身の耳から巻き貝を離すと、秘密の浅瀬、と口の中でくり返していたダリアの耳元に、そっとその巻き貝を寄せた。そんな仕草にダリアはぱち、と瞬き、けれどもすぐに貝の囁きに向けて耳を貸した。そこから聞こえるのはごう、という波の音と、ざあ、という木の枝葉が揺れる音。そして、それはどこか、霧が出ているときにだけ聞こえる、湿度の高い籠もった波の音にも似ていた。秘密の浅瀬。ダリアは気付かない内に、その言葉を口に出していた。
「今……」
 彼は呟いて、耳に寄せていた巻き貝を少しばかり離してはマリアンヌの方を見た。
「今、この音を聴いていて思い出したんだけれどね。君は知っているかな、貝の中から聞こえる波の音は、人の身体から鳴る音なんだって」
 息を吸う。いま彼の中にある言葉が、貝の奥から聞こえるそれよりも明確な輪郭をもって、波のごとく喉元まで寄せていた。しかしきっと、波のように返すことはできないだろう。そんなダリアの息づかいに、マリアンヌはその気配ごと撫でるみたいにくすりと眦を和らげた。
「そうなの? 初めて聞いたわ」
「うん。厳密には、耳の中にある蝸牛という小さな器官で体液が揺れ動く音らしいんだ。波のように揺れるその音が、巻き貝の中で反響したものが貝の囁き。ちなみに、この体液は音を鼓膜から脳へと伝える役割を持っていて、だから、つまり僕たちは、自分たちの中にある漣によっていろんな音を聞けているわけだね。言わば、僕らの中にはいつも海があるんだ。どこか懐かしいような、安心するような、それでいて少し寂しくて、ちょっとだけ、おそろしく感じる気持ち。そういうものをね、海の姿を見たり、波の音を聞いたりすると、ふと感じることがあるよ。もしかしたら、母親に対する気持ちってこんな感じなの、カナ? って思ったりネ。でもたぶん、そんなに不思議なことじゃあないんだろうね。人は水の中から生まれて、海からやってきたとも言うし……実際、僕らはお母さんの羊水の中で育つものだから……」
 列車の中で見せていた言葉少なの様子が嘘のように、ダリアは淀みなく喋々と、まるで水が流れるかのごとくに物を言った。そうして彼は再び貝の囁きに耳を寄せると、微かに目を伏せ、そのきらりと輝く睫毛の隙間から何を見たのだろう、
「君の言う秘密の浅瀬には、きっと、人間の子どもが流れ着くのかもしれないね」
 と言って、マリアンヌの清らかな水の色を湛えた瞳を見やった。
 ダリアは、ふうと吐いた息から真っ白な巻き貝をマリアンヌの手の中に返して、睫毛を微かに震わせる。瞬きには満たなかった。彼はマリアンヌの手のひらに乗った貝が橙色の光を纏うのを眺め、その輪郭を指先でそっと撫でる。
「マリア」
 そうして名を呼ぶ。さながら物を書く速度で、確かめるように彼は目を上げた。
「君はいつも、僕に物語をくれるね」
「ふふ、どうかしら。きっとダリアくんの中に、はじめからあったものだけれど」
「それでも、……君が見付けてくれたものだよ、マリア」
 柔らかい声色で、けれどはっきりとそう言いきってダリアは微笑んだ。
 すぐそこで響く波の音がふと二人の間によみがえり、また気付かぬ内に去っていく。ダリアは一歩、二歩と鳥の子色の砂浜に足跡を残すと、マリアンヌの手帳をじいと見つめ、それから音の鳴りそうな色彩で燃えている水平線を眺めた。どくりどくりと打っている自分の心臓もまた、あの太陽のような色をしているのだろうか。ぱらり、と頁を捲る。ほとんど何も書かれていない紙に、もう恐怖や落胆は感じなかった。
「じつはね」
 それは、寄せては返す波の隙間に浮かべるような声だった。
「じつは。文章が書けなくなったときは、いつも手紙を書いてるんだ、……君に」
 ダリアは波打ち際に立ち、そう発してマリアンヌを振り返った。実際に出せたことはあまりないのだけれどね、とは付け足す必要もなかった。それを察せるほどに、ダリアの声にはどこか申し訳ないような、情けないような色が滲んでいた。
「……もちろん、今も」
 困ったみたいに笑んで、ダリアは潮風に捲られていく手帳の頁に目を落とした。はじめは淡い海の色をしていた手帳紙がその頁を重ねるごとに、微かに香る小花柄の紙やドライフラワーが漉き込まれた和紙へ、また、水色と桃色が美しいグラデーションを織り成す、さながら朝焼けめいたトレーシングペーパーへと次々に変化していく。そんな手帳のありようは最早ダリアにとって、ただの凡庸な手帳とは呼びがたい。
 マリアンヌの好き≠ェいっぱいに綴じ束ねられた、或る種、彼の物語であるとも言えるそれを眺めて、ダリアは心の中で息を吐く。ああ。自分は彼の手帳にペンを執り、そこにはっきりと題名までも書いてしまった。だというのに未だ、彼に何を伝えることもできないままでいるのか……
 そうして彼はいちばん最初の頁に戻ると、その淡い海色の上に書かれた、ねえ、マリア、という字をさらりと撫でた。
「君に伝えたい、言いたいこと……そうして書かないと、上手く、言えなくて。言えない、ような気がして。結局、あまり効果はないんだけど。取り留めがなくて、収拾もつかない……」
 訥々と言いながら、けれど自分が用意した白い便箋には、親愛なるあなたへ、の他に、いったい何が書けただろう、とダリアは思う。いったい何が。物語れなかったこの手で、彼に伝えるべき言葉を、自分はしんじつ紙の上で紡ぐことができただろうか。ああ。頷けない。手紙はここにはない。あれはコンパートメントのどこかに置いてきてしまった。何を書いたのかさえ、思い出すことができない。ならば、何も。何も書けていないのと同じだ。言葉にしないのならば。伝えないのならば。息が詰まる。心地がした。
「ダリアくん」
 ふと、マリアンヌにそう呼びかけられて、ダリアは手帳から顔を上げた。
 そして、瞬間、二人のまなざしが、空と海が溶け合うように交わった。その自覚が、ダリアにはあった。海が鳴っていた。波がさざめいていた。貝殻が囁いていた。からだの中に、それらすべてがあった。マリアンヌの瞳が、言わなくてもいい、と伝えていた。けれどそれは、歌ではなかった。そのために、
「……ううん」
 そのために、ダリアはかぶりを振った。
「言いたいんだ。ちゃんと。だから…………」
 そう発するダリアの方をマリアンヌは見ていた。呼吸は聞こえなかった。ダリアは息を吸った。呼吸をした。言わなければ。言わなくちゃ。言いたいのだから。息が詰まっても。言葉が、詰まっても。物語。息を吸う。
「或る、ところに」
 物語。ダリアはその言葉を心の中で呟いた。手帳の頁は彼の両手で開かれていた。ペンも持たないままに、ダリアは今いちど口の中だけで呟いた。物語。
「──或るところに、鳥が一羽、おりました」
 寄せる波のそれよりも静かな声で、ダリアの唇が物語りだす。
「一羽の鳥。それは、まだとても小さな雛鳥でした」
 一瞬だけ揺らめいたその声は、しかしすぐに何か覚悟めいた色を滲ませ、今この場にある何物よりも確かな響きをもってマリアンヌの耳に向かっていった。ダリアは目の前にある波の音を食らってしまうのではなくむしろ身に纏って、どこか揺蕩うような調子で語りを続けた。
「雛鳥は巣の中で、他の小鳥たちと共に暮らしていました。小鳥たちは親鳥の後をいつもとことことついて歩き、別の鳥に比べて歩くのがじょうずな親鳥は、恐れもなく人間たちの住む街へと歩いて出かけてゆきます。人が談笑をするベンチの前や、人気店の看板の上、駅のホームなど、親鳥と小鳥たちは至るところで行き交う人々と挨拶を交わし、食べ物を分け与えてもらっていました。彼らは人間の社会の中に溶け込み、日々の生活を繋いでいます。そして、そのすべを小鳥たちもまた幼少の頃から、親鳥や兄弟たちによって教え込まれていました。たとえば……」
 潮風に、手帳の頁がぺらり、と捲られる。ダリアは頷いて、砂浜にいくつかの足跡を付けて歩を拾った。
「そうです。まず、歩き方。まったく敵意などないことを示すため、とことこ、とことこ。人の集うところではゆっくりと、車の走るところでは素早く、とことこ、とことこ」
 歌さながらに台詞を発して、波打ち際で行ったり来たりをくり返していたダリアが、つと、思い至ったふうに足を止めた。それから彼は先ほど自分たちが下りてきた砂浜へと続く階段を見上げ、その向こうにあるだろう乳白色の石畳や、ざらついて硬いアルファルトを瞼の裏に描き出す。そうして縁石の上に留まり、車が通るたびに忙しなくぴょんと飛び立っていく小鳥たちを、ダリアはどこか懐かしささえも入り混じる気持ちでもって見送った。
「……けれど、雛鳥は歩くのがへたでした。とことこ。そんな小鳥たちの歩幅に合わせようとすると、足がもつれて転んでしまいます。では、飛ぶのはどうでしょう。鳥なのですから、高いところに行くには翼を広げて飛ぶしかありません。だけど、やっぱり、雛鳥は飛ぶのもへたでした。できるのはその場で跳ねることと、段差の上から落ちることだけ。雛鳥は、いつも、いつも、失敗ばかりでした」
 ダリアは睫毛を伏せ、足元に落ちている傷付いた雛鳥を目に映したらしい。片手に手帳を持ったまま、彼はもう片方の手のひらでその雛鳥を掬い上げると、いつまでも生まれたての姿をしていて、鳥かどうかすらもよく分からない剥き出しの心臓めいたそれに、少しだけ自虐的で困ったような微笑みを向けた。
「ああ、怪我だらけで、ぼろぼろのみすぼらしい雛鳥。そんな雛鳥のことを、兄弟たちはちらりと見るだけで、どんどん先へと行ってしまいます。あいつの歩き方は気持ちが悪い、鳴き声も=B一体いつもどこを見ているのやら=Bそんな言葉を吐くばかりで、どこが悪いのかを、何をどう直せばいいのかを彼らは教えてくれはしません。何年経っても、どれだけ練習しても、雛鳥は兄弟や親鳥のようには歩けず、飛べず、ついには彼らが歩いた拍子に蹴飛ばした小石がからだに当たって、ぱったり気を失ってしまいます」
 微かに羽毛が生えた雛鳥が、ダリアの手の上で血をたらりと流して震えながら眠っている。彼は波に触れるか触れないかのあわいにしゃがみ込むと、雛鳥が目を開け、その嘴を上げるのと同時に、自身もまた揺れる水面の方を見やった。
「しばらく経って雛鳥が目を覚ますと、辺りには誰もいませんでした。兄弟たちも、親鳥も、街の人々でさえ皆、みんな帰路に就いて、太陽はすっかり海の底に沈んでいました。そこはもう、夜でした」
 まなざしが水平線の方へと向けられる。変わらず朱色に染まる海は当然、未だ夕暮れと呼ぶべき身なりをしていた。舞台装置がなければ、夜の背景幕や星の照明がなければ、太陽が沈むのにはひどく時間がかかる。そして、そんなことぐらい、この二人にも分かっていた。
「目の前には、海があります。星空が水面に映って、きらきらと輝いていました」
 けれども、そこはもう、夜だった。夜以外の名前では、とても呼べない砂浜に彼らはいた。
「雛鳥は怪我をした足が痛みました、とても歩くことはできません。擦りむいた羽も同じです。羽ばたくことができませんでした。自分がどこから来たのかも、辺りが暗くて分かりません。雛鳥に分かっていたのは、自分がいなくとも巣にはなんの問題も起きないということと、自分自身があの巣の問題である、ということだけでした。それは前から分かっていたことでした。ずっとずっと、分かっていたことでした。けれども、雛鳥の両目からは涙が溢れます」
 ぽたり、ぽたり、と小さな、ほんとうに小さな水滴が足元に落ちて、目には見えないそれは波に掠われるより早く、砂浜に吸い込まれていく。雛鳥は眼前の海原を見て、その嘴を開いた。
「どうして、=v
 雛鳥の本来囀るためにあるはずの喉が、しかしまったく別の理由で震えた。
「どうして、ぼくはみんなと同じように歩けないのだろう。飛べないのだろう。話せないのだろう?=v
 雛鳥は前に、後ろにと揺れ動く、今しがた自身の瞳からこぼれ落ちたものと似たにおいがする水を、心此処に在らずといった様子でぼんやりと眺めた。そのまなざしよりも更に淡い月明かりが桟橋のごとく、海原の上を真っ直ぐに伸びている。
「波が寄せては返しています。それはさながら、雛鳥のことを手招きしているようでした。雛鳥は痛むからだを引き摺って、手を伸ばしてくる波に身を寄せ、すっかり自分のからだを任せてしまいました。海水と潮風が傷口に沁みます。雛鳥は、その痛みにびっくりして涙を引っ込めました」
 静かな雨のように、微かな葉擦れのように、ざあ、と波が鳴っている。それはどこか先ほどダリアとマリアンヌが聞いた貝の囁き、からだの中にある海の音に似ていた。
「しかし、驚きはそれだけでは終わりません。このまま海の藻屑となるのだと思っていた雛鳥は、ふと、自分のからだが水の上に浮かんでいることに気が付きます。ぷかり、ぷかり。まるではじめから水への浮かび方、泳ぎ方を知っていたみたいに、雛鳥のからだは今までが嘘のように軽くなりました。ああ、自分は水鳥だったのだ! 何もかも上手くいかなかったのは、みんなそのせいだった! 雛鳥はからだだけでなく心までも軽くなり、怪我も忘れて水の上でちゃっぷりと跳ねました。見れば、夜も明けようとしています。雛鳥は気分が好くなって、今まで散々馬鹿にされてきた鳴き声を辺りに響かせました」
 波間に悠々と漂う雛鳥の喉が、今度は悲しみ以外の理由でふるりと震える。彼の親鳥や兄弟がその喉から発するものとは違う声を、ド、レ、ミの音階で雛鳥は波間に浮かべて、夜の帳の中を反響する自分のそれを、けれども雛鳥はどこか凍えるような瞳で見つめていた。海は星月に輝く水飛沫も上げず、ただ静かに揺れている。彼は一度跳ねたきりで、それからはもう飛び跳ねはしなかった。
「光が差します。きらめく朝がやってきました。そして、ふと、雛鳥は水面に映る自分の姿を見ました。それは、雛鳥にとって生まれて初めてのことでした。すると、そこには、何がいたでしょう。雛鳥とは、とても呼べませんでした。水鳥とも、きっと人々は呼ばないでしょう。鳥とすら、呼ばないかもしれません」
 雛鳥は、鳥のものと言うには不可解に見える五本の爪で自分の顔を触った。いつまで経っても羽毛が生え揃わないそこは、まるで守るものがないというようにつるりとしていて、雛鳥が自らで触れたところから傷付いていく。彼は、おのれが映る水面から目を離すことができなかった。
「怪物がいる、と、雛鳥は思いました。怪物がいる、と、怪物は思いました」
 朝陽を迎えた水平線が、昇りゆく太陽の熱に耐えきれずに、焼けるような痛みを抱えては赤く、朱く、空を染め上げていた。夜明け前の紺色を淡く残した天上が、海原に朱色と紺碧を溶いている。それを受け止めた波は、その赤と青の滲みかけた境界線をすっかりなくしてしまおうと、自身のからだを、雛鳥もとい怪物の姿にも気が付かずに揺り動かしていた。
「怪物はもう鳴く気にも、泣く気にもなれませんでした。ただ、今さら痛み出した翼を丸めて、卵のように波間を漂うばかりでした。そういえば、自分と同じ形をした羽をもつ鳥を、生まれてこのかた怪物は見たことがありませんでした。コンクリートの上でも、水辺でも、一度も。それも当然です。だって、自分は鳥ですらない、怪物だったのですから」
 物言わぬまま震えるだけの海は、さながら怪物にとっての揺り籠だった。彼はほとんど眠ったように、波の間で浮き沈みをくり返していた。目を開けると、水面に映る自分の姿が目に入る。そうでなかったとしても、海は陽光を反射してちらちらと輝くばかりで、怪物に何を教えてくれるわけでもなかった。
「いつの間にか、日が暮れ、辺りは夕焼けの橙に包まれていました。また夜がやってこようとしています。どこへ行けばいいのだろう。どこへ行けるというのだろう。思い悩む怪物が、このまま海の底に沈んでいって眠ってしまいたいと思っていたそのとき、目の前がきらりと光ります。夕陽ではありません。星の光でも。それは、空よりも低いところで光っていました。灯台。灯台です。灯台が、明かりを差し出していました。怪物は、その光の方へと足を動かし、水を掻いて進みました。どうしてかは分かりません。けれど、灯台の光は怪物にとってあまりにあたたかく、美しいものだったのです。だから、怪物は一目見てみたかったのかもしれません。近くで、その光を」
 明かりがゆっくりと旋回しながら海原を照らしている。それは淡く白い月明かりとも、朱く激しい日の出とも、昼間の黄みがかったまばゆい陽光とも、燃える命の夕焼けとも、そのどれとも異なる不思議な色合いの光だった。そう、それはまるで、透明なままのこがね色のような……
「そうして怪物は何日も何日もかけ、やっと光の元へとやってきました。海中におそろしい自分の身を隠しながら、頭上の水面できらきらと輝く光を眺めます。怪物は思います。これからずっと、ぼくはここにいよう。ここで隠れていよう。ここは綺麗で、静かで、きっとすばらしい場所なのだから、きっと、きっと。ここにいれば、誰を気味悪がらせることも、自分が傷付くこともないのだから=Bけれど、怪物は水面から顔を出しました。出そう、と思ったわけではありません。思わず、そうしてしまったのです。だって……」
 きらり、と水飛沫が上がった。
「だって、灯台が鳴いたのです。それはまるで、自分と同じような鳴き方で」
 怪物の瞳が驚きに震え、それと同時に、微かに濡れた光が彼の目の中に浮かび上がった──水面から顔を出した彼と共に。今、怪物の頭上には明かりがあった。もう、すぐそこに明かりがあった。
「顔を出した怪物と灯台の目が合いました。灯台は、よく見ると、怪物と似たような姿かたちをしていました。それでも、怪物は灯台のことを怪物だとは思わず、美しい、鳥に似た何かだと思いました。怪物を見た灯台は、片手に優しい光を放つカンテラを持ちながら、少しびっくりした表情で、まあ。きみ、どこから来たの?≠ニ笑いました。怪物は曖昧な表情をすることしかできません。そして、質問に質問で返してしまいます。あなたは今、鳴いていませんでしたか=Aと」
 灯台の持つカンテラの光が、暗くなる波の隙間を柔らかく照らしている。一人きりで小島の上に腰掛け、海に光を送っていた灯台の瞳が、はじめて呼吸を思い出したみたいにそっときらめいた。
「怪物の問いかけに、灯台はやさしく笑いました。泣いてなんかいないわ、心配しないで。それよりきみ、ここへ来てみて=B怪物はおそるおそる海から出て、灯台の腰掛けている小島へと上がりました。灯台が隣へ座るよう示したので、怪物はこわごわとそこに腰掛けます。そして、灯台が指差す方を眺めました」
 怪物と同じ五本の爪をもつ灯台のそれが、カンテラの明かりが照らす先を示していた。そして、そこには。
「そこには、やはり海がありました。そう、世界がありました。灯台のカンテラと夕焼けに照らされる波がどこか夢見るような橙に翻り、淡く光る月と一番星は、まるで藍色に染まりはじめた空のてっぺんを支える、夜の帳の留め金みたいでした。怪物の目に映る世界は、あまりに綺麗でした。こんなに世界が綺麗だったことを、彼はたったいま思い出したのです。彼は泣きました。声を上げて、泣きました。灯台は言います。それは歌よ。きみの声はとっても綺麗=B怪物は歌いました。灯台は言います。声だけじゃない。きみもとても綺麗だわ=v
 その言葉に、怪物は微笑んだ。灯台もまた、同じだった。彼らは似たような姿かたち、少しばかり違う歌声、異なる命と心をもって、けれど互いに恐れさえ抱き締めたまま、共に笑い合って涙を流したのだった。
「それから怪物と灯台は、しばらくのあいだ二人で歌って過ごしました。それは怪物にとって美しく、何にも代えがたい素晴らしい日々でした。灯台はそんな日々の中で何度も怪物にこう言います。きみはとっても綺麗=B怪物はもう、自分のことを怪物だとは思いませんでした。けれども、或る日、灯台がこんなことを言いました。ここはもうすぐ昼の時間がとても長くなるわ。だからわたし、もっと夜の長い場所を照らしに行きます=c…」
 目の前には明るい陽光が差している。立つ波も磨かれたみたいにきらめいて、そこは今や、うなぞこに眠る旧い海の友人でさえも目を覚ますようなまばゆさを身に纏っていた。ただ、潮風はいつもより冷たかった。吐く息は決して白くはないのに、怪物は寒いな、と思った。寒かった。心のかたちが分かるほど。
「怪物はそんな灯台を止めることはできませんでした。飛び去っていく灯台の背に、ただ歌うことしかできませんでした。ついていくこともできません。怪物は今でも飛ぶのがへたなのでした。怪物は歌い続けました。月日が過ぎても歌っていました。歌いながら、灯台の残していったカンテラを片手に、夜の海を照らしていました。そうしている内に、怪物は自分と同じような姿かたちをした者たちに何度も何度も出会い、そのたびに彼らの航海を導く助けとなりました。それもまた、怪物にとって輝かしい日々でした。怪物は、確かに自らの過去の境遇や不運を嘆いたこともありましたが、けれども、……けれども、彼はこれまでの道行きを後悔をしたことはありませんでした。しかし、それでも……」
 怪物が口を開け、呼吸をした。心のかたちが分かったから、彼は息を吸って吐いたのだった。
「それでも、怪物は寂しかったのです。寂しくて、だから、会いに行こうと思いました。目の前には、美しい海が広がっています。灯台が照らし続けた海が。飛べないのなら、歩けないのなら、泳げばよかった。怪物は海に浮かび、泳ぎはじめました。灯台のいる海を目指して。どれほど長い旅になろうと、構いませんでした。怪物はたった一言、ずっと言えなかった言葉を、どうしても灯台に伝えたかったのです」
 怪物は、いつかとはまったく異なる気持ちで小島の上から飛び降り、揺れる波に身を寄せた。冬が過ぎて、春がやってきても心の在り処は、その姿かたちははっきりとしているだろう。きっともう、見て見ぬ振りすることはできないほどに。怪物の瞳から涙が零れたのは、潮水が傷痕に沁みたからではなかった。そうして彼はもうすぐ花の浮かびはじめる故郷の海を出て、夜の長い、どこかの海を目指して旅立っていく。それはたったひとつ、ただのひとつ、ただひとつを追いかけるためだけに。
「ぼくと、一緒にいてください=c…」
 ぱらり、と手帳の頁が捲られる。そう最後の台詞を紡いで、すう、と息を吸うように、ダリアは息を吐いた。
 その唇が物語を編む間、ダリアはほとんど目を瞑っていたらしい。そのために、彼は背後で激しく燃えていた夕焼けが、今このときばかりは美しいこがね色に輝いて、何もかもを包み込むような橙色に海原を染め上げていることにさえ気が付くことができなかった。また彼は物語る最中、ほとんど無意識に眼前の浅瀬まで歩を進め、自身の足首までを、靴が濡れることも厭わずに海水へと浸していた。そんなダリアの足元で、透明に淡い水色と橙色が溶け合いながら揺れている。痛いほどに柔らかな光の色がダリアの輪郭をなぞっては、彼の長い髪の先や指の間までを淡い金色に満たしていた。
「──泣いてるの? マリア」
 いくつかの呼吸の後、静かに手帳を閉じたダリアがそっと睫毛を上げ、目の前のマリアンヌにそう問うた。そして、彼はまるでたった今マリアンヌを見付けたみたいにその青い瞳を瞬かせると、ぱしゃり、と海から砂浜の上に戻ってきて、
「泣かないで、マリア」
 そんなふうに微笑みながら、マリアンヌの濡れた睫毛を壊れ物さながらに柔く拭った。それから、ゆっくり目を合わせるようにして、彼は秘密ごとを分け合う色で、しかしそれでもはっきりと届く声でマリアンヌに向けて言葉を発する。
「ねえ、マリア。聞いてほしいことがあるんだ。ずっと、ずっと、伝えたかったこと」
 物語。ダリアは今いちど、もう一度、心の中でそう呟く。物語とは。彼にとって物語とは、呪いだったかもしれない。枷だったかもしれない。吸い過ぎれば息が詰まってしまう空気だったかも、飲み過ぎれば毒になる水、ありすぎれば溺れてしまう海だったかもしれない。けれども、彼にとって、彼自身にとって物語とは、物語とは、しんじつ呼吸であった。生きるために必要な水であった。祈りであった。願いであった。そして何より、勇気であった。生きていくための勇気だった。誰かに──たいせつな人に想いを伝えるための、勇気であった。彼は歌わねば死んでしまう鳥のように物語った。それと同時に、自らが生きていくための勇気を奮い立たせるために物語った。物語とは彼にとって、本来そのようなものだったのだ。物語。彼は心の中で呟いた。そして、息を吸う。
「僕、……僕、君のことが好きだ。ずっと前から、ずっと、大好きです」
 はっきりとそう言いながら、ダリアは自分の心臓をぎゅうと握り締める。それは歌でもなかった。物語でもなかった。それは、それは、ほんとうにただの言葉であった。
「マリア」
 それから、ダリアは両手を広げた。すっかり鳥の手になってしまった腕では、彼のことを掴んでいることはできないだろう。けれど、それでも。ダリアはマリアンヌのことをやさしく抱き締めた。そうだ。僕は、それでも、
「マリア。……僕と、結婚してください」
 生きていきたい。この、目の前のたいせつな君と。
 たったひとつ、ただのひとつ、ただひとつ。そのためだけに彼はいま物語り、そして、ひどく飾り気のない言葉を──それでも彼以外は発することのできない言葉を、彼にとってかけがえのない、たったひとりのマリアンヌへと伝えたのだった。
 こんな美しい、夕暮れの海で。



20210704 執筆

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