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終幕こじあけ踊るしか



 よかった。
 と、いうのが、嘘偽りのない、素直な感情だった。
 腕の中で、花束が一つ咲いている。ガーネット・カーディナルはそこから漂う独特の甘みがある香りと、植物特有の湿度と爽やかさを両立させているにおいを無意識に吸い込んで、開きかけた喉が段々と閉じていくのを感じた。俊敏に動いていた両足が、それに伴って動きを止める。何を言おうとしていたのかも、どこへ行こうとしていたのかも未だ鮮明であるというのに、気が付けばガーネットはその場に立ち止まって、或いは立ち尽くしていた。
 深緋の絨毯が敷かれた通路では、ヒールが床を叩く音も大して意味は成さない。しかし、もし敷き物がされていなかったとしても、彼の靴音は周りの喧騒に押し流されて誰の耳にも聞こえなかっただろう。花の香りも眼前の熱気に後ろへ、後ろへと追いやられるばかり。
 眼前。
 そこには、自らの教え子が立っていた。舞台衣装を着込み、化粧を落とすこともままならない様子で、通路の真ん中で複数人の共演者や監督、衣装係からヘアメイク、音響担当に至るまで、とにかく人、人、それから人に囲まれている。各々が我先にと言葉を発しているせいで、最早誰が何を言っているのかもガーネットの側からは判別ができなかったが、その場にいる誰もが一人残らず喜色ばんだ表情をし、口々に彼のことを褒め称え、握手をし、肩を抱き、くしゃくしゃと頭を撫でて絶え間ない称賛を浴びせていることだけは分かった。
 当然だった。
 当然と思う。だって、舞台裏のこんなところにまで、観客席の熱狂が聞こえてくるようなのだ。
 こんにちの公演でナイチンゲール・ピーコックとして主演を務め果たした彼は、自身に与えられる賛美の数々、その一つひとつに丁寧な返事をおくりながら、少しだけ泣き出しそうにも見える表情で嬉しそうな、心底嬉しそうな笑顔を見せている。観客のスタンディングオベーションが鳴り止むことを知らない今日の成果を考えれば、当然のこと。劇場の規模も、観客の数も、贈られる拍手の質というものも、そのどれもがルニ・トワゾ時代とは比べ物にならない。
 彼が学生時代に行った公演は、すっかり思い出と化していく。
 緑色の瞳が照明の光にきらきらと輝いている。ここにはまったく未来しか存在しなかった。過去は風化する。鮮やかさは失われていく。過去を眺めているのはいつだって自分だけだ。影を見つめているのはいつも。未来だなんておそろしいもののことを、自分は未だ、上手く描くことができない。だけれど、ここにあるのは未来めいた希望だけ。
 だから、描くとするならばこうだ。光、輝く瞳と笑顔、称賛、抱擁、嬉しいときの大粒の涙、まばゆい熱、これから口にする美味しい食事、心配ごとのなくなった柔らかな毛布、今日から明日への階段を踊るみたいに上るつま先。ガーネットは少し笑った。こんなものはすでに夢想ですらない。事実だ。これから彼を待ち受ける、変えようのない事柄たち。当然起こりうる、起こらなければならない、彼の未来を囲うもの。
 そうだ。そうでなければ。そのために、今まで彼は、ずっと。
 触っているところから花が枯れていくような錯覚を感じて、ガーネットはふと視線を花束に落とした。そうして目の前の光景に踵を返して、音の吸い込まれる通路の上を戻っていく。
 ややあって、あの様子ではしばらくの間は辿り着けないであろう教え子の楽屋扉までやってくると、彼はオリーブ・オーカー≠ニ記されているそこへ手にしていた花束を置こうとし──けれども直前でふと思い至ったかのごとく、その手を止めた。
 花束には、白、黄緑、黄色を中心とした花たちが所狭しとラッピングペーパーの中におさまっている。正直なところ、花屋では毎回色味の指定をしているだけだから、詳しい花の種類というのは覚えていなかった。しかし、ガーネットはその贈り主が相手に分かるよう、花束を贈るときにはいつも赤い花──特にキンギョソウ──を一輪、共に包むようにしていた。花束は、オリーブの好きな色ばかりで形づくられていた。彼は教え子の好きな色を知っていた。だから。だからなんだ? ガーネットは睫毛を伏せる。だからこそ、彼は花束で唯一邪魔な色をしている赤い花をその中から抜き取り、ああ、そうしてみると、なんだか喉元につっかえていたものがすとんと身体の中へと落ちてくる心地がした。
 よかった。
 よかった、と思う。心から。ほんとうに。頭のこめかみからこめかみにかけて、そして、開いている瞼の裏側で、走馬灯さながらに学生時代のオリーブの姿がよみがえる。入学試験に見せた傷だらけのダンス、個別面談で稽古場に入ってきたまま、声も掛けられずにこちらをただ見つめていた──あれはすこぶる姿勢が悪かった!──姿、新人公演後、ばつが悪そうに俯いていた表情、物語でも音楽でもないものに強迫されているかのような足取りのステップ、殺されたがっているふうに見えるのにもかかわらず、公演後にまで殺されたはずの役を引き連れてきてしまうナイチンゲールの演技、稽古、先生、先生と質問をくり返しながら後をついてくる姿、稽古、難しいステップが成功したときに上げた顔の嬉しそうなこと、稽古、少し褒められたくらいで首まで真っ赤にするさま、稽古、稽古、稽古、二年次の冬公演ではクラス優勝を果たし、ぼろぼろとその頬を涙に濡らしてはぱったりと気を失い、運び込んだ保健室で、彼は初めて自分の口から兄へと抱えるどうしようもない劣等感や恐怖、そしておそらく、憧憬をもこちらに話し、それから、それから……
 彼は卒業した。
 数年も前のことだ。そうして自分と同じように劇団ロワゾに在籍することを彼は決め、今があり、未来がある。あの頃とは比べようもない輝きが、彼のことを包み込んでいる。今日も。明日も。明後日も、その先も、ずっと先も。
 よかった。
 ガーネットは赤い一輪だけを抜き取った花束を楽屋の前に置き、誰も見ていない照明の下、安堵の表情で目を細めた。
 よかった。
 もう、よかった。
 もういいのだ。もういい。彼にはもう、先生は必要ない。花束の贈り主は、もう何者でもない。よかった。ほんとうによかった。行く末を案じなくとも、願わなくとも、きっと彼の未来は幸福に満ちる。そう約束されている。それだけの努力を彼がおこなったこと、おこなっていることは、もう誰もが分かっているだろう。誰が保証しなくても。打ち鳴らされる拍手の音が耳から消えない。だというのに、人だかりに掻き消されて、彼の声は聞こえなかった。一言も。少しだけ耳が痛い。けれど、悪くはない。目の前に広がる光の美しさに酔っただけだ。ただそれだけ。光というものは、いつだって眩しくて当然なのだから。
 そして、ガーネットは花束を置き去りに通路を抜け、そっと劇場を後にした。
 今日という日はまるで風ひとつ吹かない、静かで澄んだ夜だった。一言で黒と言いきるには口惜しい濃藍色の夜空の下、彼はいつも通りにその高いヒールでコンクリートをコツコツと叩き、踊る気も起きないほど軽くなった身体を、まったくもってどこも痛まなくなったからだを、ひたすら学園へと向けて進ませた。
 風が吹いたらいいのに、と思う。風が吹けば、この心の爽やかさを、音のしない羽根のような胸中を身体にも味わってもらえるのに、と。風に吹かれて、身体は高く舞い上がって、そして。そうしたら、すぐに自分も自分が在るべきところへと帰っていけるだろう。こんな歩など拾わなくても。今すぐに。今すぐ。
 やけに清々しい気持ちで自分も未来のことを考えなくては、と思うのと同時に脳裏に浮かぶのは、デスクの上に小山を作って残っているいくつかの書類仕事と、こんにちのロワゾの公演に比べてしまえばひどくちゃちに感じる、次回の学園公演の原案書だった。まずはあれを書き直すところから取り掛かるとしよう。踊っている場合ではないのだ。踊っている場合、では。
 星の綺麗な夜だった。赤い星がちかと、頭上で輝いていた。あれの名前をずっと知っていた。赤い星から見える絶景に、何年も苦しめられてきた。そのたびに踊ってきた。じつのところ、誰が為でもなかった音楽と振り付け、そして台詞、物語と。けれど、音楽はからだの中で鳴らなかった。もう苦しくはなかった。きっと今日で、過去を断ち切れた。エラキスの絶景をもう求めることはないだろう。せっかくのお別れだというのに、涙の一つも出やしないが。
 感情で括られた手足で踊るなど、馬鹿々々しくてしょうがない。劇場でも学園でもない場所で、舞台もないのに過ぎ去った物語の影と踊っていた自分が、痛々しくて恥ずかしい。
 はじめからこうすればよかったのだ。演劇以外は何も要らないと。自分は前しか見えないのだと。それこそ学生時代みたいな身軽さで。瞳は特筆することもない、ぽつぽつと街灯ばかりが照らす歩道を映し、唇だけがうっすらと弧を描く。これから先、このように生きる。何もかもが元のかたち、収まるべきところに収まった。不自由だった手足がほどけて、新しい物語だけを求めていく。それでいい。それでよかった。
 だから、花一輪だけを手に、彼は微笑んだ。
 誰にも知られず、誰にも、教えず。



20210615 執筆 

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