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終幕こじあけ踊るしか



 よく晴れた。
 あれから数日ほど経った白昼のことである。
 ガーネットはエクラン劇場のすぐそばにある森林公園でベンチに腰掛け、鳩たちが自分たちの形に青空を切り取るさまを何気なく眺めていた。ローレア六月初旬の気候は暑すぎず、寒すぎずで過ごしやすく、空気はからりと穏やかで、空は深くも浅くもない、澄んだ青に染まっている。風が少しばかり吹いていた。木々のあるところに、風はいつでもやってくるものだ。ガーネットのココアブラウンをした毛先が微かに揺れる。足元には鳩が数羽、きょろきょろと視線を動かしながら跳ねていた。
 あの公演後からというもの、ガーネットの指先はそんな暇はないというふうに、一度も踊ることがなかった。彼が独自に借りている稽古場の扉が開かれ、そこで古ぼけたCDプレーヤーから大音声の音楽が流れ出すことも。
 学園と劇団を交互に行き来し、それぞれで必要な、求められるダンスを踊って、クーデール寮の自室へと戻る。特に劇団で踊られるガーネットのダンスは演じる役にぴったりと嵌まり、一寸足りとも狂うことなく、そこには彼らしい、ほのおのような感情の揺らぎは見られなくなっていた。そのさまに共演者は感嘆し、監督は手を鳴らしたが、脚本家兼演出家のダリア・ダックブルーはおやと首を傾げ、ガーネットの元担任教師であるルビー・ルージュはつまらなそうに彼に向かって踵を返していた。
 ガーネットは、時間さえあればいつでも踊っていた。時間がなくとも踊っていた。たとえ指先だけになったとしても、彼は踊っていた。物語に求められなくとも。音楽に求められなくとも。誰に、求められなくとも。役者として物語の上で、教師として生徒の前で踊る彼は、しかし、ガーネット・カーディナルとして踊ることをやめていた。
 彼は、学園と劇団のはざまで踊らなかった。夜と朝のあわいで踊らなかった。酩酊をしなかった。間違えなかった。手足の感覚があまりなかった。けれど、いつものようにほのおの一部になれた気分でもなかった。燃え広がらなかった。すべての輪郭は鮮明で、曖昧にはならなかった。何もかもすべて、至極、まともであった。踊り。踊らなかった。踊らなかった。踊れ。踊らなかった。踊らなかった。踊らなかった。
 陽光で鳥の子色に照る石畳に人影が差して、それと同時に集っていた鳩たちがばさばさと飛び立っていく。そのさまにふとガーネットは視線を空から戻して、眼前の輪郭を目に映した。
「先生、買ってきました」
「ん、ありがとう」
「パニーノ、エビとサーモンのがあったのでそれにしちゃいました。先生、好きですよね?」
 にこにこと首を傾げながら隣に腰掛けたオリーブに、ガーネットは普段と大差ない、満足げな表情で口角を上げた。オリーブはがさりと紙袋からパニーノを一つ取り出してガーネットへと手渡すと、どうぞ、と言った次の口で、玉ねぎはちゃんと抜いてもらいました、と得意げに胸を張っていた。よくお分かりのようで、とガーネットは笑う。しかし彼はいつもみたいに、相手の頭を撫でなかった。
「お前は何にしたんだ?」
「俺は生ハムとカマンベールのにしました。あと、ツナとチェダーチーズのも。あっ、ホットドッグも買ったんですけど、先生、マスタードのとバジルソースの、どっちがいいですか?」
「ん? ああ、俺はいいよ。お前が食いな。腹減ってんだろ」
 オリーブはぱちりと瞬き、不思議そうな瞳でガーネットの方を見た。
「でも、先生に買ってきたんですよ」
 温かい紙袋の中身を示して、オリーブは困ったように首を傾げた。ガーネットはそんな教え子に曖昧な相槌を打って、今しがた手渡されたパニーノを一口かじる。焼きたてのパン、新鮮なレタス、歯を立てると弾けるエビ、口に含んだところから溶けていくサーモン。うん、と呟く。美味しい。はず。食感だけが口の中に残っている。それから、顔を覗き込んできたオリーブと目が合った。
「……先生、食欲ないんですか」
 仔犬みたいな目。ガーネットは少し笑ってかぶりを振った。
「いや、違う。減量中」
「減量……」
「そ。だからお気になさるな。いいからお前も食べろって」
 それでも未だ心配そうな表情なまま、オリーブは頷いた。がさがさと紙袋が鳴って、そこから包み紙にくるまれたパニーノがもう一つ出てくる。ガーネットは手元のパニーノをもう一口食べた。足元には、再び鳩が舞い戻ってきている。オリーブは自分の分をじいと眺め、ちら、とガーネットの方を見た。
「でも。無理しないでくださいね、先生」
「ああ、はは。ちょっとくらい無理しないと生き残れない世界だって、お前もよく分かってるだろうに」
「ですけど。身体壊したら踊れないですよ」
「分かった、分かった。心配性だな、お前は」
 あたかも呆れたようにそう笑んで、ガーネットは常よりも緩慢に食事を口に運んでいく。美味しい、美味しい、と言い聞かせるほどに咀嚼が上手くいかなくなる心地がして、彼はばくり、と大きな一口でパニーノの三分の一を胃に収める。そうするより他なかった。軍人めいた速さで物を平らげる、というのがガーネットの平常であったために。
「それで、先生」
 つと、オリーブの睫毛が上がる。
「次はどんな役を演るんですか?」
 問いかけと共に、オリーブはようやく自身のパニーノを口にした。その一口目で、きらりと常緑色の瞳が輝いた。そうして両目が笑みの形に淡く弧を描く。お気に召したのだろう、なんにでも顔に出る。ガーネットはそんなことを思いながら、パニーノを味わっているオリーブを眺めてくすりとした。
「……秘密」
 ガーネットの返答に、オリーブは、ええ、と呟いて肩をすくめた。なんだかこんな姿を彼が学生の頃にも見た気がするとわけもなく思い出して、けれど、ガーネットはパニーノの最後の一口と共にそれを飲み込んだ。ちょっとだけ喉に詰まりそう。だからといって、鞄の中の水を出す気にもなれないが。そういえば、オリーブはちゃんと水分補給をしていただろうか? 今日、彼が何かを飲んでいる姿は一度も見ていない気がする。教えてやらなければ。いや。いや、教えなくとも、それくらいは自分で分かるだろう、彼はもう。
「先生」
 はたとする。
 ガーネットは空になった包み紙から顔を上げて、オリーブの方を見た。そこでは、ふわふわとした彼の癖毛が犬の耳さながらに風に揺れ、どこか期待まじりの光を宿して瞳がこちらを窺うように見つめている。
「その。俺、こないだの公演──」
「ああ、あれか。大成功だったらしいな。おめでとう」
「え? あ……」
「どうした? 姿勢が悪くなってるぞ。俺が育てたかわいい教え子はどこに行ったのかな? もっと胸をお張りになりやがれ」
 言えば、慌てた様子でオリーブは、ピ、と音が鳴りそうな勢いで背筋を伸ばした。そのさまにガーネットは小さく声を上げて笑い、冗談だ、と付け加える。つられてオリーブもへにゃりと笑い、いつの間にか二つ目に突入していたパニーノをもぐもぐやった。時折、何かを言いたげにガーネットの方を見やりながら。
「なあにをシケた面してんだ。心配しなくても、チケットはちゃんとやるよ」
 それからしばらくの間、二人はいくつかの話をした。
 美味しいと顔中に書きながら軽食を頬張っているオリーブを横目に、ガーネットはパンくずを求めて集っている鳩たちの羽毛が光の反射で遊色するさまを眺める。遠くから遊ぶ子どもたちの、青空そのものみたいな笑い声が聞こえていた。オリーブが来週の予定を問うていた。まだ分からないと首を振った。手持ち無沙汰な指先の空白を縫うように会話をする。ルニ・トワゾ時代の話。ルニ・トワゾ以前の話。過去の話。過去の話。過去の話。口元にソースを付けているオリーブに向かって、ガーネットは唇の端を示した。それを拭いはしなかった。指先が冷たかった。少し寒かった。人間というものはそういうときほど綺麗に笑える生き物なのだということを、先生に教えてもらえてよかった。このとき初めて、ガーネットは心の底からそう思った。
「……なあ、オリーブ」
 そうしてふと、ガーネットは相手の名前を呼ぶ。それは何気ないもののように聞こえた。オリーブがガーネットの来週について問うくらいの軽やかさで発されたように聞こえた。事実、ガーネット自身もそう感じていた。風は言葉を掠わなかった。
「今日、天気いいなあ。風も気持ちいい。外で稽古だってできそうだ。パンも美味かったな。見ろ、ボールが転がってきた。誰のだろうな? よく晴れたし、お前の舞台が成功した祝いも言えたし、今日はいい日だ。こんな日は……」
 歯切れの良い、羽の生えた声色で発せられるそれは、どこか他人事のようにも聞こえたかもしれない。ガーネットはすぐそこまで転がってきていたサッカーボールを片足で止めると、先の方でこちらに呼び掛けている子どもに手を振って、立ち上がりざまにそのボールを蹴り返してやった。白黒のボールは青空の下で虹めいた弧を描いて子どもの元へと帰ってゆき、驚いた鳩たちもまた一斉にばさばさと飛び立っていく。ボールを受け取った子どもが発する、ありがとうございます、の声が辺りに響き渡るほど大きかった。腹から声が出せて大変よろしい。ガーネットは笑って、再び相手に手を振った。
「こんな日は?」
 そしてオリーブは、ガーネットが自分の方を向くのを待っていた。視線がかち合うのと同時に、彼はガーネットに向かって、相手の言葉の続きを継いだ。
「──踊りたい?」
 それはおそらく、オリーブの望んだ、ガーネットが発するべき答えであった。しかしその言葉に、ガーネットは名の通りの色をした目を細めて、ふ、と息を吐きながら笑った。
「朝までぐっすり眠れそう、って。そう思っただけだよ」
 ガーネットは相手のつるりとした瞳が、自分の発した言葉によって微かに揺れ動くのを見た。彼はひとりでに回転することも、オリーブに手を差し出すこともせずにもう一度ベンチの上に腰掛けると、少しだけ眠たげに瞬きをくり返してみせる。オリーブは首を傾げた。
「先生、踊らないんですか?」
「こんなとこでか? 騒ぎになるだろ」
「そんなの、いつも気にしないじゃないですか」
 あはは、と笑ってガーネットはベンチの背に身体を預ける。子どもの声もいつの間にか遠ざかり、鳩はもうこちらへと戻ってくる気はないらしかった。彼は睫毛を上げて、ちら、とオリーブの方を見た。
「なあ、お前の買ってきたホットドッグ、やっぱちょうだい」
 言われて、オリーブはぱちりとした後、ちょっとだけほっとしたような表情で紙袋の中からホットドッグを取り出した。結局彼は、ガーネットの分を食べずに残しておいていたのだ。時間が経ってしまったために、買ったときに比べてしんなりとしてしまったホットドッグを受け取って、ガーネットはそれを口にした。熱を失いかけて柔らかくなったパンと、荒く刻まれたバジルのソースのかかっているソーセージ。パンは微かな甘みがあり、ソーセージはソースと相まって少し塩辛かった。
 彼はゆっくりと、何かを確かめるようにホットドッグを食べた。美味しかった。美味しい。それに、天気もよかった。風も気持ちよかった。パンも美味しかった。舞台が成功したのを祝うこともできた。今日はいい日だった。よかった。彼は口元のソースを拭った。
「俺、お前のこと好きだわ」
 だから、ふと気が付いたように、ガーネットはそう呟いた。食べ終えたホットドッグの包みをくしゃくしゃと丸めて、オリーブの持つ、空になった紙袋の中にそれを放る。
「そうだな、うん、やっぱりそうっぽい」
 ガーネットはオリーブの顔を覗き込んだ。その顔は赤くも青くもならずにただただ驚きにかちりと硬直し、睫毛の先さえ時が止まっているかのようだった。瞳孔まですっかり見開かれた瞳ばかりが、こちらの動きを細かに追っている。
「──俺はお前が好きだよ、オリーブ」
 言ってしまってから、ガーネットは笑った。ああ、そうか、と思う。自分はずっと、彼のこんな顔を見たかったのかもしれない。こんな。こんなことのために、すべてを壊してしまうけれど。
 彼はオリーブの膝に乗っている紙袋を取り上げて、ベンチから立ち上がった。コツ、とヒールが鳴る。そうして笑い声を洩らしていた唇から、それじゃあな、と一言だけ発すると、走り出すでもなく、ただ歩いてその場を去った。途中、くずかごを見付けたので、そこへ紙袋を捨てた。彼の表情には未だ楽しげで、満足そうな笑みが浮かんでいた。
 森林公園を出たところで、ガーネットは一旦足を止め、空を仰いだ。雲一つない。雨なんかはまるで降りそうもない。空が青いな、という当然の感想を胸に、彼は再び歩き出した。
 歩を拾いながら、ガーネットはまた笑った。
 こんなに心が軽いのは生まれて初めてかもしれない。家族に勘当されたときでさえ、あのしきたりだらけの舞台から降りて踊り出したときでさえ、ここまで軽くはならなかった。歩いている感覚さえ最早なく、ヒールの音だけが自分が未だ地上にいることを教えてくれている。こんなにからだが軽いなら、踊れればよかったのに。こんなにからだが軽くては、踊ることさえできそうもない。踊れない。踊らない。踊らない。踊らない。踊らない。
 ──先生、踊らないんですか?
 オリーブの言葉がよみがえって、ガーネットは足を止める。彼は喉の奥で、微かに笑った。なんだか変な声だと思った。少し、身体が重くなる。だからガーネットは肩に掛けていた鞄を地面に放って、再び歩き出した。公園の方へと向かう風が目に沁みる。視界に映るものすべてに果てがないように感じる。空白を埋めなければ。ガーネットは上着を脱いで、コンクリート上に捨てた。なのにまだ身体が重い。ヒールの音がうるさい。歩きにくい。こんな靴を履いて、視線を高くして、それで一体何が見えるというのだろう。どこを歩いているのかももう分からないのに。足首のストラップを外し、パンプスを脱ぎ捨てる。太陽に熱されたコンクリートが熱い。歩を進める。くるりと一回転。ただの回転。踊りですらない。気が付けば地面が近かった。そこには、汗も掻いていないのに水滴がいくつか落ちていた。灰色の染み。それが何か分かってしまって、彼はその場に蹲って笑った。ほとんど嗚咽じみていた。ああ、早く帰らなければ。帰って、もう、今日は仕事もせずに眠りたい。散らかった部屋と冷たいシーツに抱かれて、踊らないままぐっすり眠る。空は爽やかに澄みきって青く、陽光は燦々と差していた。ガーネットは泣いていた。泣きたいとすら思わなかったのに。
 けれど、つと、彼は顔を上げた。
 駆けてくる足音が聞こえたためである。それが誰かのものなのかは、当然、ガーネットにはすぐに分かった。彼は息だけを整えた。涙は拭わなかった。逃げたから、追いかけてきたのだ。振り返って、泣いた顔のまま笑おうと思った。すべて見せてしまえばいい。自分が始めた舞台なのだ。責任をもってぶっ壊さなければ。
「……ごめん」
 しかし、口を開いたガーネットから出てきたのは、掠れた響きをした、こんな謝罪の言葉ばかりであった。
 振り向くことさえ、彼はできなかった。ガーネットの髪が、顔の横にさらりと垂れてココア色のカーテンを作っている。すぐ隣で影がしゃがむ気配がして、彼は更に背を丸めた。
「姿勢、悪くなってますよ。先生」
 その言葉に反射的に姿勢を伸ばそうとして、やめる。ガーネットは帳の向こうで顔を歪めた。両膝に額を押し付けて、風が吹いても舞い上がらない自分の身体の重さを呪う。オリーブはきっと、何を言ってもここから動きはしないだろう。それくらいは分かっていた。ずっと前から。
「先生は、悪いことをしたんですか」
 ぽつ、と一粒雨が降るような声だった。きっと問いかけですらなかった。膝に爪を立てる。心臓の方がもっと痛かった。
「先生が、」
 言いかけて、オリーブが喉に息が詰まったように呼吸をする。彼の眉尻が下がるのが、見なくても分かった。それからもう一歩、距離が縮まったのも。
「先生が俺に好きだって言うのは、悪いことなんですか? じゃあ、俺が。……俺が先生に好きだって言うのも、悪いことになっちゃうんですか?」
 ガーネットは思わず顔を上げた。
 心の中だけで彼は頷く。そう。そう、その通りだ。悪いこと。悪いこと。悪いことだ! 唯一、いま自分が彼に対して教師らしいことができるとしたら、それは。それは、教えてあげることだけだ。悪いことをしてはいけません。言わなければ。息を吸う。視線がかち合う。ペリドットの瞳がこちらを見ていた。睫毛が濡れていた。頬に水の痕が残っていた。首が絞められるような心地がした。息ができない。言葉が出ない。オリーブは両腕に、こちらが先ほど道端に捨てた鞄、上着、靴を抱えている。自分の荷物を引きずってまで。自分の荷物を引きずってまで、こちらが落としたものたちを。鼓動の音が聞こえない。心臓を引きずり出されたような気分だった。
「……ガーネット・カーディナルさん」
 名前を呼ばれる。腕を掴まれる。視線を動かせない。何かを言おうと思ったが、あまりに腕の力が強いので、ただ、はく、と息を呑んだ。
「──あなたが好きです」
 何を言われるのかはほとんど想像が付いていたのに、ガーネットの瞳はこれ以上ないほどに見開かれた。何もかもを物語るように、彼の片目からぼろ、と一粒涙が零れ落ちる。
「だって、」
 そして、ひどくゆっくりとかぶりを振った。
「だって俺は、お前の先生で、お前は、俺の教え子、で。俺は、お前より九つも年上だし、自分勝手で、横暴で、酒は飲み過ぎるし、部屋は片付けられないし、そう、酔った勢いで教師になったような人間だし、学生時代の負けを未だに引きずってる。服の趣味もおかしいらしいし、料理も下手。それに、人の才能にすぐ嫉妬する。お前をクーデールに選んだのは、俺≠ェお前の才能が欲しかったからだよ、オリーブ。家族だっていない。縁を切られてる。お前とはまったく別の事情だ。医者の家でさ、でも、俺は踊りたくて。踊るのが好きだって、家は継げないって言った。俺から、家族を裏切った。なのに、一人が嫌いなんだ。一人の部屋、広くて。それで、いろんなやつと付き合ってみたけど、踊ることしか能がないから、まるでだめで。ほんとう、百回くらいだめだったと思う。だから、教師になってからは楽しかった。ほんとうに楽しかった。今も。ロワゾと学園で朝から晩までずっと踊ってられる。寮にはいつも誰かいる。でもさ、好きだって言うのはずっと怖いよ。そうすると、いつも全部壊れてなくなるんだ、家族みたいに。全部俺のせい、なのにな。なあ、俺、ちょっとおかしいんだ。誰だって気付いてる。お前だって分かるだろ? オリーブ、俺じゃあだめだ。ろくでもない人間とは関わるな。お前にはちゃんと幸せになってほしい。ほんとうだ。ほんとうに。こんなところにいないで、もっと楽しいところに行くべきだ。お前、休みを俺なんかのために使ってさ、もったいない。俺は、自分のためにお前から歌を奪ったんだ。だから、ダンスくらいは、ダンスくらいは、俺以外と踊れよ。一人になるな。たくさん公演に出ろ。拍手を浴びろ。いろんなやつからハグされて、それから、美味いものを食え。それで、熱い風呂に入って、あったかいところで寝ろ。寒い部屋で寝たらだめだ。そうしたら、俺、ちゃんと……ちゃんと、よかった、って、お前に言える、言う。から」
 ガーネットはもう、自分が何を言っているのかさえよく分からなかった。ただ、とにかく、引っ張り出した心臓を元のところに返してほしかった。そこが痛くてしょうがなかった。彼は自分の身体のいかにも心臓がありそうな場所をぎゅう、と掴み、赤い両目をより赤くして、乞うようにオリーブのことを見つめる。また涙がこぼれて、それは相手の腕をぬるく濡らした。オリーブは目を逸さないまま、ガーネットに対して小首を傾げていた。
「……まだあります?」
「この前の公演、……ほんとうは、観に行ってた」
 その告白に、オリーブはくすりと笑いさえした。彼は腕を掴んでいる手の力を少し緩めると、今度は両の手を使ってガーネットの手をぎゅうと握った。
「ガーネットさんがそういう人だって、俺、前から知ってますよ。それでも好きなんです」
 そして、そうはっきり言いきった後、オリーブは思い至ったみたいに瞬いて、それからへにゃりと笑ってみせる。
「あ。いま知ったのも含めて、です」
 ガーネットはオリーブの目を見ていた。涙に濡れてきらきらと輝くそこに在る、自分の姿さえも目に映していた。この世の悪を背負う緑が、しかしこんなに綺麗な晴天の青を映すこともなく、ただひたすらに眼前の赤をその瞳に宿している。彼は握られた手を見た。あたたかいを通り越して、最早熱くさえあった。何もかもすべて、狂気の沙汰のように思える。ガーネットは息を吸った。心臓がどくどくと鳴っている。鳴りすぎて、耳の中にあるみたいだった。未だ胸が痛い。
 だから、彼は涙と共に少しだけ笑った。俺は心臓の一部を千切って捨てた。それを彼は拾った。彼に持っていかれたのだ! これを不義と呼ぶなら、不道徳というなら、俺はもうずっと悪でいい。けれど、これを不義と呼ぶなら、いったい世界の何を恋と呼ぶのか? ガーネットは今度こそ声を上げて笑った。
「なあ、後悔するぞ。経験上のアドバイスだ」
 ガーネットの唇がそんな台詞を発し、指先がオリーブの手の甲で踊った。オリーブの視線がガーネットの指へと向き、そののちに彼は目を細めて小さく笑んだ。
「後悔したら、したとき考えましょう。でもきっと、踊っていたら気にならなくなりますよ」
「ほらな? お前、継母を焼けた鉄板の上で踊らせるタイプだ」
「俺がいつ先生のことを虐めたんですか」
「今日」
「今日かあ」
 オリーブはぐす、と鼻を鳴らして、それからあはは、と笑った。彼は自分の荷物の上に相手の鞄やら上着やら靴やらを置いてしまうと、ぐい、と手を引いて、ガーネットと一緒に立ち上がった。
「じゃあ、踊ってください。ガーネットさん」
 その言葉もまた、やはり問いかけですらなかった。オリーブは首どころか、まなざしさえ傾げていなかった。それはまさしく。ガーネットは頷いた。
「俺も、そうするしかないと思ってたところだ」
「踊るしか?」
「そう、踊るしか」
 それはまさしく、すべての答えであった。
 ガーネットの言葉を聞いたオリーブは嬉しそうに頷いて、相手のことをその場でくるりと一回転させる。ガーネットは笑った。頭のてっぺんから足のつま先までが、ほのおに包まれるがごとくに熱かった。戻ってきた感覚が一瞬の内にして再び消え失せ、けれどもそれのなんと心地が好いこと。晴れた青空から差す陽光が白く輝いている。よかった。そう、晴れでも雨でもよかったのだ。どうでも、よかった。どうせ火は消えない。繋いだ手から燃え移る。火は回転する。火は舞う。火は踊る。火は溶け合う。火は一つになる。瞳の端からこぼれた涙までも熱い。熱は涙。涙は血液。血液の赤もまた、悪の色そのものだった。彼らは踊った。すべてを暴く空の下、緑と赤を隠し立てすることもなく。だって、そうだ。彼らはもう、踊るしかなかった!
「ところで」
 ぱち、とガーネットの睫毛が上がる。オリーブが何かを思い出したみたいに、ふとガーネットに声をかけたのだった。オリーブは自分の腕に腰を預け、身体を限界まで反らせて空を眺めているガーネットの顔を覗き込む。
「楽屋の前の花、先生ですよね」
「……なんで分かる?」
 痛いところを刺されたように眉根を寄せたガーネットに、オリーブは密やかに笑って、それからかわいらしく首を傾げた。そんな相手に、ガーネットは極めて大げさにはあ、と溜め息を吐いてかぶりを振った。
「なるほど、分かった。俺もお前に言いたいことがあったんだった」
 ガーネットはにっこりする。そうしてオリーブと手を繋いで踊ったまま、彼はおそろしく美しい羽ばたきで自身の鞄の前に舞い降りると、そこから水の入ったペットボトルを引っ張り出しては、
「お前はすぐ水分補給をお忘れになるな、オリーブ?」
 そう言って、そのどちらをも透かす輝きを軽く宙に放ったのだった。



20210618 執筆

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