ゲンミナティオ


 わが名はイリス。
 虹の名前を冠す者。
 トレジャーハンター。
 〈星の墜ちた地〉を目指す者である。


*



 ──崩壊した遺跡。
 しかしそれは、遺跡を覆う植物の大群によって、その姿を未だ留めていた。
 鮮紅の宿る瞳でその緑の遺跡を見つめる彼女は、音にもならないほど小さく息を吐くと、それから額に滲む汗を拭った。
 此処は、たそがれの國=qソリスオルトス〉。
 水涸れ、大地の変異、病の流行、人を含む動物の凶暴化──彼らは広く魔獣≠ニ呼ばれている──等々が原因不明に、おそらくは見境なく起こっているために滅びを眼前に臨みながら、しかしそれに抗う誇り高き日の出の王國、夜明けの王國である。
 暮れゆく大地に立つ彼らの生き様は、人の数だけ存在する。
 生きるために知恵を絞る者、黄昏を食い止めんとする者、緑に満ちた新天地を目指す者、今在るものを愛する者──今、此処にも一人、涸れゆく大地の上に立っている者がいた。
 彼女の名は、イリス・アウディオ。
 肩より少し長い、ふんわりとした鮮やかな橙色の髪を彼女は一房だけ頭のてっぺんでまとめており、それは彼女が歩くたびにさながら尻尾のように揺れ動いた。
 長旅で日に焼けた顔には、鮮紅の瞳がそなわっている。そのつり目がちの瞳は、いつもどことなくぼんやりとして見えたが、ひとたび彼女の心に火が点けば、その紅色は虹の火の粉を宿したようにちかりと煌めくのだった。
 イリスが眼前の遺跡に向かって一歩、足を踏み出す。
 首に巻いている、まるで電氣石のように色が上から下にかけて変化している虹色の薄布が、彼女の一歩に呼応するかのようにはためいた。
 イリス・アウディオ。
 トレジャーハンター。
 ──これは一人の、夢のために命を燃やす者が歩む、たそがれの旅路の物語である。


*



 遺跡に足を踏み入れると、ひんやりとした心地好い空気が肌を滑って駆け抜けていった。
 此処は、絶滅都市〈ゼーブル〉と呼ばれる最早朽ち果てた都市から遠く東、こんにち人が踏み入れることはほとんどなく、雨などほとんど降らぬというのに何故か異常に植物が発達している土地、熱滞林≠フ奥地である。
 熱滞林では、雨が降らないのにやたら温度も湿度も高い風ばかりが吹くため、此処は妙に暑いのだった。
 イリスはそんな、この地の不思議さを思う。
 しかし思ったところで分かるはずもない。ならばこの地が何故、こんな風におかしなことになっているのかについてはその道に詳しい研究者にでも任せておくに限る。
 イリスは外に比べて格段に涼しい遺跡の中を進んでいきながら、何か違和感を覚えて自身の横に位置する壁に目をやった。
「ん……?」
 ──やはり、此処の植物たちは異常に発達しているのだった。
 目の前に在るこの植物が良い例である。壁に絡んでいる腕よりも太い蔦、その先にはイリスの顔二つ分ほどもある大きな蕾が抱えられている。
 その蕾はさながら暗がりで光る螢石のようにぼんやりと光を宿しており、美しいというよりは不気味に見えた。
 イリスは手にしているその燃えるような色の短剣で、試しに蕾を叩き斬ってみると、それはぼたりと地に落ちる。
 そして迫る死に抵抗するかのように、その蕾を開いて花を咲かせ、花びらの表面に無数にそなわった、針のような牙のような棘を打ち鳴らしては油蝉のような声を上げ、その抵抗虚しく紅い水晶となっていった。
 イリスはそれを見届けると、少しばかり疲れたような顔で首を横に振って、小さな声で呟いた。
「……やっぱり、魔獣」
 蕾を斬られたことにより気色悪く蠢く太い蔦を眺めながら、イリスは口元に手を当てて、ふむと頷いた。
 彼らは、魔獣。
 誰が上手いことを言えと言ったのかは知らないが、今自分が叩き斬ったのは蝕物≠ニ呼ばれている元、植物の魔獣である。
 おそらくは、此処の植物の異常発達に原因があるのだろう。
 たとえば、なんらかの原因でここら一帯の植物が異常に成長してしまった。
 しかし、水涸れが各地で起きはじめているこの大地には、異常発達を遂げた植物たちを皆満足させるほどの水は残されていない。そのため、植物は飢える。
 植物にだって心は在るだろう──辛いだとか、苦しいだとか、お腹が空いただとか、いろいろと。
 その飢えた心によって、ここらの植物たちは魔獣化し、蝕物となってしまった。そんなところではないだろうか。
 イリスは考えながら、しかしとかぶりを振る。
 魔獣と言っても、蝕物はさほど脅威にはならない。刺激さえ与えなければ、攻撃もしてこない魔獣なのだった。
 そう思考するイリスは、遺跡の床に這っている蔓に足を引っかけてさっそく蝕物たちを怒らせながら、それでも遺跡の奥へと進んでいった。
 歩を進める足が軽快な調子を刻んできた頃、遺跡の中央部、円形の大きな広場のような処に、見知らぬ誰かが立っていることにイリスは気が付いた。
 一瞬、盗賊の類だろうかと身構えた彼女だったが、纏っている空気でその誰かが少なくとも賊の輩ではないことがなんとなくイリスには分かった。
 近付くにつれ、その人影が明瞭になってくる。
 黒いローブを羽織り、長い真白の髪を一つに編上げている、長身の老いた男だった。
 イリスが近付いてきていたことにはとっくに気が付いていたのだろう、彼はこちらを振り返り、その黒い瞳を細めては陽気な梟の鳴き声で笑う。
 イリスも首を傾げながらになったが、口元にだけ一応笑みを浮かべておいた。
 初対面の相手にいきなり笑いかける相手に、何を考えているか分からない人だ、とイリスは思いながら、そういえば自分もよく何を考えているか分からない、と言われることを思い出して、少しばかり可笑しな気持ちになった。
「此処ははずれじゃよ、ハンター」
「……私がトレジャーハンターだって、分かる?」
「それは、見れば分かるとも」
「そう。……でも、私も分かる。あなたは、トレジャーハンターじゃない」
「ご名答。おれは、錬金術師だ」
 錬金術師。
 ならば、この遺跡には自らの錬金術に使う素材を採りにきたのだろうか。
 幾ら蝕物が脅威にはなりにくいと言っても、此処は魔獣の巣窟である。しかも、この蒸し暑い熱滞林の奥だ。相手は若くない、此処まで来るのだって容易なことではなかっただろう。
 そこまで考えて、イリスはしかし、と思った。
 ……人は、見かけによらないと言う。
 この老人に見える男も、錬金術の研究に没頭しすぎてこんな風に老けて見えるだけかもしれない。
 ──いいや、それだけは有り得ない。
 我ながら可笑しな発想である。やはりこの熱滞林の暑さが頭にまできてしまったのだろうか。
 いや、しかし、老いていることは確かとして、もしかするとこの錬金術師は並々ならぬ体力と力を持っているのかもしれない。
 いやいや、もしそうであったとしても、此処まで来るのはやはり容易なことではなかった。自分だってこの遺跡に辿り着くまでに、かなりの体力を消耗している。すごく、疲れたのだった。
「……こんな処まで、大変ね。錬金術師は」
「ふむ、まぁな。しかし、それはおまえさんとて同じだろう、ハンター?」
「それは、そう。……でも、楽しい」
「だろうな。見れば分かる。おれも同じだ」
 再び陽気な梟の声を上げた錬金術師に対してイリスは頷くと、遺跡の更に奥へそろそろ進もうと思い立ち、歩を進めて彼の横を通り過ぎる。
 すると後ろから、夜のやさしさと冷たさを含んだよく通る声が飛んできて、イリスはゆっくりと振り返った。
「此処ははずれじゃよ、ハンター」
「ええ、聞いた」
「それでも、行くのか?」
「……もちろん。だって私は、トレジャーハンターだもの」
 ちかりと鮮紅の瞳を煌めかせてそれだけを返すと、イリスは老人に再び踵を返し、今度はもう振り返ることはせず、靴音を鳴らして遺跡の奥へと進んでいった。
 そう、彼女の宝探しは、まだ始まったばかり。

 イリス・アウディオ。
 トレジャーハンター。
 ──これは一人の、夢のために命を燃やす者が歩む、たそがれの旅路の物語である。



20160912
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