シャンナムカで初めて「秋」を知った。
ふと空を見上げれば、青く澄み切った空に鱗雲。
夏に比べれば随分と涼しくなり過ごしやすいが、陽が落ちるのが早くなりーー何処かもの哀しさを感じる季節だ。
息を呑むほど美しく、まるで燃えるように山々を染めていた紅葉が色褪せ、ひらりひらりと地に落ちて行く様子に、やがて近付いてくる冬の気配を感じた。
夜には身震いするほどに冷えた空気が身体を包む。
そんな中であたしは、夫である宵紅の部屋へと足を向けていた。
シャンナムカへ嫁いで、早二ヶ月が経とうとしていた。
最初はあたしを全力で拒絶していた宵紅も、最近になってようやく心を開いてくれた。
彼があたしに初めて笑いかけてくれた時はーー嬉しくてまるで夢を見ているみたいだった。
庭園を散歩した時には手まで繋いでいたんだけど、真っ赤になっているであろう顔を見られたくなくて、なかなか宵紅の方を向くことが出来なかった。
宵紅の部屋の前まで辿り着いたーーまだ灯りはついている。
宵紅の部屋にはかなり大きな本棚があって、寝る前にはいつも書物を読み耽っているのだそうだ。
少し前までなら、部屋を尋ねただけで嫌な顔をされたものだ。
が、今は違う。
門前払いをされることは無いだろう。
……多分、だけど。
「し、宵紅?」
扉を軽く叩き、声を掛けた。
少し待っていると、宵紅が出て来た。
「麗月」
あたしの名前を呼ぶその声は、思わずほっとする程に優しいものだった。
「あっ……少し、お話したくて……でも、もし勉強の邪魔だったら出直すから」
「入って構わないぜ」
「ほんとに!?」
あたしの問いに、笑顔で頷いてくれる。
ああ、信じられない。こんな日が来るなんて。
「お前が来てくれて嬉しい」
そう言って、宵紅はあたしをそっと抱き締める。
思わぬ彼の行動に、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「わぁっ!?」
あたしの大声を聞いて、宵紅は笑っていた。
顔が、それこそ火が出そうなくらい熱くなる。
恥ずかしさのあまり宵紅の身体を押しのけてしまった。
「……悪い。嫌だったか……」
途端に宵紅の表情が曇った。
あたしは慌てて否定する。
「違うよ!びっくりしただけなの!」
何なら、ずっとあのまま抱き締めて欲しかったくらい。
「だって、宵紅があたしを笑顔で迎えてくれるなんて……」
そろそろと彼にくっついてみた。
「……まあ、それはそうだな。俺も、自分の変わり身の早さに驚いている。あんなに酷い事をしたのに……今は、お前が愛しくて仕方ない……」
宵紅の手があたしの髪を優しく撫でる。
こんな幸せがあるだろうか。
これ、ほんとにあたしの夢じゃないよね……?
「嬉しい……」
思わず口をついて出た言葉は、紛れもない本心。
「……」
やがて、あたしを抱き締めていた宵紅の腕の力が緩んだ。
「麗月が此処に来てからふた月か…もう慣れたか、宮廷での生活には?」
「毎日驚くことばかりよ。故郷のリッザオとは、何もかもが違うわ。賑やかで活気があって……」
「リッザオ、か」
「寂れたところよ、寒々しいっていうかね…食べ物も無いし、貧しくて、荒れた街も多かった。王家って言っても貧乏暮らし。あたしが小さい頃おやつとして食べてたのなんて、その辺で採ってきた木の実だもん」
舌に残る木の実の味、硬い食感を思い出す。
「その点、シャンナムカの食べ物の美味しさったら……食べ過ぎて、太らないようにしなきゃね」
「お前はしょっちゅう動き回っているからその心配は無いと思うが」
…あたしって、やっぱりそんなイメージなんだ。
「でも、一応こんなでも姫なんだから…もう少しお淑やかに振る舞うべきだよね。あたし」
「……姫だからこうあるべきだ、とかそんな事は大して気にする必要はないだろう。リーがいい例だ」
確かに宵紅の妹である宵里も、あたしに負けず劣らずいつも走り回ってる印象がある。
勉強が苦手で、すぐに逃げ出してしまうらしいところもかなり親近感を感じる。
「でもさ、宵里はやっぱり女の子らしくて可愛いよね。女のあたしから見ても魅力的!いいなあ」
「……麗月だってそうじゃないか」
「えっ」
「お前は可愛いぜ、麗月」
さらりと宵紅は口にする。
「か、か、可愛いだなんて……」
そんなこと、言われ慣れていないものだから、…ましてや宵紅に言われるなんて。
顔がつい綻んでしまう。ああ、今のあたし、ものすっごく間抜けな顔をしてるんだろうなぁ。
「宵紅、あんまりあたしを甘やかし過ぎないで」
「俺は思ったことを言っただけだ……」
うう。もう、こんなんじゃ身がもたないよ。
「あ、あたし喉乾いちゃった。誰かに頼んで、お茶を持ってきてもらおうかな」
とりあえず一旦部屋の外へ出た。
今は、火照った顔にひんやりした風が当たって気持ちいい。
その辺に居た侍女の子を呼び止めて、二人分お茶を持ってきて欲しいとお願いした。
「承知しました」とにっこり笑って、一旦その場を立ち去る。
少し待っていると、早足でお茶を持ってきてくれた。
宵紅が甘い物嫌いだということはよく知っているのか、お茶に添えられた甜品は一人分だけだった。
「宵紅って昔から甘い物がダメなの?」
「ああ。食うと気分が悪くなるんだ…」
「そっか。でも、シャンナムカのお菓子って凄く美味しいよ。ここで出されてるものは、上品で甘過ぎない感じ…宵紅も好きになれるんじゃ?」
あたしとしては一緒に甘味を楽しみたい気持ちがあった。
「……俺は、麗月が食べているところを見るだけでいい」
「そう…?」
残念に思いつつもナイラオを口に運んだ。
すうっととろける、滑らかな絹のような食感。優しい甘さ。
シャンナムカのお菓子で、今のところあたしの一番のお気に入りだ。
「はあ、美味しい」
「幸せそうだな」
お茶を飲んでいた宵紅がふと手を止めた。
「……麗月」
あたしの顔に宵紅が手を添える。
どうしたの、と問う暇もなく、あたしの唇は塞がれた。
……宵紅の唇によって。
そのままあたしの唇の端を軽く舐め、そっと離れる。
頭の理解が追いつかず、目を白黒させていると、宵紅が苦笑いをした。
「……やっぱり甘過ぎる」
お茶を再度口にする宵紅。
そこでやっと何をされたのかに気付く。
何か言おうにも言葉が出て来ず、ただ口を開けて彼を見ているだけだった。
その日、あたしがなかなか眠りにつくことが出来なかったのは言うまでもなく……。