「私を見てくれ...」
あぁ....瞼が重い。
薄れゆく景色の中で、過去の美しい思い出だけが脳内を優しく駆けていく。
目の前の最愛の女性と同じ緑色の瞳に、憎しみや苛立ちはなく、そこにはとても穏やかな気持ちがあった。
緑色の目は戸惑いの色を見せている。
気づけば自分の瞳から涙が零れ落ちてた。
ーーー涙...?
何故今更涙を流すのだろうか。
死を間際にして感情が高ぶったか。
誰からも理解されなくていい、ただ一人私が愛したたった一人の女性の約束と宝物を守りたかっただけだ。
けれどーー。
彼には、彼だけにはわかってほしい。
そうして気づけば彼に自分の涙を託していた。
どうか、、、君の愛したお前だけはーー。
涙を小瓶に移し、しっかりと握りしめた姿を最後に私の記憶は途切れた。
(ーーを見てくれ...)
暑い湿気の中で頭でもおかしくなったのか。
頭の中で聞こえた声を探して部屋の中を見渡したが狭い部屋には私一人しかいない。
.....とても、低い声だった。
26歳にもなって頭の中で低いバリトンボイスを作り出すなんて相当男に困っている女みたいだ。
『お金には困ってるんだけどねぇ...』
誰もいない部屋でポツリと声が虚しく消えていく。
部屋の隅には滞納した請求書が山のように積まれている。
女性の部屋にしては女っ気のない部屋で、鍵をかけ忘れていたらいつ犯罪に巻き込まれても文句の言えないアパートだった。
『そろそろちゃんと仕事しなくちゃいけないなぁ』
重たい腰を起こしながらクシャクシャになったスーツの山をハンガーにかける。
金木犀の花が枯れ果て、花瓶の周りで命の終わりを告げていた。
埃っぽい部屋の窓を開け、黒いカーテンを解放すると数日ぶりに見た朝日が小さな部屋を照らしていた。
茶色に染めた髪の毛の生え際には、20cmほどの黒い髪の毛が彼女の止まった時間を刻んでいる。
毛先は清潔感がなく枝毛になっていて、気づけば腰の長さまで成長していた。
長い髪を一つにまとめると、埃をかぶった部屋を時間をかけて掃除していく。
積み上がった書類の山を丁寧に紐で固定すると玄関の近くにゴミと一緒にまとめた。
『..,久しぶりにこんな綺麗な部屋見た』
気づけば太陽は真上に差し掛かり、陽の光も桁違いに強くなっていた。
キャミソールを脱ぎ捨て洗濯機の中に放り込むと、女っ気のない白いシャツと足のラインが綺麗に出るブルージーンズを履き、ポケットには小さな財布を入れる。
部屋の鍵をかけて、家を出るとスーパーまで徒歩10分。
なかなか家から外に出ない私にとってはかなり長く苦痛な時間だ。
そそくさに必要な材料だけを揃えて、急いで帰路に向かおうとすると今まで目に付かなかった林に気がついた。
(あんなところあったっけ?)
一応ここは東京都内。駅からはだいぶ距離があるため、風情のある懐かしい雰囲気がまだ残っている。
もちろん緑も健在だ。
しかし私はなかなか周りを見渡す余裕がなかったため林の存在に気づかなかったのだ。
ーー何の気の迷いか、私の足は林へ向かっていた。
スーパー以上に歩いているが不思議と怠さはない。
むしろ心臓がいつもより早く脈打っている。
しばらく進むとそこには石造りのレトロな建物があり、誰にも見つかることのなかった其処は美しい廃墟と化していた。
しかし怖さはない。おそらく時間帯のおかげだろう。
恐る恐る足を踏み入れると、真っ先に私の目に飛び込んで来たのは夏の時期にふさわしくない全身真っ黒なローブを着た男性だった。
彼の首は赤く染められ、顔は青白く生気を感じられない。
所々に打撲と、なにやら抗争の跡も見られた。
『ちょ、大丈夫ですか!!?』
見つけてしまったからには助けなきゃ、そんな責任感が自分を動かしていた。
男の頬を何度も叩くと小さく息が漏れた。
(!!!生きてる!!!)
『とりあえず100番!』と思いポケットを触るがカバンは持たない主義の私のポケットには財布のみ。
この時ばかりは自分の女っ気のなさを憎んだ。
仕方ないのでローブを買い物袋にしまい込み、ローブの裾を強引に千切って彼の首に巻いた。
意識のない彼を自分の小さな背中に背追い込み、真夏ね日差しが強い中1時間以上かかり大通りに向かう。
大通りでは運良くタクシーを捕まえることができた。
『すみません、ここまでお願いします。』
自分の住所が書かれた携帯を運転手に見せると不思議そうに意識がない男を横目で一瞥していた。
『....彼と遊んでいたら林の向こうの崖から落ちてしまったんです。医療の知識があるので早く応急処置をしたいのですが、最短で自宅へお願いできますか?』
そういうとハッとしたように運転手が真面目な表情にかわり、「任せてください、なるべく信号を避けますね」と答えてくれた。
途中で「大変でしたね」とか「病院に向かいますか?」など車内での会話を持ちかけられたがスルリと交わした。
下手なことを言うとかえって怪しまれてしまうかもしれない。
動揺する恋人を演じている方が色々めんどくさうないだろう。
彼を背中に乗せた私に運転手は「お大事に」と言う言葉を残し車は去っていった。
部屋の鍵を開け、自分の靴は適当に脱ぐと彼を風呂場まで連れていった。
彼のボロボロの靴を脱がし、衣類を全て洗濯機へ投げ入れる。
(...見ず知らずの人の服を脱がせるなんて性別が逆だったら警察物だけど..)
今はそれどころではない。
私だってもう26だ。男の裸で頬を染めるほど産な年頃じゃない。
布の切れ端を首から取ると血が乾いてるのが確認できた。
とりあえず見ず知らずの男の体を丁寧に洗い、泥や血を落としていく。
『.....え?どう言うこと?』
体が綺麗になった彼の首筋をみて目を見開いた。
傷口がなかったからだ。
しかしシャツやローブにはべっとりと彼の血が付いていた。
(どこも怪我してない)
混乱したもののとりあえず彼を浴室から出し体の水分を綺麗に拭いていく。
タンスから昔の男の部屋着と下着を取り出し男に着せると、再び重い体を持ち上げて彼をベットに寝かしつけた。
(何者なんだろう..この人)
腕のタトゥーからしてヤクザ?とも思ったが、そんなことを考えているうちに私は睡魔に襲われた。