暁の少年

(#1 小ネズミ、9月8日早朝)



空が白み始めている。


窓の外を見て一瞬ひやりとしたけれど、どうやら未だ追っ手の気配は無いようだ。ほっと安堵の息を吐く。


しかし、そうゆっくりもしていられない。
奴等のことだ。今に此処を嗅ぎ付けて来るだろう。


音は立てないようにして、上体を起こす。
深くは眠らない習慣が付いているとはいえ、何せあれだけ体力を消耗し切った状態であった。こうしてちゃんと、覚醒することが出来てよかった。


昨晩の熱も幾分か治まっている。これなら、万が一途中で見つかっても、なんとかなるだろう。‥否、なんとかするしか、ないのだけれど。


視線を移すと、すぐ隣には添い寝をするかのように転がった、例の変わり者がいた。
いつの間にそうされていたのか、五本指が確と絡めとられて、ぎゅうと握られている。


気付かなかった辺り、全く、たった一晩で気を許し過ぎだ。
けれど、まあ。すやすやと無防備に眠りこけるこいつ相手には、警戒するだけ無駄なようなものなので。今回だけ、と目を瞑る事にする。


絡められた指を、一本一本、ほどくようにして、繋がれた手を離していった。


―温かな手だ。
柔らかく、無防備で、優しくて。そして、おれを救ってくれた。

こんなに小さいのに、突然差し出されて、難なくおれという全てを救ってみせた、不思議な手。


「‥ん、」


その手のひらの中から、そっと逃げ出した瞬間。
身動ぎをした紫苑に、少しだけどきりとした。

起きるかと思ったけれど、すぐにまた、心地良さそうに寝息を立て始めたので。
よかった、と。おれは本日二度目の安堵の息を吐く。


別に引き留められるとか、そういう事は無いだろうが。向かい合って見送られるとなると、なんだかひどく落ち着かない気分になるのだ。
なんとなく、顔を合わせ辛かった。


そりゃあ確かに、再度、礼は言うべきなんだろうけれども。
何せこんなシチュエーションには慣れていないもので、対処の仕方に悩まされたのだよ。


結局、眠る紫苑を背に、気配を消してベッドから降り立った。


ふかふかのベッド、これもまた貴重な体験だった。多分、こんな寝台で眠る機会は二度と無いだろうな。
そんな下らない事を考えながら、ふと辺りを見回して。


見つけたそれに、少し悩んでから手を伸ばす。
紫苑の救急箱を、拝借していく事にした。返す予定が無い辺り窃盗だというのには、どうか目を瞑って戴きたい。


肩の糸を抜く時に必要だからというのは当然だけれど、しかし、それ以上に。
おれはこの瞬間、まるで手に入れた宝か何かを、こっそり盗み出すかのような気分であった。


考えたくもないけれど。
おれは、自分の命を救った、この小さな英雄達を。思い出として、或いは証として、手に取れる形で持っていたかったのかもしれない。


そうして、この特異な趣味のシャツや或いはタオルなんかと共に、きっとずっと大切に持っておくだろう自分が、いま安易に想像出来てしまって。思わず自分を、嘆きたくなったものだ。


嗚呼、けれど。
それくらい、この一連の出来事は、おれにとっては奇跡だったのだよ。
どんな金塊より宝石より、この日の残骸諸々の方が、おれにとっては価値がある。
それこそ、あの日遺されたお婆の言葉も、この時限りは忘れてしまいたくなったくらいには。


‥そういう事で、許してくれないか、紫苑。
もしかしたら、夢かもしれない。だからその証拠に。なんて、我ながら女々しいけれど。


忘れたくないと思っている辺り既に手遅れであるとは、嗚呼今は、考えたくはないよ。
どうかこの朝だけは、幼い身であるのを言い訳に、誤魔化す事を許して欲しい。何を背負ったなんて全て知らぬ振りをして、ただ純粋に、この奇跡を喜ばせて。


「‥‥」


息を潜め、階下へ降りる。
まだ雨の名残を纏うガラスを開いて、朝霧の待つ、窓の向こうの世界へ。


―おれが生くのは、此方だ、紫苑。


在る世界のまるで異なるあんたとは、多分、もう二度と、会えないかもしれないな。
どうかあんたの世界が、おれという轍の為に、壊れてしまわないよう。そう、切に願う。
壊そうとしている当人が言うのも、矛盾しているだろうけれど。


「‥紫苑、」


何か言おうか、しばし迷って。でもどうせ眠っているのだし、と。結局唇を閉じた。

未だベッドの上で熟睡するだらしないその姿を見れば、自然と笑みがこぼれる。
なぁ、あんたのその間抜け面、一生、覚えておいてやるよ。


(‥じゃあな、紫苑。)


まだ夢の世界に浸る、おれの小さな救世主に告ぐ。



―絶望の果て、出逢えたのがあんたで、よかった。
他でもないあんたで、きっと、よかったと思う。



「‥‥」


さあ、もう、朝陽が来る。
暖色に染まり始めた空の端を眺めて、澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ。


嗚呼、狩猟の得意な大人だろうが何だろうが、今なら何にでも勝てそうな気分だよ。
今までの人生の中で、きっと一番清々しく、晴れやかな心地で。おれは、朝焼けの世界へと踏み出していった。



‥どうしてだろうな。
それでも、あんたとはまたいつか、巡り逢うような気がするんだ。


そうだな、紫苑。もし本当に、そんな事があったなら。その時は、ちゃんとあんたに、礼を言おう。
善くも悪くも、世界を丸ごと塗り変えてしまうような、そんな奇跡をおれにくれた。

この想いを、きっと、必ず。







『お待ちしておりました、陛下』


いつか始まる、その時に。







(‥嗚呼でも、救世主は、少し言い過ぎたかもしれない。)







了.
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何番煎じな上にネズミが誰おま状態ですので、此方に掲載。




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