魔法より強く 7



傲慢すぎると思いながらも、何度か考えた。彼女を抱くことができるかと。
そのつもりになるとかいう以前の話だったつぼみと違い、今やすっかり育った果実。
(でも……無理だわ)
美しいのはわかる、子供ではないことも。愛している。だが、触れることはできない。できるわけがない。

もしも今彼女に愛を告げられたなら、断る言葉がない。受け入れることもできないのに。
だから彼はぎりぎりのところで、なにかをかわしつづけた。そのたびに、イヴの心が少しずつ乾いていくのを感じながらも。




イヴの20才の誕生日を三日後に控えて、彼女は自宅へ彼を招いた。
使用人はいるが両親は留守だということを告げられたのは、玄関ホールをくぐってから。
(失敗したかしら)
あまり、二人きりにはなりたくない。だが今更帰るわけにもいかない。
どうぞゆっくりしていってね、と微笑むイヴにぎこちない笑顔を向けた。
曇天は鋼に似た色で空を覆っていた。雨は嵐になるかもしれないと聞いた。
(雨を理由に早めに切り上げよう)
ずるい男だ。わかっている。わかっていた。

「料理作ってみたから、食べてほしくて」
そんな言葉で彼女の自室で供された食事はどれも美味で、年代ものの赤ワインにもひけをとらなかった。
おさないころにつくったつたない手作り菓子とは違って、どれも大人びた味わいの本格的な料理たち。
「うん。とってもおいしいわ」
「ありがとう」
「毎日食べたいくらい」
「ほんとうに?」
失言だった、と気づいた。ほんとうだが、本心でもない。
だからギャリーは答えない。
穏やかなやりとりを交わしながら、互いに喉元へ刃物を突きつけ合っているようだった。イヴは何かを決意している。それが痛いほど伝わるし、その何かの答えを彼は知っている。
(言わないでくれればいいのに。そうすれば、ずっとこのままでいられるのに)
叶えられない願いをのぞまれたなら、消えなければならないのに。
このごろずっと、もう離れなければいけないのだろうかと考えはじめていた。
今のイヴに必要なのは、魔法使いのようななんでも叶える保護者ではない。共に歩いてゆけるひとだ。
お気に入りの靴を服を彼女が手放してきたように、彼という存在はイヴに似つかわしくないものになりつつある。
「そろそろ恋人を作ってもいいんじゃありませんの?結婚だって」
イヴの母にそう言われたときはまだ考えられないと言って笑ったが、あれは婉曲な牽制だったのではないだろうか。
今だって、イヴの瞳の内側にほのおが灯っている。
美しい人だ。心だってそうだ。目の前で揺れ続けるそれは、彼が手を伸ばすのを待っているのだ。


「わたし、もうすぐ二十歳になるの、ギャリー」
なにげないように彼女がフォークを置いた。だがそれは彼女が思う以上に強い決意のこもった言葉として響いた。
「ええ。プレゼント、ちゃんと用意してるわ」
だからそれを押し流してしまいたくて、くだらなく、なによりも大切にしてきた日常の話でおおいかぶせようとした。
「うん…… あのね、それで」
「あら、雨が降ってきた…… 結構強いわね。いやね、嵐が来るかもとは聞いてたけど」
「ギャリー、聞いて」
「傘、借りて帰ってもいいかしら?」
「聞いて、お願い」
強く言われてギャリーは窓辺へむかう足を止めた。
イヴは「お願い」と言ってしまったことに悔やむような表情をしたが、それでも続けるつもりのようだった。
なにかのおわりのはじまりの予感がそこにあった。嵐がやってくる。

「ちっちゃいころ、あなたに恋人になってもらったよね」
「……そんなこともあったわね」
「ちゃんと断ってくれてもよかったのに」
責める瞳。
「アタシに、あんたのお願いは断れないわ」
イヴのためにも自分のためにも。
彼女は目を伏せた。
「……ひどい人。なんでもかなえてあげるって言うくせに、わたしのほしいものはずっとくれない」
屋根に窓に地面に打ちつける、遠く途切れない銃撃のような音が屋敷を包んだ。雨が降ってきたのだ。
ギャリーは窓の外を見た。
重い灰色は、見る間に空を覆ってしまった。たたきつけるような大きな滴が、遠い空から次から次へと降ってくる。
「わたし、大人になったよ、なったでしょう?ギャリー」
「ええ」
「だから、もう一度言うね」
ギャリーは立ち上がり、彼女に背をむけて、窓辺へ歩いた。打ちつけられる枝を庭を見ていた。薔薇は散ってしまわないだろうか。

「恋人に、してくれる? あなたの彼女になりたい」

楽園を追い出す死刑宣告。
はっきり言われてしまえば、はっきり返すしかできない。
だからずっと逃げてきたのに。
もう断る理由が無いのだ。彼の胸のなかにしか。
「イヴ」
「はい」
「……ああ、イヴ」
「ギャリーの気持ちを聞かせて。わたしのためにいまいちばんできることって、それだから」
(本当に、賢い子だわ)
先回りして彼が言うつもりのことを封じてしまった。
彼はゆっくりと、それでも言葉を選んでゆく。
「あなたは魅力的な女性になったわ……それは、アタシなんかが言うまでもないくらい。
初めて告白されたときと今のあなたの告白は、意味がまるで違うわね」
ちいさなイヴの姿は、今だってはっきりと思い出せる。それだけに、変わったのだと思える。この時が来なければいいと思っていた、けれどいつか来ると知っていた。
だから何度も何度も考えて、あたためていた言葉を告げた。舞台の台本のように。
「もしも、この10年間が無かったなら、今のあなたとどこかで出会ったなら、アタシ、あなたを好きになっちゃってたかもしれない。あなたはとってもきれいな女性だもの。
だけど、やっぱり、無理よ。10年は、やっぱりあったし、アタシには……あなたは今も、ちいさなかわいいイヴよ」
返事は無い。
泣いているのだろうか。
言いたくなかった、こんなこと。
愛している子に、望む愛を返せないと伝えるなんて。
強く乞われれば、抱くことはできるだろう。けれどそこに彼女の望むものは無く、それは願いを叶えてやったとはいえないのだ。
沈黙のまま、窓の外を、涙雨を見ていた。
それからガラスに映る背後のイヴのシルエットに気づいた。
そこでようやく衣擦れの音に気づく。
「ちょ、っと、イヴ!?」
とっさに勢いをつけて振り返り、そうすべきではなかったとまた後悔する。
彼女は赤いスカートとブラウスを足下に脱ぎ捨てて、レースの下着の上下だけの姿になっていた。生々しい音で、ブラウスが床に落とされた。
「なにしてるの、早く着て!」
「いや」
「イヴ!」
力づくで止めることはできるだろうが、そのあとどうしたらいいかわからない。それ以前に、下着姿の彼女に近づいて触れることができそうにない。
言葉でだけ制止を懇願するうち、彼女はブラジャーのホックにも指をかけた。
「っ……」
「だめ、ちゃんと見て」
顔をそむけたギャリーに、イヴの静かな声がそれも許さない。彼はイヴのお願いに逆らえない。
たったいま、与えられないと告げたからこそ。
花もようのレースのブラジャーも、その下も、すべて脱ぎ捨ててしまったイヴが「ちゃんと見て」ともう一度言う。
その声は震えている。
「……これでも? これでもわたしのこと、ちいさな、かわいいイヴって、思う?」
声は震えているし、赤い瞳に薄く涙の膜が光っている。頬は紅潮しているし、おなかのあたりで交差してぎゅっと握った手は、今すぐ隠すとか、服を拾うとか、そういうことをしないためだっただろう。
「こどもだって思うなら、見てよ」
片手で顔を覆っていたギャリーは、その言葉に冷静さを取り戻した。
落ち着いた目で、あらためて彼女の裸身を眺める。
こどもではない。そんなこと知っていた。
バイオリンより優美な曲線も、ウエストのあたりでクロスしているせいで寄せられて、先端が緊張でとがっている胸も、うっすらとした下生えも、腰とふともものラインも、すべてが疑問の余地などひとつもない、女だ。美しい女だ。それは、わかる。
そうして、きちんと見たうえで彼は告げた。
「……やっぱりだめだわ。アタシ、あなた相手にその気になれない」
イヴが目を見張る。ギャリーは足早にベッドからシーツをはぎ取ると、彼女へ近づき、ふわりと肩からかぶせて覆ってやった。
「あんたに魅力がないわけじゃない。すごくあると思う。
でも、……でも」
彼女の願いはすべてかなえたい。けれど、本当のことを言うのが望みであるのなら。
「とってもきれいで、優しくて、かわいくて、ケーキ屋めぐりにつきあってくれて、こんなアタシを大好きでいてくれるイヴ。
あなたと恋人どうしになれたら、きっとアタシも幸せだったでしょう」
言い聞かせるうち、それは実は自身の望みでもあったと気づいた。
遠い昔になくしたものは、欲しくなくなったわけじゃない。ただあきらめただけ。
ちいさなイヴはその替わりだった。大人に守られる存在。
そして今のイヴは、共に歩く誰かを得るべき存在。
その誰かに、自分がなれたなら。
彼が誰かと、深くなにかを交わし合うことができるとしたら、それはイヴだ。彼女以上の存在なんて何百年を過ごしたって現れるわけがない。
けれどイヴを美しくして、ふたりの結びつきを強めた歳月ゆえに、それはかないそうにない。
ずっとそばにいた。そしてきっと、そばに居すぎた。
他人が聞けば馬鹿げていると言うだろう。ギャリーだって誰かに聞いたならそう言うだろう。
だが時間もそれが積み重ねてきたものも、触れられず見えもしないのに確かにそこにあって、それが彼を縛り付けるのだ。

雨は強さを増し、イヴの頬にもひとつぶ落ちた。それは彼女の涙と混ざって落ちた。
「……どうしてもだめなの」
「ごめんね、イヴ」
「なんでもしてくれるって言ってたのに」
「それも、ごめんね。 アタシはイヴのそばにいる誰よりもあなたに尽くしたかったから、そうしてきた。そんなことされたら、好きになるの、当たり前だわ」
「……そんなんじゃない。優しくしてもらったから好きになったわけじゃない。
今だって、いちばんしてほしいことしてくれないのに、好きだもの」
「ごめんね」
他になんと言えただろうか。
ギャリーはシーツをかきあわせるイヴを置いて、背を向けた。このままここには居られない。
扉のノブに手をかける彼に彼女は言う。
「もし、あの日美術館で出会わなかったら。
二十歳になったわたしとどこかで出会っていたら、ギャリーはわたしのこと、好きになってくれた?」
考える。考えるまでもなく。
「……なったでしょうね。あんたに夢中になったでしょうよ。きっと出会うのが早すぎたんだわ」
ギャリーと出会わずに大人になったイヴには恋人がいただろうし、結婚していたかもしれないし、子供だっていたかもしれない。
それでもきっと彼女にひとめで撃ち抜かれ、今踏み出せずにいる深いところへ落ちていっただろう。
「だったら、そうなりたかったな……
美術館で出会わなければよかった。同じ街にいても一度も会わないまま10年過ごして、おとなのわたしでギャリーに出会いたかった」
「あんたはアタシなんて気にもしないはずよ」
卑下でもなんでもなく素直な感想だったが、イヴがくすくすと笑う。
「ギャリー、わかってないなあ」
ギャリーは肩をすくめた。穏やかな気配ではあった。けれど決定的に壊れてしまったものがここにはあり、それはもう戻らないと彼らは知っていた。

ノブを回す彼の背中に、イヴが声をかける。
「あのね、ギャリー。お願いがあるんだけど」
「なに?」
いつものお願い。
「会うのやめよ。 わたし、どうしてもギャリーのこと、ずっと好きだもん」
胸が空洞になって、強い風が吹いていった。
からっぽだけれど、そのことの衝撃もなにもなく、ただ、音を立てて風が通り過ぎてゆくだけ。
「もうわたしのこと、忘れてもいいよ。ぜんぶ。……恋人、作ってね。ちゃんと好きになれる人。でもできればわたしのしらないところでそうしてほしいかな」
「……忘れなくたって、いいじゃない。これからだって、お友達で、いいじゃない」
言いながら、それは無理だろうと彼も気づいていた。彼女と落ちることができない以上、もう会うべきではないのだ。
「忘れて。わたしのことぜんぶ忘れて、」
お願い。
そう言った。
彼女の最後の「お願い」。
シーツの奏でる衣擦れの音が響いた。
それは近づいてきて、背中にそっと寄り添った。背中に温かい雫、海の中の声。

「ながいあいだ、ありがとう。だいすき」

ギャリーの腕ごしに、イヴはドアを押し開く。蝶を逃がすこどものように。
開かれたドアの前で、彼は迷った。ここで足を前に踏み出せば、イヴを失うと知っていた。それでも。
「……行って」
彼女に言われれば、彼は、そうするしかできない。のぞみを叶えることができないかぎり。



玄関ホールを抜ければ、外は風の無い嵐だった。
雨というより滝のように水がとめどなく空から地面へ叩きつけられ続けている。
使用人に傘を渡された。車の手配を申し出られたが、それは断った。



傘もささずに豪雨に打たれてのろのろ歩きながら灰色の街を帰った。信号待ちの車や店の中からぎょっとしたように彼を見る人は少なくなかったが、気になんてならなかった。
どうすればよかったんだろうと考える。
歪んだ執着と身勝手な献身で彼女を縛り続けてしまった。あれほど美しく育ったイヴは、本当ならば今頃は、物語のような恋をしていただろう。それを奪った。
応えることはできない。それは彼のせいだ。なにもかも。
(おとなになったイヴと、出会っていたら)
きっと夢中になっただろう。
9才の彼女と出会わなければよかったのだろうか。
わたしのことぜんぶわすれて。イヴはそう言った。
いつか誰かを心から愛し、愛され、愛し合ってみたかった。彼女とならばそうなれた。
いや、彼女でしかありえなかっただろう。
出会いさえ違ったならば。
イヴはギャリーの知る限り、夢に描くよりも完璧な女性だった。
けれど、彼女を守りつづけてきた手は男として触れることを拒んでいる。心も。
(イヴを愛してみたかった)

わたしのこと、ぜんぶ、忘れて。お願い。

アパートの前、あとは一歩踏み込めば罪をかたちにしたような雨から逃れることができる。
だからこそ長い間動けずにいた。
どれだけそこにいたのだろうか。隣の部屋に住む学生が石畳に雨をはね散らしながら走ってきて、「ギャリーさんどうしたんですか、中入りましょう中」と促して押し込んだ。

学生に引きずられるようにして自室にたどり着いた。
なにも考えないまま鍵を開けて、部屋を横切り、ベッドに行く気力すら保たず、涙の海から打ち上げられたようにずぶ濡れのまま、床にうずくまってそのまま眠った。うずくまる魚に似た姿で。

雨は嵐になり、三日三晩続いた。
一晩でひどい熱を出した。
二日目は、シチューになった脳がずっとかき混ぜられ続けているようだった。
三日目は、このまま死んだらどうなるのかとそればかり考えていた。



そうして、嵐が通り過ぎたあと。
掃除されきったような意識でギャリーは目覚めた。
家中を片づけたあと、ゴミも全部出したあとの気持ちに似ていた。
(なんか、頭がすっきりしてる…… すっきりしすぎてる)
違和感すらあるクリアさだったが、高熱の後遺症かなにかだと思うことにした。
それからシャワーを浴びて、虹のかかる街へ出た。
なにかいいことないかしら、と。


「彼女」に出会った。赤いスカートとチョコレート色の髪の女。一目惚れだった。らしくないほどに押して押して、口説いて、「一生オトモダチじゃないオトモダチ」になって、手を伸ばして、その手は振り払われることはなくて、指と指、胸と胸、唇と唇で触れ合うようになった。愛し合ったと言ってもいい。
けれど「彼女」にはずっと想う男がいた。
失った誰かを、ギャリーと居ても想っていた。
「彼女」はすぐに謝った。ごめんなさい、ごめんなさい。
笑っていても、彼女がどこかで引きずる罪という影。
それを、どうにかしてやりたかった。そのためならばなんでもするのに。

(彼女をこんなに傷つけるなんて、どんな男なの。なんてひどい奴なの、目の前にそいつがいたらただじゃおかないのに)

その男は彼ののぞみどおり、罰を受けたと言えたかもしれない。









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2012/09/15
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