魔法より強く 5








どうしてもシャワーを浴びたいとイヴが言い張ったので、彼女はバスルームにいる。シャワーの音が響いてくる。
ギャリーとしてはむしろ浴びずにいてほしかった。だがその日にはそういうことをするつもりでなかった女性がことに及ぶ前には、なにかと準備があるものだということも知っていた。
だからカップを片づけたり、ベッドサイドのライト以外の照明を消して回ったり、水を用意したり、あとはイヴと出会ってすぐに買ったものを枕の下に(ベタすぎて引かれるかもしれないと一瞬思った)隠したりした。音楽プレイヤーの前に立って少し考え、ムードが大事とはいえそれはさすがにやりすぎだろうと手を引いた。
(どんな男だったのかしら)
イヴの魔法使い。
10年思い続けるのならば、男のほうだってイヴのことを少なからず思っていたのだろう。そうでなければこどもの恋だ。あれは憧れだったと思春期に終わっていただろう。
(でも、なにがあったにせよ、そいつは今イヴのそばにいない)
忘れされることはできないかもしれない。けれど、ずっと近くにいることはできるのは自分なのだ。
小さく軋んだ音がして、バスルームのドアが開いた。
そういえばあの建て付けの悪いドアの扱いを彼女に教えなかったが、難なく出入りしている。あれも彼女の魔法だろうか。ひたひたと近づいてくる足音に、なんとなく背をむけてしまった。
(……うわ、どきどきしてきた)
もういい年だというのに、学生のように緊張してきた。
着替えは出さなかったから、またあのドレスを着ているのだろう。ネックレスは外してきただろう。自分の手ではずしてみたかったが。
そう思いながらゆっくり振り向いて、驚愕のあまり「ぅえっ!?」とムードもへったくれもない声が出た。
「えっ……な、なに?ギャリー、わたし、どこか、へん?」
ぶんぶんと首を横に振る。首がもげそうなほどに振る。
(バスタオル一枚とか完全に予想外……!)
暴れる心臓が裏返って口から飛び出しそうで、両手で口元を押さえた。
おろおろとイヴは胸元のタオルを掻き抱いた。それでいっそう胸が強調される。本人におそらくそのつもりはない。
「へ、へんじゃ、ない、わ……」
「……ほんと?」
こくこくうなずくしかできない。よかった、とイヴは笑って、ベッドのはしに腰掛けた。
(うっわ。うっわーー)
湯上がりの肌は暗がりで見たってとてもおいしそうだ。このまま食らいつきたい。が。礼儀というものもある。
「ア、タシ、も、シャワー……浴びてくる、わ。あ、冷えないように気をつけてね、すぐ出てくるから、あー、でもちゃんと洗うからそこは心配しないで……」
ぎくしゃくとベッドを出てバスルームへ向かおうとしたところで、後ろからシャツの裾を強く引っ張られた。すっかりこわばって緊張していた体は、それであっさりと背中からベッドに飛び込んだ。
見慣れた天井だけの視界に、バスタオル一枚のイヴが顔をのぞきこんできた。それから彼女は背中を丸めて、ちゅっ、と音を立てて唇をついばんだ。
「ギャリーは……シャワー、浴びなくて、いいよ」
赤い星が熱を満たしてきらめいている。
「で……も、その……今日一日、歩いてたし、アタシ」
「いいよ。そのままでいい」
イヴはギャリーに乗り上げるようにくっついて、頬をなでた。石鹸の匂いが湯気に乗って漂う。
「わたし、もう待てないの」
そこまで言われて、彼だって待てるわけがなかった。


一糸まとわぬ姿になっても、イヴはミステリアスだった。
愛撫のはてにとうとう一枚きりの防御をすっかりとりはらわれ、ベッドに横たわる裸身をオレンジの淡い光に照らされながら、彼女は荒い呼吸で言った。
「ねえ……ギャリー」
「なにかしら」
膝立ちになって、ボタンをすべて外したままずっとひっかけていたドレスシャツを脱ぎ、放り投げるギャリーが答える。ボタンはイヴが外した。
「わたし……女に見える?」
思わず彼女を凝視する。涙の薄い膜を張ったような瞳は、さっきまでさんざんいじめたせいか、ほかのなにかか。
問われた反射で彼女の全身をじっくり眺めた。大きすぎず小さすぎない胸だって、張りのある手足だって、肋骨から腰までのラインだって、その下だって。
あらためて観察されていることに気づいたイヴが、両手を胸に引き寄せて太股をすりあわせた。
「……見えるわよ?」
舌なめずりしなかった自分をほめてやりたい。
「実は男だったりする……てわけじゃない、わよね」
それでもかまわないし、触った感じでは完全に女性であったが。そうじゃないけど、とイヴは目を伏せる。
「ちゃんと、わたしで、その…… その気に、なれる?」
彼女は本気で尋ねている。戯れではない。
そうしてギャリーが感じたことは。
(…………『魔法使い』とやらはイヴをどんだけ傷つけたわけ!?)
逆上した血で目のくらむ怒りだ。
これだけ美しい女性にこんなことを言わせるようなことができるのなんて、彼女の想い人でしかありえない。その男は、あろうことかイヴに女としての魅力が無いだとか、それに類するようなことを言ったのだ。
怒りのあまり頭がぐらぐらしてきた。ギャリーの表情を見たイヴが「ごめんなさい、ごめんなさい」と体をまるめてあやまってくる。それが火に油を注いだ。
凶暴な目つきになっているのを自覚しながら、彼女に覆いかぶさってきつく抱きしめた。イヴは反射で暴れて逃げようとする。その上からさらにきつく抱いた。
「あ……っ、ギャリー、」
「……なにを言われたんだか知らないけど」
「っ……!」
イヴの動きが止まる。押しつけられた腰の、熱い塊に気づいたからだろう。もちろんそのためにしている。
「あんたが女だってこと、アタシが思い知らせてやるわ」
「……ギャリー……」
細い腕がのびて、彼にからまった。
あとは、言葉どおりの夜だった。




朝はひとしくやってくる。どれだけ濃密な夜を過ごそうと。
青い宝石のような朝は、いつかの嵐のあとに似ていた。甘い夢の名残は日差しのなかでも生きていて、ベッドの中にはイヴがいる。
(ていうか……まさかイヴがはじめてだったとは思わなかった)
嬉しい誤算だった。10年間想っていた男がいて、そいつとの恋がかなわなかったとしても、いや、それならなおさら、何かしらの経験があって当然だと思っていた。
(かわいかったわ、イヴ……)
シーツに散らばるチョコレート色をすくいあげる。寝顔も愛しい。指先をからめて寝息を聞くうち、彼女がかすかに身じろぎした。まぶたが開いて、ゆっくりと柘榴色が現れる。
「……ん……」
ここがどこなのか見回して、気づいて、何も着ていないことにさらに気づいて、赤くなってシーツのなかに隠れようとした。
「イヴー?かくれんぼ?」
「ひゃあっ」
両腕でシーツごと彼女を抱き込めば、かわいい悲鳴でおどろいてくれた。そのままぐりぐりと頭を肩口にすりつける。
「おはよー、イヴー?」
「お、おは、よ……ギャリ……」
額と額がふれあうほど顔をよせて、んー、と唇を突き出す。少しだけ迷ったあと、ちょん、と唇が触れた。
それからくすくす笑いあった。


シャワーの音が朝の空気に静かに響く。
コーヒーを淹れようとして、指先がココアの缶に触れた。少しいやな感じがしたが、気にしないことにする。今はもっと考えるべきことがある。
「ギャリー……シャツ、ありがと」
バスルームから出てきたイヴに、「きゃーっ」と女学生のようなかわいらしい歓声を上げた。ギャリーが。
手持ちのワイシャツのなかでもとくにゆとりのあるものを選んだ甲斐があった。完璧な彼シャツというやつだ。
イヴは起きたときより恥ずかしそうにしている。
「いい!いいわよイヴ!すごく!」
「あ……ありがとう……」
「待ってて、もうすぐ朝ごはんできるからっ」
冷蔵庫から出した卵をぐっとかまえてみせるギャリーは部屋着のゆるいズボンをはいただけで上半身裸である。
「うん、ありがと…… でも、その前に、上もなにか着たほうがいいとおもう」
「あらやだぐっときちゃった?」
おどけて両手で胸を隠すしぐさでにやりと笑うギャリーに「そうじゃなくて!」とイヴがあわてる。
「そのまま油使って料理したら、あぶないよ……はねるでしょ」
確かにいつも朝は半裸のまま調理しているから、ときどき油が飛んでいる。それもそうね、と冷蔵庫わきにかけてあるエプロンをかけると、イヴがなんともいえない表情をした。
「ん?どしたのイヴ」
「天然……」
「?」
「えと、じゃあ、ごはんできるまでちょっと部屋、見てていい……かな?」
そういえば、昨夜のイヴはほとんど部屋を見ていない。ソファ、ベッド、バスルーム、そこだけだ。
「いいわよー。変なものは無いはずだけど、あんまりあさらないでね」
「うん、見てまわりたいだけだから…… あ、とね、ギャリ」
「なあに?」
「さっきの、上に何か着た方がいいっていうの」
「……?」
「は、はんぶん、あたり」
目のふちを赤くして、イヴはぱたぱたと走り去ってしまった。
「さっき……なんていったんだったかしら?」
上に何か着たほうがいいと思う、とイヴが提案して。それにギャリーが答えた言葉は。
『あらやだ、ぐっときちゃった?』
右手のなかの卵が握りつぶされた。白身と黄身のまざったものがぼたぼたと落ちるのにまかせるまま、戻ってきたらどうしてくれようと策を練った。





心も体も距離が縮まって、これで晴れて恋人どうしだとギャリーは思っていたのだが。
「……なんでまだ携帯の番号教えてくれないの」
「…………ごめんなさい」
「あやまらなくていいから。理由を教えてほしいのよ」
手をつないで彼女の屋敷の門扉まで、イヴを送り届けたところでそんなやりとりが発生してしまった。
まさかここに来て断られるとは思いもしなかった。
「まだ、言えないの……怖くて」
「怖い?」
「ああ、ううん、ギャリーが怖いんじゃなくて」
ギャリーの右手を、両手でぎゅっと握る。
「わたし……ギャリーのことが好き」
それはイヴがはじめて想いを口にした瞬間だった。なのにどこか空虚に響いた。
「夕べのことも、夢みたいに幸せだった、うれしかった……だから消えるのが怖いの」
「……消える?」
イヴはうなずく。携帯と、それらがどう結びつくのかギャリーにはわからない。わからないが、イヴに無理強いをしたいわけではない。ギャリーはため息をついて携帯をしまった。
「オッケー。それじゃ、今は諦めるわ。でも、いつかは教えてくれるのよね?」
イヴはうなずいた。少し迷うような間があったことは気になったが、初めて共寝した朝だ。ケンカなんてしたくない。
「でも、これだけは教えて? アタシはまだ、あなたのオトモダチ?」
「っ」
「恋人には、してくれない?」
イヴは瞳を潤ませた。喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。
かなしい顔をしていたって、イヴは美しい。けれど泣かせたいわけじゃない。
彼女の気持ちをわかってやれないのがもどかしい。いつかはわかりあえるだろうか。
「……する。あなたのこと、恋人に、する……」

その日は互いにキスをわけあって別れた。
門の奥へと帰っていくイヴを笑顔で見送った。そしてその姿が完全に見えなくなってから、背をむける。
その険しいすさみきった眼差しは、恋人を手に入れた朝にふさわしいものではない。
ポケットから苛々と煙草を取り出そうとして、ずっと昔に禁煙したことを思い出した。さらに苛立って土を蹴る。
(なんなの。恋人になった、っていうのに、セックスだってしたのに。ほとんど進んだ感じがしない)
肌で触れ合ったことに意味がなかったわけじゃない。ありすぎるほどあった。
それだけに、そこまでしても届かないものがあると、どうすればいいかわからない。
(……ばかね。体だけの関係ばかり作ってきたくせに、今更抱き合うことに意味を求めてる)
自業自得というやつだろうか。反省ならいくらでもする。だからイヴをもっと手に入れたい。




デートだけでなくお泊まりもするようになった。
愛されているのはわかる。だが疑問も残る。
携帯の件もそうだが、彼女の世界のそこかしこに漂う「魔法使い」の気配。イヴの不可解な言動。
ことばをつなぎあわせていくことで、パズルが完成に近づいてしまうのはしかたがなかった。
同じ時間を過ごしてわかったこと。
イヴは彼のために紅茶の淹れかたをたくさん勉強して、きれいな文字を書けるようになって、お稽古ごともがんばって、いろんな美容にも力をいれてバストアップのためのいろいろもしたようだ。
それから、いつかギャリーが連れていこうとしたマカロンの店は彼との思い出の店である。
ギャリーを好きだと言ったイヴの言葉に嘘はない。けれど今もイヴはその男を想っており、会えないのを悲しんでいる。
鈍感な心で、盲目のままでいたかった。
わかってしまうのは、つらい。



いつものバーで灰皿に吸い殻の山を作る。
(結局、あの男をどうにか片づけないかぎり進めないんだわ。アタシもイヴも。……もう一度お母様にきっちり聞きましょう、今度はそいつの名前と現住所を聞き出して、必要ならば物理的な意味で片づけて)
親指の爪を噛みながら物騒な考えに及びかけたとき、のんびりした声がかかった。
「荒れてるねえ。チェスでもどうだい?」
いつものチェス男だ。今日もおひとよしオーラに満ちている。
先日ギャリーにテーブルにつかせることに成功してから、なにかと勝負を持ちかけてくる。とはいえピースの動きをようやく覚えた程度のギャリーと20年以上やっているという彼とではまともな対戦になどならない。
「チェス……チェスねえ。あいつとの戦いも、勝敗がきっちりつけられればいいのに。叩きのめしてやるわ」
「あいつ?」
「魔法使い、よ」
イヴの心をとらえたままどこかへ消えた男。たとえ実力が大きく違おうとどんな汚い手を使ってでも叩きのめす。蹴る。
「ふうん…… とりあえず僕と勝負しようか」
「ちょっとぉ、アタシの話どーでもいいってわけ?てかアンタとアタシじゃ勝負にならないっての」
「そうとは限らないじゃないか」
「限るわよ。いやよもう」
「ううん。じゃあ、賞品を出そう」
「はあ?」
「君が勝ったら、僕の一番たいせつなものをあげるよ」
男がウィンクした。
ほんの少しのあいだだけ、バーには蓄音機の歌とマスターが氷を砕く音だけが響いた。
先に口を開いたのはギャリーだ。
「……あ……」
「うん」
「アンタ、そっちの趣味の人だったの?」
「そっち?」
「や、やめてよねアタシこんなしゃべりだから間違えられやすいけど男は無理なんだから!」
「男は無理……」
あ、と男は頬を染めた。
「ち、違うよギャリーくん、僕はそんなつもりじゃ」
「なんで赤くなるのよ!?おっさんが赤くなってんじゃないわよ!」
「失礼な!おっさんだって赤くなるよ!」
「ていうかまさかあんた初対面のときからアタシ狙いだったんじゃ」
男が言葉を飲み込んだ。図星と額に大きく書かれているのと同じだった。
「ちょ…… マジで!?もういや!アタシ帰る!不潔よ!」
「ま、待ってくれギャリーくん、ちょっと話を」
「マスターお勘定!お釣りは次にきたときに!」
とっておいてとは言えない一般人である。
「イヴともうまくいかないしバーで結婚指輪までしたカモフラ済ゲイにロックオンされてたなんて最悪!バカ!もう何も信じない!」
オネエ走りでドアを乱暴に蹴り開けて出ていったギャリーを男はあわてて追いかけるために勘定を済ませようとして、財布にカードしか入っていないことに気づいた。
「ご、ごめんよマスター、ツケにしておいてくれ! ギャリーくん待って!待ってくれ、僕の話を聞いてくれ!聞いとけばよかったって思うから!絶対思うから!!」

そして誰もいなくなった。この店のあるじをのぞいて。
彼は淡々とカウンターの上のチェス板をケースにしまうと、ボトルキープの棚の一番下にしまった。キープのボトルにはこの店が特注した札が下がっており、札にはキープした客が自分で名前を書くことになっていた。
ケースの蓋にもその札が張り付けられていた。長い年月を経てきたらしくボトルの札たちよりも象牙色に近い色合いだった。
札には「Garry」と書かれている。



崖を転がり落ちる岩は加速する。
恋心は互いをむいているはずなのに向き合えないのは、間におおきなものがあるからだ。
注意深くそれを見ないふりでふたりは歩き続けたが、見ないふりというのはずっと意識しているということだ。
少しずつ、なにかが乾いていくのをギャリーは感じていた。それはいずれひび割れるだろうとも。


ギャリーは赤い目のうさぎがデザインされたマグカップを手にとった。
「このうさぎさん、かわいいわねイヴ」
こくこく、とイヴがうなずく。気に入ったようだ。イヴはどうも、感情がたかぶると言葉が出てこないらしく、かわりに動作で伝えてくる。
「それじゃプレゼントしたげる」
「え、いいよそんな……」
「ただし、これはアタシのおうちに置くからね。お泊まりするとき専用よ」
他愛ない会話のはずだった。
それなのにイヴは粉々に割れたガラスを見るような、返らないものを見る目でギャリーを見た。
「……ちょっと」
声に棘が混ざるのを感じる。あ、やばい、と思うのに止められない。
「いいかげんにしてよイヴ。忘れろとは言わないけど、アンタはアタシといるときに「あいつ」を思い出しすぎなのよ」
彼女へこんなに冷たい声をむけたのは初めてだ。
なんということのない会話のはずだった。だがギャリーには彼が思うよりずっと鬱屈がたまっていた。つめたい紅茶の底の砂糖にも似たそれは、噴き出す時をずっと待っていた。
「そのくせアンタは「あいつ」のこと、何にも教えてくれない。なんで?どうして抱え込んでるのよ。教えてくれれば、話せば、いっしょに考えられるのに。イヴがずっとそんなんだと、アタシ」
その先は言えず、マグカップを握りしめて、そのまま棚へ戻した。
険悪なふたりに雑貨屋の中がちらちらと目線をやってくる。さらに神経が逆立つ。
「……ごめんなさい」
「あやまらないで」
いつもなら優しく告げられるその言葉も、すっかり尖ってしまった。
いい年をして、子供がわがままを言うようにすねているのだという自覚はある。年上だし、男なんだから、彼女を信じてただ待ってもいいじゃないかと分別くさく語る心の声もある。
(でもそんなの知らないわよ、しょうがないじゃないのよ)
達観したなら恋などするものか。
イヴはスカートの裾を握りしめていた手を、おそるおそるというように彼へのばした。いつもなら、それでほだされていた。
けれどギャリーは、その手を払った。うるさい虫がきたかのように。
はじかれて、イヴのこころが悲しみにひび割れた音が聞こえた気すらした。ギャリーだって驚いた。イヴといると、ギャリーの体はギャリーの言うことを聞き入れないことが多い。
はねられた手を自分の手で握ってイヴはうつむいた。
「……ギャリー、これから、わたしのうちに来てくれる?」
横顔を向けていたギャリーが視線だけでイヴを見る。今日の予定は、買い物したあと二人で夕食を作ってそのままギャリーの部屋に泊まるはずだった。
「見てほしいものがあるの。……写真。ベッドのわきに私が置いて、毎晩見てるの」
いつか彼女の部屋で伏せられていたものだ。ギャリーがいちばんはじめに「彼」の存在を感じたもの。




「あらあらギャリーさんおひさしぶりー。お元気でした?ちょうどマカロンあるんですけど召し上がります?」
「お母さんごめん、取り込み中なの。ギャリー、わたしの部屋いこ」
「お母様すみません、今はその」
「あらあ残念。それじゃあとでね。
振り返れば、イヴの母が薔薇を手に、いつかのようにひらひらと片手を振っていた。





イヴの部屋は相変わらず簡素だった。
整っているが、整いすぎている。彼女のたたずまいそのものだった。
(そう、とてもきれいなのに、招いてくれるのに、何も読み取れない。見せてくれない)
けれどそれももう終わり。
終わり、なのだろうか。
ふわりとレースのカーテンが揺れた。
ベッドサイドには、写真立てが伏せてある。
「……どうぞ」
「ええ……」
イヴはドアの近くに立ったまま動かない。ギャリーが写真立てに指を伸ばすと、イヴは声を絞り出した。
「待って」
彼女の制止に、もちろん手をとめる。
「見る前に、聞いておいてほしいの」
「……なにを?」
イヴは目を伏せた。
「好きってこと。あなたのことが」

あなたとわたしが出会ったのは橋の上だったね、とイヴは続けた。
「あのとき、ギャリーに声をかけられて、わたしすごくびっくりした。びっくりしすぎて逃げちゃったよね。
そう、折れたヒール、もうすぐ届くんだって。元通りだね」
活発な女性のように語るイヴには、違和感しかない。無理に明るくふるまっている、つまりその真逆の状態ということだ。
「恋人になってって言われたときも、おどろいた。それにあのハートのパイ。恥ずかしかったなあ……でも、うれしかった。お祝いしてもらえて」
はにかむ姿に、嘘は無いようではあったけれど。
「それから……キスしたのも、その先も。きれいって言ってくれたことも、大人みたいな扱いも、ぜんぶぜんぶ、うれしかったよ。
本当に、あなたの恋人になれた気がして」
雨に打たれたはがねのような声は、とてもよろこびを語るものではない。
ギャリーは写真立てを手にとった。まだ伏せたままだ。
「……ほんとの恋人に、なりたかったなあ」
(やだ……なに。まるで終わりみたいじゃない)
これから始まるはずなのに。幕引きのように彼女が語る。思い出を。そしてそれは、聞きたかった「あの男」の思い出ではなく、ギャリーの思い出だ。
「ぜんぶ、わたしのせいだから。それ、見て」
世界の終わりを告げる声。
「好きになってごめんね。ギャリー。でも……でもね、わたし、あなたがしあわせになれたらいいなぁって、わたしがそうできたらいいなって、いちばんはじめからずっとそう思ってたのよ」
彼はためらった。これを見たなら、きっとなにかが終わるのだ。
それでも、とうとう、その写真を見た。





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2012/09/13
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