魔法より強く 4







意味ありげに、誘うように伏せられた写真立て。
ギャリーは写真を見なかった。
ベッドのそばなんて、一番近くで、一番深く思うところだ。家族や友人の写真を置くには不自然な場所だ。
イヴにはべたべた触るギャリーだが、彼は彼なりに線を引いていた。あの写真は、見てはいけない。彼女から語るまでは。


初めて出会ったとき、橋の上で彼女は何を見てなにを思っていたのだろうか。
あのときだけではない。
二人で手をつないで歩いていても、ほんの少し目を離しただけで彼女はかつて抱いていたはずのものを探していた。
この街に、きっと彼女を手招く記憶のかけらがたくさんあった。
忘却の河。
部屋の中に思い出の痕跡を探したけれど、彼女はきっと思い出をその河へ沈めた。自分でそうしておきながら、かなしい瞳で河の底を眺めている。となりに彼がいるのに。



「ふー……」
いつものバーで、気だるげにため息。いつもはここでは吸わない煙草すら欲しくなってきた。カラン、とグラスの氷が揺れる。花の蓄音機は古いバラードを歌っていた。
「今日はいかがされましたか」
いつものようにマスターが問いかける。
「ちょっとねえ……」
「例の女神のことですかな」
「……わかる?」
「このところのお客様は、彼女のことばかりだ」
微笑まれ、苦笑で返す。そうだ。うれしいこともかなしいことも、さみしいこともしあわせも、イヴと出会ってから、ギャリーの感情のほとんどすべては彼女によって動かされてきた。
恋は甘いばかりではないのだと知識としては知っていたはずだし、その苦さにすら憧れていたというのに。
「女神とやらと、何かあったのかい?」
隣に座っていた男がマスターのかわりに尋ねてくる。イヴと初めて出会った日にこのバーで会ったこの男も、あれからなんとなく常連仲間のようになっていた。
ここへ通って長いらしいが、ギャリーと顔を会わせたのはあの日が初めてだった。それからはよく時間が合う。今まで会ったことがないのが嘘のように。
「何かあったってわけじゃないんだけど……ちょっと自分が情けなくて」
「ていうと」
「ううん」
ギャリーはゆっくり話す。そうしなければ目の前の言葉が逃げてしまうかのように。
「……あれだけの美人だしね、恋人がいて当然だと思ったの。良家のお嬢様っぽいし、結婚して、そのうえ子供だっていたって不思議じゃないってね」
男はグラスを傾けて聞き入っている。
「でもそれでも、絶対にアタシが手に入れる、そのうえ幸せにしてみせる、って決めた、んだけど」
「……だけど?」
自嘲の笑みがこぼれる。
「情けないわ…… いざそういう気配がするとね、それだけで、なんだかもう……」
その先の言葉をつかまえることはできなかった。男はうながす。
「気配、っていうと? なにを見たんだい」
「何も見てないわ。でも」
何も見ていない。写真だって、あからさまなものだって。でも、彼女の目を見た。
ギャリーにはイヴの食べたいケーキを当てることはできないけれど、それでも、わかることだってある。
「彼女、とても強く想ってる人がいるんだわ。そしてたぶん、もうその人には会えない。だからアタシといてくれるのよ」
彼女の空気をどこかで見たことがあると考え、気づいた。
寡婦のそれだ。
かつて深く愛した半身を、取り上げられるように失った女の姿。
誰といてもなにをしても、欠けたなにかはけして埋まることはなく、寄り添う相手を見つけても、ずっとそのまま生きてゆく。
美しく聡明な女性だ。ずっと独り身だなんてありえない。だが、もしも「そう」であればすべて腑に落ちる。
(つらいわ)
それが勝負もできない相手であるからか、愛する人を失ったイヴへの同情なのかの判断はできなかった。
ただ、ぼんやりとかなしい。
見たものといえばあの写真立て、それと漠然とした直感だけだ。けれど確信していた。
ギャリーの歩いてきた道には、失ったことをかなしむものはひとつもなかった。別れも喪失もあった。けれどそれは仕方がないし、時が過ぎれば必然であったとすら思う。
自身のことならば割り切れる。だが彼女がそのかなしみを抱えたままならば、どうしたらいいのだろうか。
(このままずうっと、イヴの気持ちの整理がつくまでオトモダチやってるしかないのかしら)
それは、いやだ。
男がウィスキーを傾けた。
「訊いてみたらどうだい?」
「……なんて訊けっての」
「うーん…… その女神のお母さんに、とか。仲、いいんだろう?」
母親。あの女優のような、なぜかギャリーにとても好意的な母親。
確かに、尋ねれば答えてくれるかもしれないが。
「悪くはないはずだけど、訊いていいのかしら」
「結婚するつもりならいいじゃないか。お母さんだって、もしかしたら君に話したいかもしれない。話したくないと言われたらそのときはそのときさ」
考えた。
そう、だろうか。都合のよすぎる考えではないだろうか。
「このままもやもやしてたって誰のためにもならないよ」
「そう……そう、ね。 訊いて、みようかしら……」
適当に相槌をうっただけのつもりのせりふだったが、口にしてみたらそれがほんとうに最善のような気がしてきた。
すれ違うだけのはずだった人とだって、会話をすれば助け合うこともある。
そうだ、出会いはいいものだ。ギャリーとイヴの出会いだってそうだったに違いない。そうしてみせよう。運命だったと彼女からも言わせてみせよう。
そのために、少し心が血を流すことになるかもしれない。けれどきっとイヴの心はずっと血が流れていて、それを止められないとしても痛みをやわらげてやりたい。
きいてみよう。慎重に、彼女が傷つかないよう、少しずつ。あの母親ならば、おそらく問われたとしてもなにもかもべらべらしゃべるということもないだろう。
少しずつ。そう、今イヴの近くで過ごすのは自分だ。いなくなった誰かじゃない。
「……訊いてみる、わ」
うん、と男は笑顔で力強くうなずいた。
「ところで今日こそチェスやらないかい?」
「だからチェスなんてやったことないって言ってるじゃないの」
話しやすいし人あたりのいい男だが、なにかとチェスに誘ってくるのだけは面倒だ。
「大丈夫、また教えるから。マスター、チェス盤出して」
「どうぞ、お客様」
「ところで、なんでチェス盤なんて置いてるの?ここ。マスターの趣味?」
「客の持ち込みなんだ」
「勝手に使っていいの?」
マスターは静かに微笑んだ。
(よくないものだったら出すわけもないか)
店に提供したものなのかもしれない。
「僕はここで、これを使って、何度もチェスをしたんだよ。でもね、」
そこで言葉を切った彼に、ギャリーは(この人も)と気付いた。
大切に思っていた人に、会えなくなったのだ。
出会いがあれば、別れだってある。得難い出会いを、忘れられない別れを、誰もかかえているのだろう。そして別れを癒すのは出会いだけかもしれない。
(それが彼女のことを知りたいだけの詭弁だとしてもそれでも)
進むことを決めた。手に入れるのだから。
「……わかったわ。でもアタシ、チェスなんて知らないんだから。ちゃんと教えてね」
男は顔を上げ、チェスピースを盤面に並べて微笑んだ。
「それじゃあ、まずは駒の動かし方からはじめようか」




広い庭の一角にある薔薇園は、家族で育てているのだという。薔薇という言葉から浮かぶ印象とは違う、ぼたんやくちなしのような薔薇もたくさんあった。
「蔓薔薇は、冬になるたび結いなおしてあげなければならないんです。一株で数日はかかってしまうかしら」
白い薔薇のからむアーチをくぐりながら、イヴの母は言った。
「あれはノイバラの畑。弱い品種の土台にするんです。それからあちらが剪定中の薔薇。…骨組みだけの家みたい?ええ、そうかもしれませんわね。でもあれだけ切ってやらないと、育たないんです」
薔薇の香りが柔らかく風に揺れている。香料とは違い、強い香りだというのに刺さるようなところがなく、質量にすら似た厚みで包み込んでくる。
「それで、ギャリーさんは何をお聞きになりたいの?」
絵画のように美しい庭園で、絵画のように美しい女性が微笑んだ。想い人によく似た姿で。



部屋に来てほしい、と告げるのはもう何度目だったか。
イヴはいつものようにすぐに断らず、目を伏せて彼の腕に寄り添った。
ゆっくりと歩く、彼女の家への帰り路。
甘い紺色のベルベットの空に、スパンコールの白い星が輝いていた。
スパークリングワインの余韻がイヴをいつもよりとろかしていたけれど、けしてそればかりのせいでなくイヴの中で葛藤があるようだった。
彼女の意志で来てほしかった。だから何も言わないように、先ほどまで居たレストランのことを、ディナーを反芻していた。
前菜のタルタル、ゴルゴンゾーラの入ったポタージュ、カッペリーニ、リゾット、フィレソテー。デザートはティラミス。
同じものを食べているんだなあ、と考えていた。はじめて出会ったときだっておなじミートパイを食べたけれど、今ここでは寸分たがわず同じものをたべていて、だから、おなかのなかがいっしょだということで。
(……いかれてるんだわ、アタシ)
イヴと過ごしていると、今まで考えたことのなかったことばかり考える。まるで自分じゃないみたいだった。そしてそれが、馬鹿馬鹿しいはずなのに、誇らしい。
料理も内装も美しかったが、何より美しかったのはもちろんイヴだ。髪を結い上げて襟ぐりの大きく開いたシャンパン色のカジュアルドレスとダイヤモンドのネックレスで現れた彼女を見たときの感動は言葉にできない。
きらめくキャンドルもほんもののクリスタルのシャンデリアも、すべて彼女の添え物だった。
金色の燭台のような彼女は、けれどそれでもただの芸術品ではなく血と肉を持った女だった。
見せびらかしたい気持ちと今すぐ巣に持ち帰ってしまいたい気持ちでぐちゃぐちゃになりながら、なぜか泣きそうになった。
(やっぱり結局考えちゃうわね)
いつの間にか、二人はT字路まで来ていた。
右に行けばイヴの屋敷のある高級住宅街、左に行けばギャリーのアパートのある住宅区。
立ち止まる。
どちらだってかまわない。イヴの望むままに。
けれど彼にだって願いはある。
彼女のエナメルのつまさきが、何度も迷い、踏みだしかけては引き戻された。
それから。
「…………イヴ」
彼女は彼の腕を引いて、右側に、イヴの屋敷のある方向に、
背を向けた。

恥ずかしいのか早足になる彼女の足音が夜に響く。
「イヴ」
「言わないで。……言わないで」

早足は少しずつ速度を増して、アパートにたどり着いたときにはもうほとんど駆け足になっていた。
(はじめて会ったときみたい)
あの時は逃げる彼女を追った。今は違う、彼女と手をつないで走ってきた。
堅く手を握りあったままエレベーターへ駆け込み、1階へ、2階へ、3階へ、4階へ。
部屋のドアを乱暴に開錠し、そのまま鍵をシューズケースの上に投げ捨てた。施錠もしないままにドアに彼女を押しつけるように抱きしめる。イヴは両腕ですがりつくことで応えてきた。
「イヴ……イヴ、イヴ」
「ん……あ、ギャリー……っ」
いつか橋の下、水辺でそうしたように互いの体を手のひらで、胸と胸でふれあわせ、唇で頬に額に触れてゆく。顔中にスタンプをつけていくような口づけはとうとう唇どうしで触れ合って、互いを食べあうようなものに変わった。
「んむ……ぅ、はぁっ、あむ、んん、」
「ふ…… イヴ、ん……」
髪留めが落ちてチョコレート色が広がった。後頭部をぐっと抱え込んで角度を深くする。唾液が混ざり、舌と舌も混ざり合う。縋りつく手がきつくなり、脚が絡んだ。密着した腰で、イヴにも今ギャリーがどういう状況なのか、どんな欲を持っているのかははっきりと伝わっているはずだったし、太股で脚をはさむようにして脚のつけねを押しつけてくるのは、おそらくは。
「はー……ぁっ、くぁ……」
長い指がべたべたになった顎から頬をなぞりあげて、爪があたたかな滴に触れた。その滴に気づいてしまったギャリーの動きが止まったが、イヴは気づかずに舌を貪っている。
「ぎゃり……んぅ、む、ギャリー……」
ゆっくりと、だが力強くほそい両肩をつかんで引き離した。呼吸を整える。
「……ん……ギャリー……?」
はぁはぁと呼気を荒げ、酸素が足りないかのように口を開けてイヴがなぜやめてしまうのかと瞳で問いかけてくる。
乱れた髪、ドレス、ばら色の頬。そこに伝う、涙。
「なんで泣くのよ……」
絞り出した彼の声こそ涙の色だった。言われたイヴはそれで初めて自分が泣いていたことに気づいたようだった。彼女自身の頬に手をやる。それを引き金にしたようにもっと大粒の涙が溢れてきた。
生理的な涙とは明らかに違う。心が流す涙。まろやかなダイヤのようなそれは、床に触れればそのままころがっていきそうだった。
「あ……やだ、ごめん……なんでだろ私、そんなつもりじゃ……あれ、とまんない……」
指先で目元をこするがまったく逆効果だ。とうとう言葉も発せなくなった彼女を、ギャリーは肩を抱いてリビングへ導いた。歩きながらフロアライトを、フットライトをつけてゆく。イヴは出会った日のように寄り添っていた。
出会ってからずっと彼女をこの巣へ連れ込みたかった。それは今叶ったが、こんなふうに泣かせるつもりじゃなかった。
ソファに座らせて立ち上がると「行かないで」と袖口にすがりつかれた。
「暖かい飲み物を入れてくるだけよ。珈琲と紅茶、どっちがいい?」
「……ココアがいい」
「ごめんなさい。アタシ、ココアは飲まないから置いてないわ」
「じゃあ、ミルクティー……」
「オーケー」
キッチンへ向かう間、廊下の鏡をふと見ると口のまわりに口紅がこすれてひろがっていた。イヴが噛みついた痕だ。
レストランのために仕立てのよいドレスシャツを着ていたが、かまわずに袖口で乱暴に拭った。
苛立っている。当然だ。口の中にいれた獲物を奪われて逆上しない動物などいるわけがない。
それでも彼は獣であって獣でなかったので、彼女が泣いたら止まるしかない。
(いえ…… 今こんなにむかついてるのは、止めたからじゃない)
「誰か」の影を感じたからだ。
ギャリーにとって、イヴは初めて深く恋をした、愛したい女性だ。けれど、イヴにとっては、どうだろう。
自分のような欠陥なんて持っていないだろうから、愛した男もいただろう。あの涙は、その男のためのものだ。
(はじめっからわかってたはずじゃない。だからこんな気持ちになるの、間違ってる)
自身も落ちつかせるために、ゆっくり紅茶を入れることにした。
紅茶や珈琲豆をしまっている戸棚を探って、気がついた。
(アタシ…… ココアなんて、買ってた……?)
しまわれていた場所からしても中の様子からしても、つい最近使われた形跡がある。ココアは学生時代につきあっていた彼女が好きだったからおいしい入れ方を練習した覚えがある。しかし彼女と別れてからは一度も買っていないはずだ。
(朝にコーヒーを煎れたときには、無かったわ。あれば気づかないわけがない)
どういうことだろうか。泥棒だとしたら、ものが消えるどころか増えるのはおかしい。
(いえ……あとでいいわ、そんなの。今はイヴ)
ココアを用意しようか迷ったが、10年以上前に入れたきりのものをうまく作れる自信もなく、慣れた紅茶にすることにした。
紅茶とミルクをトレイに乗せてソファへ戻ると、コンパクトとハンカチを手にしていたイヴがびくりと震えた。あわててバッグの中にそれらをつっこむ。
「あ、ご、ごめんなさい、ギャリー」
「なにが?」
「わ……わたし、すごい顔してた……口紅も」
ああ、と相づちをうつ。
あれだけディープキスをしてそのうえぼろぼろ泣いていたわけで、当然メイクは崩れている。ギャリーの口のまわりが口紅だらけになるくらい。
泣いたことよりキスしたことよりそのことを、そしてなおしている姿を見られたことを恥じているイヴの姿に、かっわいいわぁ、と何度目になるかわからない感想をつぶやく。
「大丈夫よイヴ、あんたはいつもどおりとってもきれいだわ」
隣に座ってまっすぐ目を見て告げれば、イヴは真っ赤になってうつむいた。
「……泣いちゃってごめんね」
「いいのよ」
「いやだったわけじゃ、な、ないの」
「わかってる」
「でも、……でも」
ベルガモットの香りと、彼女の香水が混じりあって流れた。
(そういえばアールグレイってミルクティーむきじゃなかったわ……)
それでも、せっかく入れた紅茶だ。
彼は客用にしているチャイナボーンのカップにゆっくりそれを注いで「どうぞ」と促す。
「ありがとう……」
何度見ても、紅茶を飲むイヴは優雅だ。髪が乱れ、涙のあとを頬とまぶたに残していても。ギャリーはその姿をたっぷりと堪能した。「おいしい」と微笑む彼女に微笑みを返して、それから静かに切り出す。
「実は今日ね、お昼にあなたのお母様と会ってきたのよ」
自分の紅茶も注いだ。砂糖もミルクもなし。
「それで、聞いてきたわ。あなたと10年間いっしょにいた男……魔法使いの話をね」
がちゃん、と軽くて重い音が響いた。イヴがカップを落とした音が。
紅茶はカーペットに広がっていったが、二人ともそちらを見なかった。




「そろそろ聞かれるころじゃないかと感じておりましたわ」
薔薇の庭園で、イヴによく似た女性は言った。
「娘が忘れられずにいるひとのこと、かしら?」
察しのよい女性だ。
ギャリーがうなずくと、彼女は風のなかに言うべき言葉が落ちているかのように視線をゆったりさまよわせた。
「そう……そうね。なにをどこまで話していいのかしら。
あの子にはね、小さなころからずうっと好きな人がいたんです。おませさんでしょ?でも、ずっとずっとその人のことだけが好きだった。こどもから女の子になって、大人の女性になってもね。そうね…10年になりますかしら」
赤い薔薇に蜜蜂が誘われるのを見るともなしに見つめた。ほかにどこを見たらいいのかわからなかった。
「その人も、娘を好きでいてくれた。娘のために心を砕いて、たぶん彼にできることは何でもしてくれていました。娘のことをいちばんに想ってくれていた、それは私にも夫にも伝わっていました。「わたしのお願いを叶えてくれる、魔法使いみたいな人」と娘は語っていたものです」
蜜蜂が赤い薔薇へ潜り込んでいく。
「でもその人は、魔法使いだから。ちいさな女の子をレディにするのが彼の役目だったから、イヴの王子様にはなってくれなかったんです。あの子が王子様を求めるようになったせいで、どこかへ行ってしまったみたい」
蜜蜂は青い空へと飛んでいった。巣へ戻るのだろう。
空に消えていく蜂を見送って、見送って、ギャリーはとうとう口を開いた。
「……え、それで終わりですか?」
イヴの母親は苦笑した。
「ごめんなさい。やっぱり私に言えるのはこのくらいだわ」
「いえ……無理に聞き出したいわけではありませんし、貴女がそう判断なさるのなら、そうなのでしょうけれど……」
何か重大な話を聞いた気もするし、結局なにも聞けなかった気もする。
(ずっと好きな人がいて、その人との恋はかなわなかった、ってこと、かしら?)
たぶん大枠はそれでいいはずだ。
「その魔法使いとやらは、今はどこでどうしているんです?」
たいした返事を期待していなかった問いの答えは、最初にくすくすと笑う声でかえってきた。怪訝な顔で彼女を振りあおげば、イヴの母親は上品に口元に手を添えて、そっと目のふちをぬぐった。
「そう、そうですわね……お役御免になった魔法使いは、きっといまごろどこかで誰かの王子様になっているんじゃないかしら」




「お母様の話は、なんかぼかされすぎてて、寓話すぎてアタシにはよくわからなかったんだけど……」
ソファで向かい合う。こぼれた紅茶を二人ともかえりみない。イヴの瞳が不安に揺れている。彼女の手をそっととった。ちいさくてしなやかな手。桜色の爪。
「10年間、ていうのは、重いわね……あなたがずっとそのひと一人だけを好きだったって聞いて、ちょっとだけ、……ちょっとだけくじけそうになった」
「……」
「アタシ、あんたと初めて会ったとき、たとえアンタが彼氏どころか結婚してようが絶対に恋人にしてみせるって誓ったんだけど」
「……」
「かなわない恋だったのにずっとずっと想ってた人がいるってのは、勝つとか奪うとかじゃなくて、もうそれってイヴの一部なわけじゃない?今も忘れられずにいるんでしょう?」
白い手の甲に唇を押しつけるように触れた。
イヴはうなずいた。涙がまた、一粒流れた。ネックレスのダイヤモンドと同じ光で。ギャリーにとらわれていないもう片方の手で、顔を覆ってしまう。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。わたし、ひどいことした。今もしてる。全部わたしのせい。なのに、だけど、でも」
手を引けば、さからわず彼女は彼の胸へと落ちた。指先をからめ、空いた手をイヴの背へ回す。吐息をついて、胸のなかからイヴは赤い瞳で彼を見上げた。ダイヤモンドよりきらめくルビー。
星の光みたい、とギャリーは思った。宝石よりもきらめく、輝くもの。
赤い星はせつなく、やさしく、そして飢えた光でささやいた。

「わたし……あなたに抱かれたい」







←魔法より強く 3
魔法より強く 5→


-------------
思い出という影

2012/09/12
戻る


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -