薔薇色と人生 2



「いやあ、いい天気ですな。こんなに晴れた空の下での食事なんて贅沢ですねえ」
「ええ、まったくです」
「うちのイヴとご子息は、いい夫婦になれそうですね」
「わたしもそう考えています。なんというか…この花壇の花のようだ」
イヴの父親と青年の父親はそんなふうに笑いあった。

さわやかな風が吹き抜けるガーデンテラスは貸し切りだった。専属のシェフが彼らと少しはなれた特設キッチンで腕を奮っている。
「きれいねえ。あのお花、うちにもほしいわ」
「株分けしていただけるように頼んでみましょうか?」
イヴの母親と青年の母親も笑いあっている。

もういちど風が吹き抜け、乾いた笑いが響いた。

「…………その」
「…………ええ」
父親どうしは互いになにかをきりだそうとし、どもり、そしてまったく同じタイミングで頭をさげた。

「「すみません!今朝がたにうちの子が突然熱を出しまして!!」」

硬直した父親たちを置いて、母親たちは園芸談義に盛り上がっている。
かくて当事者不在の食事会は続く。



起きあがれないとベッドの中で全力の病人を演じたイヴは、何かを察した母親が父親を追い立てるようにして屋敷から出るとそのまま脱出した。

「きゃーーーーーイヴひさしぶりーーーー!!!!」
なんだかんだで会うのにだいぶ間があいたギャリーは待ち合わせ場所で大喜びして、9才のイヴにしていたようにハートマークをまきちらしながらぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。
「会いたかったわイヴ!今日もだめかと思ってたの、電話に出たのもおかあさまだったし。でも会えてうれしい!相変わらずかわいい!」
出会いがしらに彼のにおい、それも抱擁までついてきて、消えかけていた炎は一気に燃え上がった。いや、消えてなどいなかった。見ないふりをしていただけだ。
おずおずと背中に腕をまわしかえすと、彼はびくりと震えて「あ、やだ、ごめんなさいレディに不作法だったわね」と素早く離れてしまう。
(変われた気がしてたけど、なんにもかわってないんだな…なんにも)
だいぶ寂しい思いをしていたのか、いつも以上にギャリーはテンションが高い。これだけ騒がしい人と歩くのはひさしぶりだとイヴは感じた。
でも、嫌じゃない。あの青年といるとずっと穏やかだが、つまりはやっぱり、楽しかったり嬉しかったりはしないのだ。
「とってもいいお天気ね、イヴ!おでかけびよりだわ!」
「そうだね、きっと食事会びよりだよ」
「食事会?そうね、それもいいけど、今日はウィンドウショッピングなんてどう?季節が変わるから新作がたくさんでてるのよ」
イヴよりもずっとかわいらしいポーズでウィンクなんてするギャリーに、イヴは蕾がほころぶように微笑んだ。
(やっぱり好き)
茨が甘くきゅうきゅうとこころをしめつける。音がしそうなほど。
穏やかや落ち着きとはまるでかけ離れた気持ち。

「ああ、でも観たい映画もあるし行きたい喫茶店もあるし…ねえイヴ、どっか行きたいとことかある?ていうかどこから行こっか」
大きなガラスのウィンドウに、二人の姿が映っている。
似合ってないなあ、とイヴは思う。昔ほどではないがいくらかきちんとした格好のギャリーと、少しだけドレスダウンしているイヴ。もう少しくらい近づいてもいいはずなのに、やっぱりまるで似ていない、ちぐはぐさばかりが目立つ、別々の二人だ。つくりもののようなイヴと、獣めいた容貌のギャリー。あの青年とは違う。
「そうだわイヴ、この前すてきなお洋服をみつけ、って、ええええ!?や、やだもう、なにっ?」
軽く握った拳を口元にあててうろたえているギャリーである。
(かわいい)
思いつつも、やはり表情には出さずにイヴは赤い瞳でじいっとショーウィンドウを見ている。
ギャリーが今日の予定に浮かれているあいだに、するりと彼の腕に腕を絡めてみたのだ。
ばらばらの二人でも、こうして鎖のようにからまってしまえば、それなりにひとつには見えた気がした。したということにした。
「んもうイヴったら、急にどうしたのよ?」
「いや?」
「い、いや、いやなわけないでしょ!? びっくりしてるの!なんでこんなこと、今までしたことないじゃない!」
確かに無い。小さな頃は出会った場所の名残もあって離しているほうが珍しいほどにずっと手をつないだりくっついたりしていたが、圧倒的な身長差により腕を組むことはかなわなかった。彼女が成長するにつれて体の距離はゆるやかに開いていったし、手をつないだのだってもはや遠い記憶だ。
「いいでしょ?今はギャリー、彼女いないんだし。……いないよね?」
「……まあ……いない、けど」
頬をうっすらと染めて、ばつが悪そうに彼は言う。
(え、ほんとにいないんだ)
今までの間隔で言えば、これだけ時間があればそろそろイヴの知らないどこかの誰かとむずがゆい空気を醸し出しはじめるか、告白されているかの頃合いだ。
やたらにテンションが高いし寂しがっていたようだからもしやとは思っていたが。

「どうして?…前の彼女のことは、そんなに好きだったの?」
「そんなんじゃないわ」
間を置かず即答され、彼自身も即答したことに驚いたようだった。遠くの街路樹に焦点を合わせるような目で、「いや、つまりね」と彼が言葉を探しているうちにこっそりすり寄ってにおいを嗅いだ。ほんの少しで胸をいっぱいに満たしてしまう甘い毒薬。
「だって…イヴとぜんぜん会えなかったし…」
「え?」
なんでわたしが関係あるの?と首をかしげるイヴに、絡められている左腕を気まずげに身じろぎさせた。無言の訴えがなにを示しているのかはわかったが、より深く組み直すという間逆の行動でイヴはこたえた。
「…いつも、恋人と別れたあとはイヴとたくさん遊んだでしょ。それで癒されたから新しい恋にも踏み出せたけど、今回、ぜんぜん会えなかったし。だから告白されてもいまいち乗り気になれなくて…次にイヴに会えるのはいつかなって、ずっとそのことばかり考えてたの」
この感覚ともうまくつきあっていけるかもしれないと感じた矢先から、それはイヴを裏切るのだ。
ずっと考えていた。その言葉はイヴを歓喜の乱暴な渦へたたき込んだ。
あふれる気持ちに耐えかねて、両腕でぎゅうぎゅうと彼の左腕を抱きしめて肩口に額をぐりぐりとすり付けるイヴにギャリーは真っ赤になって硬直していたが、イヴはそれどころではない。
「ちょ、ちょっと、イヴ、あたってる、おしつけられてる!まずいから!アタシこれでもストレートだから!いくらあんた相手でもまずいから!」
「〜〜〜〜〜っっっ」
ようやく騒げる程度には回復したギャリーがどうにかイヴを引き離そうとするが、がっちりと抱え込んだイヴはびくともしない。
「ああああ、もう!…もう!」
周りはそんな二人をほほえましげに見ながら通り過ぎていく。最後にはギャリーも笑顔になっていたが、もちろんイヴには見えなかった。

以前に二人で出かけたときに、「わたしたちってまわりからはどう見えるかな?」と問いかけたことがある。年齢よりも大人っぽいと言われるようになっていたイヴと、実年例よりだいぶ若く見えるギャリーである。
通報されたこともあったのは今は昔、恋人どうしにだって見えるだろうとイヴは期待していた。
彼はにっこり笑ってこう告げた。なんの含みも隠し事のない無邪気な笑顔で。
「もちろん、とおーってもなかよしのおともだち!いいえ、親友よ!」

だから今日はそうは見えないようにしてやろう、とイヴは決意していた。それがこの腕である。
(少しは意識してね。今日が最後なんだから)



映画を見て、喫茶店に入って、それからウィンドウショッピング。デートコースの王道のような二人のいつものおでかけだが、イヴがずっと彼の左腕にからみついていた。はじめこそ恥ずかしがっていたギャリーだが、すぐに慣れたのか狼狽もすぐに消えた。
「今日のイヴは甘えんぼさんね。ちっちゃい頃みたい。…ふふ、アタシに会えなくて、寂しいって、思っててくれた?」
なんて優しくて残酷な人だろうとイヴは微笑む。
「わたしが寂しがってたと思う?ギャリー」
「そうねえ、寂しがっててくれたらいいな」
頭を撫でるような感覚でイヴをずたずたにできるただ一人。最低で、最高のイヴの想い人。
(やっぱりわたしは、このひとの恋の相手にはなれない)
彼に恋人がいて会えない間にイヴがなにを思っているのかなんて、考えもしていないのだろう。
さっきも今も、こうして腕を組んで体を押しつけてやればうろたえるけれど、それは男という性しての、女性の体への生理的な反応だ。それだけでイヴを恋愛対象にするわけではない。そういう男もいるのだろうが、ギャリーは違う。そのくらい、イヴにだってわかっている。
(いっそ色仕掛けが効くような人ならよかったのに)
そんな人に恋をしたかは別として。



「ほらほら見て、かわいいでしょ!」
きゃあきゃあとはしゃいで、マネキンが着るひらひらふりふりのワンピースに目を輝かせているのは、もちろんギャリーだ。
「このまえ仕事帰りにみつけて、一目惚れしちゃったの!よかったぁまだ売れてなかったのね!」
などと言いつつ買う様子もない。かわいいかわいいと騒ぐばかりだ。
「買ってあげよっか?ギャリー」
「んま!なに言ってるのよイヴ、女の子にお金出させるわけにはいかないわ!…それに、サイズがないわよ」
しゅん、とうなだれるのは濡れた犬のようでたいそうかわいらしい。イヴは店員を呼び止めると、マネキンを指さしていくつか質問した。
「サイズあるってギャリー」
「あるの!?」
「うん、おっきい(おもに横幅がとても)女性用のがあるんだって。一番大きいサイズの在庫出してくれるみたいだから試着してみたら?」
「え、えっ、えー……? 紳士服だってアタシに合うものおいてるブランドってなかなかないのに……ふつうのお店に見えるのにすごいわね……」
少女趣味なハイブランドって逆にそういうラインも押さえておくものなのかしら、とぶつぶつギャリーがつぶやくあいだに、イヴは店員に導かれるまま、彼を奥の試着室へと連行した。腕を組むというのはとても便利だ。


赤いカーテンの試着室の奥にかかったワンピースを、右から店員が、左からイヴが、さあどうぞと手で指し示している。
白いパフスリーブのロングワンピースは、編み上げやレースやリボンがふんだんにあしらわれながらもやりすぎ感のない、女の子なら誰でもあこがれるような愛らしいものだった。心なしかきらきらと輝くなにかすらみえる。乙女のようなギャリーが一目惚れするのも当然である。
「えっと… その、アタシ、その…」
ちら、と店員を見る。どう思われているのかが気になるようだ。彼女は営業スマイルに少しだけ素をにじませながら、サッとワンピースをさししめす。
「大丈夫ですよ、お客様。お客様スレンダーですからきっとお似合いですよ!」
営業文句の常套句である。
「いや細けりゃ似合うってもんでもないでしょこういうの」
「大丈夫ですよ、お客様。わたしも彼氏にメイド服着せたことありますけど、燃えました」
「聞いてないしなに勝手にすべてわかってますみたいな顔してるのよ」
「ちょっとクセになっちゃったんですけどね」
「だから聞いてないっての」
なぜだかため息をついたギャリーは、反対側でやはり「さあどうぞ」の手をしているイヴに向き直った。
「……あのさあ、イヴ。気持ちはうれしいんだけど… やっぱり、いいわよ」
「なんで?あんなにはしゃいでたのに」
「うん、まあ、確かにこれすごく気に入ってたし、かわいいし、今日売場に出てなかったらがっかりしただろうけど…」
もう一度ワンピースを見る。その目からはなにを思っているのかは読みとれない。
「でも…いいのよ。着たいけど、着られなくてもいいのよ」
「着たいんでしょ」
「でも似合わないわ。イヴに引かれるのは、嫌」
(またそんなこと言うの)
あのときとはいくらか事情は違うが、だいたいのところは同じだ。

ぼろぼろのコート。着古したような、古城で発掘されたような衣装を彼がまとえば、遠い雪国の狼に似た、雪のにおいすらしそうな立ち姿となったものだった。
その後イヴのために選択した少し極端なファッションも、それから少しずつ落ち着いていったちょうどよい服装も、どのギャリーだってイヴは大好きで何度でも恋に落ちたが、捨てさせたことは今も悔いている。
ベビードールの話を聞いてから、出会った頃の彼は女物の服を好んではいなかったかもしれないと考えている。イヴのせいで追い出された場所から見いだしたのがそこなのかもしれないと。
「イヴ、今日のアタシの服、どう?」
問いかけられて、過去に飛んでいた心が戻ってくる。
どう、と言われて改めて見つめる。
体にぴったりと張り付く深い青のニットは、いつだかイヴが興奮しながら誉めたものだ。小さなシルバーの薔薇がついたペンダントトップにはダイヤが一粒。ボトムスも彼の長い脚を引き立てるブーツカットに、彼以外が履いたなら少しシャープすぎる印象になりそうな革靴。
その魅力を大きく引き立てるコーディネイトなのは間違いがない。そしておそらくはギャリー自身の好みではない。
「素敵です」
横からわりこんできた店員に「あんたには聞いてないわよ」とギャリーが返す。
「すごくかっこいいよ。どきどきするくらい」
ときめきは、見た目のせいだけでもなかったが。
「ありがとイヴ。ひさしぶりに会えるから、はりきって選んだの。イヴにちょっとでも素敵だと思ってほしくて。
だからこれ、…ううん」
目をやるのは、もちろんワンピースだ。
「わたしに見せたくないならそれでもいいよ?見たいけど。サイズが合うかは確かめたほうがいいでしょ」
「そう…そう、なんだけど」
「お直しもいたしますよー?」
「あんたには聞いてないわよ」
それでもずっとワンピースを見て何かを考えているギャリーに、(わたしの前だと買いにくいならここは引いたほうがいいのかな。そしたらあとでこっそり買いにくるのかも)とイヴが考えはじめたころ。
ハンガーに視線を縫い止められたようだったギャリーが、今度はぴたりとイヴに視線を合わせた。
「イヴ」
「はい」
「これ、あんたが着てよ」
「…え?」
ぱち、と目を瞬かせる。
「うん… なんか、それがいいわ。ていうかそれでなきゃ」
「ちょ、な、なんで? わたしが着たって意味ないじゃない」
「いいから」
「ギャリー!」
イヴは悲しい。我慢や遠慮や卑下を、自分の前でだけはしてほしくない。どういった心の動きがあったのかもちろんイヴには知りようがないが、「アタシを助けると思って、ね」と言ったギャリーの笑顔がやけに穏やかだったので、最後にはうなずいて、店員が持ってきた別サイズのワンピースといっしょに試着室に押し込まれた。




恥ずかしい。
今のイヴの心は一面がそれである。
もともと彼女は物怖じしないし他人の目だってほとんど気にしないので、羞恥心は同じ年頃の少女たちにくらべると薄いほうといえた。いや、薄くはないが、それ以上に心が強かったのかもしれない。
ふわりと白いワンピースのすそをひらめかせ、しなやかな脚に華奢な赤いパンプスのイヴは、頬を薔薇色に染めてギャリーの腕に隠れるようにしながら、それでも絡めた腕は離さずに歩いている。
社交パーティでもっと派手に注目を集めたことだってあるが、そのときだってとくになんの感慨も持たなかった。

ワンピースを試着したイヴに、ショウウィンドウでそれを彼女に見せたときよりも大騒ぎしたギャリーに、イヴは肩まで真っ赤になりながらも彼の表情に諦めのようなものがないか注意深く観察した。
素直な性質とはいえ、大人の男だ。本気で隠しごとをするときは、彼はとてもうまくやってしまう。
「やだやだイヴったら超かわいい!素敵! あ、でも靴がちょっと合わないかしら…ちょっとあんた、合いそうなやつかたっぱしから持ってきて。あとそこのケースの髪留めもみつくろってちょうだい。あ、そっちの棚のバッグもよさそう」
まったくわからなかった。はしゃぎすぎだ。

結局そんなふうにして、全身ギャリーの見立てのコーディネイトにおさめられてしまった。髪まで結われた。
「ごめんねイヴ、あんたこういうのあんまり着ないの知ってるんだけど。なんか我慢できなくて。今日だけそのカッコでいっしょにいて?」
かわいく首をかしげて両手を組んだお願いポーズを好きな子に(子というには年をとっているが)とられて、断れる人間がいるわけがない。
それでこうして、とにかくシンプルな服を好んできたイヴが、ひらひらかわいいワンピースなど着て歩くことになっている。
ギャリーはイヴのもともとの服の入った紙袋を右手に持って上機嫌だ。
「ちっちゃい頃のあんたにも着てほしい服ってたくさんあったけど、さすがにご両親の手前はばかられたのよね。
イヴが大人になってくれてよかったわ!」
どう答えたらいいのかわからず曖昧な笑みになった。

「本当、いい天気ねえ」
公園は穏やかに噴水と鳥と人の声で満ちていた。青空に目を細める彼を、好きだと思う。
ちょうど空いていたベンチにハンカチを引いてイヴを座らせ、彼女が持っていたイチゴのジェラートを受け取る。イヴはバニラだ。
「なんか、不思議ね。イヴとこんなふうに過ごすことになるなんて、…うまくいえないけど、不思議だわ」

初めて出会った場所を思う。こことはあらゆる意味で反対の世界だった。暗く、冷たく、生きているものが存在しない。けれど一つだけ同じことがあって、それはギャリーが隣にいることだ。

彼のすべてが好きだった。陳腐な言葉だが、本当だからしかたない。
顔だって声だって心だって、歴代の彼女たちが矯正しようとしてきたことだって、寂しがりで、そのせいで恋もしていないくせに恋に浮かれたふりをするところだって好きだった。
だから恋人になるのは諦めた。それは歯を食いしばるような苦渋の決断ではなく、もっと穏やかな諦念だ。

彼が彼女に恋をするのは、彼にとって自然なことではない。彼のこころをねじまげるようなことは、したくない。

「あのね、ギャリー」
「なあに?」
「しばらく会えない。…半年か、一年か、わからないけど。それと、そのあとも二人ではもう会えない」
ぱたり、と彼の膝にピンク色が落ちた。いつもなら騒ぐはずの彼は、そこに目線すらやらない。

「…どこか遠くへ引っ越すの?」
「遠くではないけど…引っ越すことにはなるのかな」
「お父様のお仕事の都合かなにか?」
「ううん、結婚するから」
ぼたり、と今度は地面の上にピンクのジェラートが本体ごと落下した。まだほとんど食べてなかったのになあ、とイヴは思う。

「このところ会えなかったのは、彼とデートしてたからなの。お父さんに引き合わされた人でね、まだお友達としておつきあいしてるだけなんだけど、たぶん婚約もするし、結婚する」
強い力が手首に走り、一瞬なにが起きたのかわからなかった。ギャリーだ。彼が、力の加減などいっさい忘れたような、そのまま握りつぶせそうな力でイヴの手首を引いたのだ。バニラのジェラートも宙を舞って、少し離れたところにべたりと落下した。

鋭い目が彼女を射抜く。もとの風貌の猛禽じみた目が、強い激情を隠しきれずににじませている。
「無理矢理、縁談を、組まれたの?」

「…お父さんはそんなことしない。あと、手、痛いから離して」
「……」
ギャリーはイヴの手首をつかんだ自分の手を見下ろして、それからいらだたしげに眉を寄せた。彼女の手が、少しずつ青白くなってきた。
固められてしまったようにうごかないその手を、イヴのもう片方の手が触れた。それでようやく力が抜けて、ゆっくり離れた。彼のこわばった手を両手で包み込んでやると、肩に入っていた力もいくらかはゆるんだようだった。

「素敵な人よ。年は三つ上。お父さんの取引先の社長のご子息で、大学に在籍しながら経営も手伝ってるんだって」
「イヴはそいつを好きなの」
「いっしょにいると、すごく安定するなって思う」
あんてい、と、彼は初めて聞いた言葉のように繰り返した。

「だからね、やっぱり、ギャリーは… だいじなおともだちだけど、それでも、男の人でしょう?二人で会うのは、控えたほうがいいかなって」
10年前に父に言われたことと、ほとんと同じ言葉を自身が彼に向けて言ったと気づいた。
うつむいて、ただ彼の手を撫でる。幼い彼女を悪夢の中でも導き、現実へ連れ帰った手。きっとこの手を最初に好きになった。いつかこの手に求められたかった。
「そう… そうね。イヴはレディだもの。恋だって、結婚だって、当然するわね」
静かな優しい声。
「寂しいけど…しかたないわ。だけど結婚式には呼んでくれるかしら」
このトーンは何度も聞いた。去りゆく恋人を語る声だ。
しかたない、という言葉ひとつで彼は終わりにしてしまう。
(ギャリーはわたしのことも忘れるの?)
自身から遠ざかるものに、彼は興味を持たない。近寄れば受け入れるが、ただそれだけだ。

別れ際のおともだちのキスは無かった。



デパートのトイレで着替えてから自宅に帰る。食事会をすっぽかしたときは夕暮れ前に帰ってきてベッドに潜り込んでいる予定だったが、ギャリーとの最後のデートは、どこかで予想していたとおりに長引いた。
こっそり自室に向かっていたところを、やはり母親に発見された。

「イヴ」
「……ごめんなさい」
母はため息をついた。
「あなたはずっとベッドの中にいたことになってるわ」
「ありがと…」
「それで、ギャリーさんには、ちゃんと言ってきたんでしょうね?」
食事会のことよりもそちらの方が重要だとばかりに問われ、イヴは頷いた。
「…ちゃんと言ったよ。結婚するから、もう会えない、って」
引きずるのはイヴだけだ。ギャリーもしばらくは寂しがるだろうが、すぐに誰かを見つけるだろう。今だって言い寄られてはいるようだし、その人と過ごすうちに、イヴという年の離れた友人がいたのだと何かのきっかけで思い出す、その程度のものになるだろう。
母親は、コーヒーに塩を入れたことに気づいたときのような顔でイヴを見た。
「……あなた、それでいいの?」
「いいってなにが? ほかになにかあったっけ」
「イヴ、あなた…わたしの教育が何かよくなかったのかしら。淑女であるようにとは育ててきたけど、淑女ってじゃまにならないお人形さんって意味じゃないのよ」
「お母さんが言ったみたいに、終わらせてきたよ」
「それって本当に終わりなの?」

本当に終わりか、なんて。
(終わりに決まってる、この先なんてない)

「そうだよ。これで終わり」
母親は、何かに迷っている。イヴの宿題を手伝ってくれていたときのような、どう教えるのか、教えずに見守っていたほうがいいのかと悩む姿だ。
「…先方のお母様と今日お話して、聞いたことなのだけど」
「…? うん」
「その、彼は…  …ああ、いえ、やっぱり、私が言うことではないわ。これはあなたの問題だもの」
「な…なに?」
「ごめんなさい、いったん忘れて。彼のことでなく、あなたは、いつか笑い話にするための終わりの意味をもう一度ちゃんと考えて」


青年との逢瀬は続く。おおむね平坦で順調だった。たまに退屈さも感じたが、そういうときはこっそりベビードールとギャリーのことを考えて意識を覚醒させた。
隣には実業家の美青年がいるというのに、イヴの関心はなおそちらだった。
一度だけギャリーから電話が来たことがあったが、互いに驚くほどよそよそしい近況報告をすませると、あとは会話が続かなくなって5分で切った。
それだけでも、それだけだったからこそ、耳に残る声と彼という存在への渇望が募ってしまったが。

青年との会話で、彼もまた食事会を欠席したことを知った。
「僕ら、気が合うんでしょうね。きっと結婚したって喧嘩ひとつしないんだろうな」
「そうですね… 行き違ったりすれ違ったり、そういうこと、ないんでしょうね」
たとえばギャリーのようなことは。
楽しいけれど、違いすぎて、かみ合わないことが本当はとても多かった。その違いもいとおしかった。予測しきれない時間のすべて。

「それで、その。そろそろ、婚約しときます?」

コーヒーと紅茶、どちらにします?とでも言うような彼の言葉に、イヴはくすくすと笑った。
そんな言葉が出る頃だと思っていたし、たぶん今日だと思っていたし、言い方もイヴが思っていたとおりだ。

「ええ、そうですね。親も待ちわびているようですし」
「ではこれを。良かった、断られなくて」
さりげなく出してきた小さなケースには、もちろん指輪が入っている。
当然のように彼女の左手薬指にそれをはめるのを見ながら、イヴもまた当然のように返す。

「断られるなんて、思ってなかったくせに」
「まあ、そうですけど。…キスとかしときます?」
「うーん…それは、おいおいでいいんじゃないですか」
「そう言われると思ってました。じゃ、一応こっちに」
指輪の光る手の甲に紳士的なキスをおとされて、イヴは微笑む。
おそらく一生彼に恋をすることは無いが、きっと平穏な暮らしができるだろう。
「僕と結婚して、幸せになれますか」
おかしな聞き方であると誰かがいたなら思っただろう。
「不幸にはならないと感じています。あなたは、わたしと結婚して、幸せになれますか」
「幸せだと信じることはできるでしょう」
テラスには二人だけだったから、そのやりとりに気づいたのは鳥かごの小鳥だけだった。
「いずれ深い話ができるといいですね」
「ええ。終わったことは、過ぎ去れば笑い話ですから」

そうして、イヴは婚約した。






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あきらめと希望の話

2012/06/23
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