とうらぶ公開用 | ナノ
301.

ともえが居なくなってからも、静香の起床後のルーティンは変わらない。ベッドから出て着替えを済ませた後、静香はともえの部屋のドアをノックする。

「おはよう」

そう言ってからドアを開く。部屋の主は居ないため、布団がきれいに畳まれたままだ。静香はカーテンと窓を開け、部屋に光と新鮮な空気を入れる。
眩しいよと言って、ともえはいつもベッドに置いているぬいぐるみに顔を埋めていた。いつの間にかひょっこりと帰ってきて、いつものように言葉を返してくれるんじゃないかと期待している。静香は部屋を見渡すが、彼女以外誰も居ない。深く息を吐き、窓を閉めて鍵をかけた。

静香が務めている大学のキャリアセンターは、夏休み期間中は有給消化と在宅勤務推奨となっている。インターンシップやキャリアプログラムで開室必至の日もあるが、静香は上司や同じ部門に勤めている同僚と相談して全日在宅勤務にしている。ともえの情報が得られた時にすぐ動けるようにしたいという意図と、上司や同僚からの気遣いによるものだった。断る理由も無いため、静香はありがたく厚意に甘えた。
また、ともえが居なくなった夜以来、静香は本丸の母屋ではなく平家の居住区内に籠る時間が増えた。男士達の気遣いは、今の静香にとっては心苦しかった。
食事も仕出し妖精ではなく自分で用意すると静香は言ったが、こういう時こそ誰かが作った料理を食べて体調管理に気を遣うべきだと清峰が譲らなかった。

「奥方。今日の昼食持って来たよ」

十二時を回ると、静香のスマートフォンにメッセージが届く。母屋と居住区を繋ぐ廊下の入り口で、加州が食事の載った盆を持って静香を待っていた。
加州は清峰の初期刀であり、本丸の男士の中でも特に静香と親しかった。結婚する前の静香と清峰の様子もよく知っており、「審神者の妻」と「刀剣男士」である前に善き友人としての空気が二人の間にはあった。食事を持っていきたいと清峰に言ったのも、加州からであった。
静香が盆を受け取ると、加州が小鉢と汁物の碗を指差しながら今日の献立を伝えた。

「加州、いつもありがとう」
「良いの。俺が奥方と話したいんだから。役得」
「……ねえ、加州が良ければ今日は加州もこっちで食べない?」
「え、良いの?食べる!主に言って来るから、ちょっと待ってて!」

静香からの申し出に、加州の表情がぱっと華やぐ。この表情は二十年以上一緒に居ても変わらなくて安心する。加州はだっと駆け出し、五分後には息を切らして自分の昼食の盆を持って帰ってきた。
二人分のお茶は静香が用意する。全国展開している茶葉店のティーバッグを何種類か取り出し、加州が気に入りそうなフレーバーを選んで淹れた。
穏やかな空気の中で二人の箸が進む。味噌汁を飲みながら静香が加州の方へ視線を向けると、当の加州も静香を見ていたため二人の視線が交わった。驚いた加州が咽る。落ち着いたところで、静香が切り出した。

「ともえのことが気になるんでしょ」
「勘違いしないでほしいんだけど……。俺は、奥方が思い詰めてたら話し相手になりたかっただけ」

かちゃん、と音を立てて加州が箸を置く。静香は、底が見えかけていた加州の湯呑に新しいお茶を注いだ。

「ありがとう。加州はいつも、たくさんのことが見えているのね」
「俺はこの本丸の初期刀だからね」
「あなただから出来ることよ」

静香から湯呑を受け取り、加州は両手で包み込む。加州が口を開く前に、静香の方から話し始めた。清磨のこれまでの非番が全てともえの大切な日に被っていたことを、静香は加州に伝えた。清峰や蜂須賀からは口止めされていない。それに、加州であれば徒に広めるようなことはしないと静香は知っている。加州もまた、静香からの信頼を理解して話を聞いた。

「蜂須賀、ひい様が生まれてから今までを全部調べたんだ。すっごい。流石だよ」
「蜂須賀が見つけてくれたこの事実は、今回のことにも関係があるはずなの」
「どうしても分からないのは、清磨がそこまでする理由か。確かに俺達は“主”の刀剣男士だけど“ひい様”の刀剣男士ではないからね」

加州達の審神者である清峰――その娘であるともえは、加州達刀剣男士にとっても大切な存在だ。清峰と同じく守るべき対象だ。だが清峰とともえは、刀剣男士にとっては“等しい”存在ではない。自分達を呼び起こした唯一無二の審神者と、そうではない人間。清峰とともえの間にはこの決定的な違いが存在している。
だが清磨が取った行動は、その違いを飛び越えて完全に無視するものだった。刀剣男士としての責務を投げ捨て、ともえと共に姿をくらませた。加州の目には、清磨にとっての“唯一無二”はともえになってしまったかのように見えた。この違いを飛び越えることなど決してあり得ない。
だからこそ加州もまた清磨の本心が何も分からない。しかし、加州にはある見当があった。

「清磨は他の男士と違って特別な顕現だったけど、まさかそれが関係しているのかな。十七年前の長期任務のこと、奥方は覚えてる?」
「もちろん覚えてる。絶対に忘れられない」

静香がそっと腹に手を当てる。加州はその仕草を見て目を細めた。

「清磨はその任務で顕現したんでしょう。任務先での顕現なら髭切達も同じはず。何が違うの?」
「手順が違うって言うか……。何て言えば良いのかな」

顕現の理屈は知っていても、実際に顕現させたことが無い静香には加州の説明はぴんと来ない。加州も頭を悩ませるが、良い例え方や言葉が思い浮かばなかった。

「あの日出陣していたのが一期、堀川、髭切、陸奥守、愛染。主の佩刀で鶯丸だったかな。顕現の立ち合いで、一期か鶯丸ならよく覚えているかも」
「ありがとう。聞いてみるね」
「主には聞かないの?」
「当事者のあの人でさえ分からないのだから、男士の目線で見た事の方が手掛かりになるかも」
「それもそうだね。二振ともひい様のことすごく心配してるから。特に一期」

一期は長年清峰の近侍を務めている。その傍らで、いつもともえの事を気に掛けていた。どうしても静香の手が回らない時、彼女に代わってともえの面倒を見ていたのは清峰ではなく一期だった。
今回の件で一期もまた動揺し、ともえの捜索に向かえない事を歯がゆく感じているのは誰から見ても明らかだった。

「だからね、絶対に協力してくれるよ。覚えてない事も記録を引っ張り出してくれると思う」
「頼もしいね」
「早くひい様に帰ってきてほしいからさ。出来ることは何でもしたい。あ〜俺もあの日出陣してたらなあ」
「何言ってるの。加州は私の入院に付き添ってくれたじゃない。振り返れば、今までどれほど助けられてきたか。数えきれないね」
「みんなやりたいようにやっただけだよ。俺は純粋に奥方のお手伝いがしたかったし、一期はひい様と一緒に居たかったんだよ。今も十七年前もそのずうっと前も、変わらない」

そこまで言って、加州の口がはたと止まる。言葉を選んでいるのか、加州の目が左右に泳いだ瞬間を見ていた静香は加州に促した。

「大丈夫。言って」
「清磨がひい様を抱っこしているの何度も見たことあるなあって。本丸でひい様が迷子にならないように誰かが見ようってなった時、何度も清磨に頼んだことがあったよ」
「ともえが大きくなるにつれて、清磨は離れていったのかな」
「そうかも。でもお互いを嫌いになったわけじゃないと思う。ひい様にそんなこと相談された事も無いし、何か事件があれば誰かが覚えているはずだ」

静香はダイニングに飾ってある写真立ての一つに目を向ける。生まれたばかりのともえが眠っている写真には、生年月日が記されていた。静香は腹に手を添え、無意識の内に服の下の手術痕を摩っていた。

◆◆◆

静香の出産予定日は四月上旬だったが、ともえは二週間遅れて生まれた。陣痛促進剤を使っても生まれる気配が無く、主治医と相談した上で静香は帝王切開に踏み切った。
この時、清峰は薩摩国から依頼された高難易度任務に就いており、長期不在となっていた。清峰の帰還予定日には本丸に帰っているはずだったが、こればかりは仕方が無い。入院中は静香の護衛とサポートのために加州清光と前田藤四郎が付き添っている。心強い人選だったが、静香の胸中には不安も残っていた。不安が顔を覗かせる度、静香は清峰と交わした言葉を思い出す。
清峰はここではない遠い場所で戦っている。共に戦い生きるのだと誓い合ったその言葉は、静香と清峰にとっての楔であった。

「お母さん、あともう少しですからね。もうすぐ会えますよ」

術野はカーテンで覆われ、静香からは全く見えない。もうすぐとは何時なのか。手術台に乗ってから何時間も経った気分になる。
早く会いたい。早く生まれて欲しい。もしもこの子に何かがあったら。
静香の不安がピークに達した時、産科医が赤ちゃんを取り上げた。

「おめでとうございます。可愛い女の子ですよ」

おめでとうございます。手術室に居るスタッフが口を揃えて祝福する。助産師が赤ちゃんをタオルに包み、静香の顔の近くへと移動した。
顔も身体も真っ赤だった。ああ、だから赤ちゃんと言うんだ。顔をくしゃっと縮こませて一生懸命泣いている我が子を見て、最初に抱いた感想がそれだった。
2900グラム、48センチの小さな命だ。
この子に会うために自分は生まれてきたのだと、強く思う。すぐに抱きしめて肌の柔らかさや体温を感じたい。息が出来なくなりそうなほどの愛しさが湧き上がって堪らなくなり、静香の頬に汗とは違う雫が幾重にも流れ落ちた。
手術室から病室に戻り眠っていた静香が目を醒ますと、窓の外はよく晴れていた。雨は夜中も降り続いていたようだが、すっかり晴れている。窓から見える木々の葉には雨の滴が残っており、太陽の光が反射して光って見える。
出産を終えてから時間が経っているのに、まだ気分が高揚しているのだろうか。静香にとっては、彼女の目に映る景色全てが静香と彼女の娘を祝福しているように思えた。

清峰が静香の病室を訪れたのは、出産から三日後であった。
任務は成功したものの出陣した刀剣男士の半数が重傷、清峰も負傷し、本丸ではなく薩摩国の帰還ゲートから直接病院へ搬送されていた。こめかみに大きなガーゼを貼って右腕に包帯を巻いた清峰が、片足を庇いながら静香の病室へ入る。今の状態での全速力で静香のもとへ向かったため、清峰は転がり込むようにして病室へ辿り着いた。
清峰と静香は、この時見たお互いの顔を一生忘れないだろう。互いの顔を見て「生きている」と認識した時、二人共緊張の糸が緩んで泣き出しそうになった。清峰が静香のベッドに歩み寄り、静香が大きく腕を伸ばす。静香が手術をしていることを知っていた清峰は、静香の負担にならないように彼女を抱きしめた。

「おかえり清峰君」
「ただいま静香」
「ねえ、早く顔を見てあげて」

静香の視線が、小さなベッドへ向けられる。清潔なおくるみに包まれて眠っているのは、生まれたばかりの二人の娘だ。ぎゅっと目を瞑り、息を吸う度に鼻からぴすぴすと音が聞こえる。
清峰にとっては新生児を間近で見るのは初めてのことだった。赤ちゃんを起こさないように、そっと顔を近づけてまじまじと見つめる。静香に促されて、清峰は指の背で赤ちゃんの肌に触れた。ふわふわと柔らかい肌は確かに熱を持っていて、清峰は目頭と鼻の頭がつんと痛くなった。

「検査もどこも問題ないって。私達によく似たのね」
「そうか。静香は大丈夫なのか……?腹を縫ったんだろう?」
「まだ痛い。でも主治医の先生が綺麗に縫ってくれたから大丈夫」

二人が話していると、病室の扉が三回ノックされた。扉の向こうから顔を出したのは、静香の主治医である産婦人科医の和久井と助産師の麻上だった。産前は静香一人で検診に行っていたため、清峰が和久井と麻上に会うのは初めてだ。清峰は背筋を正して二人に挨拶する。にこにこと挨拶を返す麻上に対し、和久井は小さく頭を下げるのみだった。片側のみ長い前髪の隙間から、和久井の切れ長の目が清峰を見た。

「この度はおめでとうございます」
「ありがとうございます。妻と子どもが無事だったのは先生達のおかげです」
「そんなことはありません。平さんとお子さんが頑張ったからです」
「先生、夫に子どもを抱っこしてもらっても良いですか?」
「もちろんです。僕達がお手伝いしても良いですか?」
「お願いします」

赤ちゃんを抱っこするのも清峰には初体験だ。この数分で初めてがいくつも積み重なる。
麻上に指示されて清峰は静香のベッドの縁に腰かけた。和久井が赤ちゃんを抱き上げ、清峰に渡す。赤ちゃんを落としてしまわないように、和久井と麻上の二人がかりで清峰に抱き方を指導した。

「腕に頭を乗せて、首が動かないように気を付けてください。おどおどしていると落としますから気を付けて」
「はっ……はい」

生まれて三日しか経っていないため、赤ちゃんの首が据わっていない。任務中とは全く違う緊張感が清峰の全身に走る。和久井の手から渡された赤ちゃんは、見た目に反してずっしりと重たかった。赤ちゃん特有の柔らかくて甘い匂いが清峰の鼻に届く。
起こしてしまったらどうしようかと不安だったが、赤ちゃんはぎゅっと目を瞑って眠ったままだ。
赤ちゃんが生まれてくるまでの過程は清峰も理解している。静香と結ばれて、子どもが欲しいと二人で願って、ようやく生まれてきた命だ。赤ちゃんのために、静香はメスを入れることを決断した。大変な決断だと清峰は思う。最小限の負担で済むようにと、和久井や麻上達のような産科スタッフが全力を尽くしたのも清峰は理解している。
それなのに自分は抱き上げるのだけでも精一杯なのだ。腕の中の赤ちゃんのために、自分がしたことは何もない。ちっぽけであまりに非力と思った時、清峰の口からふいにこぼれた。

「父親になれるのかな」
「何寝ぼけたことを言ってるんですか。父親はあなただけなんですよ」

和久井がぴしゃりと言う。清峰は目を丸くして和久井の顔を見た。

「あなたの腕の中にある命は、あなたが全力で守って育てるんです。その責任があるんです。父親としてちゃんと自覚してください」
「もお〜和久井先生は言葉が強いです!お父さん向けのワークとかいろいろあるので、興味があればパンフレット持って行ってくださいね」
「ありがとうございます」

その後、和久井と麻上は静香にいくつか問診を行って病室を出た。腹部の抜糸にはまだ数日かかるが、発熱も無いため順調に回復できるだろうとのことだった。
清峰は赤ちゃんを抱っこしたままでは身動きが取れなかったので、麻上に代わってもらい赤ちゃんをベッドに寝かした。抱っこさせてくれる時に、めいいっぱい抱っこしてあげてください。麻上のその言葉に、清峰は勢いよく頷いた。

「……迫力がある先生だったな」
「すごく優しくて頼りになる先生だよ。退院した後もしばらくはお世話になるから、和久井先生に担当してもらって本当に良かった」

静香がベッドから出たいと清峰に言う。静香の腹の傷を気遣いながら、清峰は静香の手を支えた。夫婦二人で赤ちゃんを見つめる。顔つきもこれからしっかりしてくると教えてもらったが、清峰から見れば赤ちゃんの顔は静香そっくりだった。
赤ちゃんが眠っているベッドには生年月日と「平」しか書かれていない。この子にはまだ名前が無いのだ。出生前診断で女の子だと分かってから、名前の候補は二つまで絞った。どちらにするかは顔を見て決めようと約束していたのだ。

「名前はどっちにするか決まった?」
「ああ。俺は、ともえが良いと思う」
「私も同じ。ともえ、ともえ。よろしくね」

静香がともえに手を伸ばす。ぽんぽんとともえのお腹を撫でる静香と、眠るともえを見ていると、どうしようもなく切ない気持ちが清峰の中に溢れた。

「お父さんやお母さん、本丸のみんなにも早く会ってもらいたいね」
「ゆっくりで良いさ。まずは静香が回復することが一番だ」
「ありがとう清峰君」

そして、清峰にも静香に伝えるべきことがあった。

「今回の任務で一振新しく顕現したんだ」
「新しい男士が来るのは久しぶりじゃない?良かったね。名前は何て言うの?」
「“源清磨”だ。静香とともえが本丸に戻ったら紹介する」
「ともえ、清磨だって。ママと一緒にご挨拶しようね」

静香がともえに話しかけると、眠っていたともえがちょうど顔を動かして薄っすらと目を開いた。まるで静香の言葉に応えたようなその仕草に、清峰と静香は顔を見合わせて笑った。

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