とうらぶ公開用 | ナノ
203.

滞在三日目は昨日の快晴と打って変わって曇り空だった。昨日よりも気温は低いが、湿度が高いので肌がぺたぺたと汗ばんだ。
ともえ達は明日の昼には出発する。今日は洗濯をしようと決めていた。家出中に持ち運べる衣類の量は限りがあるし、簡単に増やす訳にもいかないので、コインランドリーで洗う必要がある。ビニールバックに洗濯物と洗剤を詰め込んで向かったのは、民宿から徒歩圏内にある銭湯だ。銭湯が開くのは十五時からだが、コインランドリーは開いている。
寝食を共にはしているが二人の洗濯物を一つの洗濯機で一緒に洗うのは憚られたため、別々の洗濯機に衣類を突っ込んだ。洗濯から乾燥までノンストップで行うので約一時間の待ち時間が発生する。タイマーが「59」に切り替わり、洗濯槽へ注水が始まった。
ともえはベンチに座ってぐっと腕を伸ばした。スマホがあればSNSやゲームで時間を潰すことが出来たが、スマホは電源を落として旅行バッグの奥底に眠っている。暇だなあと窓の外を眺めていると、清磨が声をかけた。

「散歩でもしてきたら?僕が見てるよ」
「う〜ん。なんか、降りそうだからいいや」
「そう」

清磨は貴重品用のボディバッグに文庫本を入れて持って来ていた。そういうのがあるなら先に言ってくれれば良いのに、とともえは心の中で悪態をつく。清磨は最初から、一人でここで待つつもりだったのかもしれない。
もじもじと指を弄り、窓の外へ視線を向ける。その後洗濯機のタイマーを見ると「55」になっていた。時間の流れが遅い。清磨は手元の文庫本を静かに目で追っている。完全に手持無沙汰だ。
やはりここは清磨の言葉に甘えて散歩にでも行こう。今日は陽が出ていないから歩きやすいはずだ。ともえがベンチから立ち上がる。入口へ向かうと、地面にぽつぽつと染みが出来た。
雨が降る時の特有の匂いがした。土と植物の匂いと、夏の熱い空気が混ざり合った匂いがともえの鼻に届く。ともえが入り口に立って空を見上げていると、雨は次第に強くなった。細かな雨粒がともえの顔を湿らせ、吹いてくる風が冷たくて気持ち良い。ともえは目を瞑って、雨の匂いと涼しさに身を任せていた。

「降り始めちゃったね。身体が濡れちゃうよ」
「でも、まだここに居たい」
「身体は冷やさないでね。まだ五十分くらい待つのだから」
「うん。ありがとう」

雨は弱くなったり、強くなったりと様相を変える。見知らぬ土地に居るはずなのに、ともえは雨音に耳を澄ませていると懐かしさを感じた。
雨の匂い。白く煙る目の前の景色。肌を湿らせる冷たい空気。
部屋が湿気てしまうため、雨が降ると自分の部屋の窓は閉めていた。その代わり、雨の日は本丸の中庭に面した部屋で外の景色を見ていたことを思い出す。全く違う場所に居るのに、雨の匂いは似ているのだとともえは初めて知った。

二人分の洗濯物が乾く頃には雨も止んだ。乾いたばかりの洗濯物は熱く、ビニールバッグに入れる作業だけで汗をかきそうになる。
コインランドリーから出て民宿へ戻る。厚い雲が割れて、青空が顔を覗かせていた。空気中の汚れが洗い流されている。遠くの景色の色が濃くなったようにともえの目に映って見えた。
民宿の駐車場には軽トラックが停まっており、発砲スチロールの箱や野菜の名前が書かれた段ボールがいくつも運び込まれていく。今日と明日の食堂に並ぶ食材だろう。
昼間の民宿は、客のほとんどが出ているため静かだった。自分達の部屋に行こうと階段を登っていた時、北杜が階下から二人を呼び止めた。

「おかえりなさい!雨大丈夫でした?」
「はい。ちょうど洗濯中に降られたので平気でした」
「良かった良かった。あのお、もし二人ともこの後出かける予定が無ければ少しだけ力を貸していただけませんか?」

お願い!と言わんばかりに北杜が顔の前で両手を合わせる。昨日は北杜の世話になったばかりだ。この後は明日からの行程を確認し合うだけだったので、問題はない。ともえと清磨は互いの顔を見ると、二つ返事で了承した。



北杜のお願いとは、地元のスポーツセンターで行われる弓道の体験イベントの手伝いだった。北杜が運転する車に乗りながら、ともえと清磨は説明を受けた。

「知り合いが役場に勤めていてね。その子が主催しているんだけど、ボランティアで来る予定の子が急病になっちゃったの。受付とか飲み物補充とか簡単な作業だけだから、気楽にお願いします」
「私、弓道やっているので何かお手伝いできることがあればやります」
「本当に!?いや〜心強いなあ。ありがとう。この御礼は民宿のご飯と送迎サービスで返させてもらいます」
「清磨も弓道出来るしね」

ともえが清磨に話を振ると、それまで話を聞いているだけだった清磨が大きく目を見開いた。「どうして知っているのか」と言いたそうな清麿の顔を見て、ともえはイタズラが成功したかのようにニヤッと笑った。

「ちょこちょこ教えてもらっていたの知ってるよ」
「誰から聞いたの」
「骨喰と秋田君。一緒に練習してたんだね」
「下手の横好きだよ」
「あら。続けるのもまた才能なのよ」

そう言って北杜がからからと笑う。返す言葉に迷った清磨は、車窓を流れる景色に意識を向けた。
スポーツセンターは湖畔のそばに建っている。駐車場にはスペースが取られ、イベント用のテントが設営されていた。
弓道場からは湖を見ることは出来ないが、体育館や各練習室を繋ぐ廊下、共有スペースは大きなガラス窓になっていて湖が見られる。天気と運が良ければ、逆さに湖面に映る霊峰が見れる。
ともえと清磨は北杜に続いて弓道場に入る。六人立ちの弓道場は手入れが良く行き届いている場所だった。スポーツセンターのスタッフに案内されて、貴重品をロッカーに預けて着替えを済ませる。イベントスタッフの証であるネームタグを首から下げた。
北杜がともえ達に紹介したのは、彼女の知り合いである見延というスタッフだった。見延は北杜の姿を見つけると、大きく手を振って駆け寄った。

「平ともえさんと、源清磨さん。二人ともうちのお客さんで弓道経験者です」
「お二人ともありがとうございます!実射の体験は私達の方で行うので、道具や構えの説明とサポートをお願いします」
『分かりました』

今日のイベントは屋外での実施もあるため、今朝の雨のせいで時間を遅らせてスタートする予定だ。
イベントが始まると、一気に人がやって来た。ともえ達の想像を超えた多くの来場者を前に、無我夢中で働く。
順番待ちの列を整理して。体験の受付をして。道具の使い方をレクチャーして。質問に答えて。使い終わった道具を整理して。休憩を取るのも忘れて、ともえと清磨はスタッフとして会場を駆けた。
十七時が近づくと、スポーツセンター内に蛍の光が流れた。体験イベントの列が切られ、最後の体験者の背中を見送りが終われば体験イベントの全行程が終了した。ともえと清磨が受付のテーブルを折り畳んで片付けていると、見延が二人に声をかけた。彼女は主催スタッフなので、一番疲れているだろうにハキハキとした笑顔を崩さない。見延の両手にはジュースや菓子が入ってパンパンに膨らんだビニール袋が握られていた。

「突然だったのに、本当にありがとうございました!差し入れいっぱい持って帰ってね。民宿までは車で送るから!」
「わっ、ありがとうございます」

見延は有無を言わさずともえに差し入れを渡した。ジュースも菓子も種類が豊富だ。二人だけで食べ切れるか心配になったのと同時に、本丸だったら一瞬で無くなるだろうなとも思った。

「見ているだけだとちょっとつまらなかったでしょ。折角だから引いていきませんか?」
「でも、僕達は道具を持って来ていないです」
「手伝ってくれたお礼です。下がけも洗って綺麗な物があるから遠慮しないでください」
「どうする?」
「引かせてもらおうよ」

ともえがそう言うと、清磨も頷いた。袴もあると見延が言うも、さすがにそこまでは借りられないと断った。下がけ二組と、ともえは胸当てを借りる。
今回ともえと清磨が扱うのはスポーツセンター内で多くの人が使っている弓なので、普段扱いなれている弓とは勝手が異なる。自身の矢束に合った矢を四本選び、ともえと清磨は射位に立つ。二人は交互に弓を引くことにした。清磨、続いてともえの順だ。
姿勢を作り始めた清磨を見ながら、ともえの頭の中に部活メンバーの顔が過ぎった。
自惚れる訳では無いが、きっと心配してくれているのだろう。秋の大会のメンバーに選ばれたのに、と中には怒っている者も居るかもしれない。
きりり、と引き分けの音が耳に届き、ともえの意識が今この場所に戻って来る。清磨は視線をぶらさずに会を保っていた。カン、と高い弦音の音が響いて清磨の矢が的に中る。美しい線を描き、清磨の矢は的の中心に当たった。
ともえも弓を引き分ける。心臓がどくんと打ち、その瞬間だけ呼吸が止まる。ともえは夏の大会で味わった感覚を思い起こそうとしていた。放たれた矢が描く軌跡が見える瞬間。心身が一つになり、ここぞという時を待つ。ぴんと張り詰めていた弓道場の空気が震える。ともえの矢は中心にこそ至らなかったが、的に当たった。
残心から姿勢を戻すと、清磨は既に二射目の動作に入っている。綺麗に伸びた背中と横顔を見て、ともえは心の中で呟く。

『清磨の構え、誰かのと似てる』

清磨と一緒に練習していたという骨喰や秋田だろうか。そうでなくても、第一一一八号本丸では、脇差男士と短刀男士は全員弓を引くことが出来る。もう久しく一緒に弓を引いてはいないが、ともえも彼らに教えてもらった時期があった。その時の光景と被っているのだろうと答えを出し、ともえもまた二射目に入った。
真夏の暑い空気が湖の上を滑り、涼しくなって弓道場に届いてくる。汗ばんだ肌を冷やすように吹いてくる涼風を全身で浴びながら、ともえと清磨は最後まで弓を引いた。



その日のともえと清磨の夕食は、この土地名産の牛肉の料理が一品追加されていた。ともえと清磨は手を合わせてから二人とも真っ先に牛肉に箸を伸ばした。
今夜がこの民宿で過ごす最後の夜だ。明日着る服や洗顔用具など最低限の物だけを枕元に置き、コインランドリーで洗ってきた服は旅行バッグに詰め込んだ。二人ともどちらからともなく、今夜は早く寝ようと布団を敷いた。
消灯時間は決められていないが、宿泊客のほとんどが朝から活動するため日付を回る頃には民宿が寝静まった。
標高が高いため、夜は二十度近くまで気温が下がる。それにも関わらず、ともえは蒸し暑さを感じて目を醒ました。蒸し暑いのはブランケットに顔を潜り込ませていたからだった。ぷは、と息を吸うと冷えた夜の空気で肺が膨らむ。喉が渇いたため、ともえはブランケットを蹴って身体を起こした。ともえが立ち上がろうとすると、そのわずかな物音で清磨がともえの方へ身体を向けた。

「どうしたの?」
「水飲んでトイレ行ってくる」
「暗いから気を付けて」

ともえはこくりと頷く。部屋は暗いが、ともえの影の動きで清磨もともえが返事をしたことが分かったようだ。うっかり清麿を踏み付けてしまわないよう、ともえは慎重に歩いて部屋を出た。
他の宿泊客を起こしてしまわないようにゆっくりと歩く。廊下が軋む音が響く度、ともえは緊張した。一階のロビーは明かりが点いており、ジュースの自販機も変わらず稼働している。受付の奥で人影が動き、ともえはひゅっと息を飲んだ。

「こんばんは。眠れないですか?」

受付に居たのは北杜だった。見慣れた顔に、ともえはほっと息を吐く。北杜とは半日一緒に過ごしたおかげか、話しやすかった。

「こんばんは。何か飲みたくて下りてきました」
「そう。じゃあ昨日のお礼にどれか好きなのどうぞ」

北杜は自販機を指差す。最初は遠慮したともえだが、北杜が「良いから」と何度も言うのでともえの方が折れた。冷えたスポーツドリンクを両手で受け取り、北杜に促されてソファに座った。

「宿泊は今晩が最後だよね。楽しめた?」
「はい。行きたいと思った場所にも行けました。送ってくれてありがとうございます。あの遊園地は、前はもっと広かったんですね」
「十年前の台風のせいで園内の一部が土砂で埋まったの。それと一緒にお客さんの足もだんだん遠ざかっちゃって」

ともえは県立公園のマップを思い出す。立ち入り禁止区域は、土砂災害で入れなくなってしまった場所だったのだ。手入れが行き渡った綺麗な公園だったが、古くなっているのは否めなかった。現状維持で精いっぱいで、被災したエリアを新しくする余力は残っていないのだろう。

「……そうだったんですね」
「娘が小さい頃に何度か連れて行ったことがあるから、あなた達が行くって言った時になんだか懐かしくなっちゃった」
「娘さんがいるんですね」
「あなたよりは年上かな。家を出て、都会の大学に通ってるの」

北杜の視線がふいに下がる。ともえが黙って北杜の言葉を待っていると、彼女は眉を下げてゆっくりと話し始めた。
この民宿は、北杜の祖父母の代から経営していると言う。北杜の両親から経営を引き継ぎ、当初は北杜と彼女の夫が二人で切り盛りしていた。民宿経営は決して楽ではなく困難ばかりだったが、それでも北杜にとっては楽しく愛おしい日々だった。十年前の台風災害で北杜は夫を失った。中学生になったばかりの娘とたった二人きりになってしまった。北杜は民宿を手放すことを何度も考えたが、今もこうして民宿は残り続けている。

「娘が帰省する度にね、頑張って来て良かったなって強く思うの」
「どうしてですか?」
「民宿を残すことに一番に賛成してくれたのが娘だった。“ただいま”って帰ってくる度にここで何があったのかいろいろ聞いてくれる。娘には苦労も寂しい気持ちもたくさんさせてしまったから、恥じないように頑張らないとね」

北杜の鼻の頭がじんわりと赤くなる。これまでの日々や娘の顔が思い浮かんだのだろうと、ともえはすぐに分かった。すん、と一度鼻を啜ってから北杜は口を開いた。

「こんな夜中にお客様に長話しちゃった。ごめんなさいね」
「北杜さんも娘さんもすごいです。私はあまり……家でも親と話さないから」

ともえは両手でペットボトルを弄る。強く押してべこっと音がした。

「例え親子でも人間同士だから、話さないと分からないことばかり。でも、無理をすることはないと思う。あなたが話したいと思った時に話をすればいい。ああ、これは私の実体験からね」

北杜がくすりと笑って言う。その様子が面白くて、ともえも笑って「はい」と答えた。
話をしていたら、ともえもリラックスして眠気が再びやって来た。北杜と別れてともえはロビーを出る。歩く度にきしきしと鳴る音も、先ほどよりも穏やかに聞こえる。
心地良く眠れそうだなとともえが思うと、大きな欠伸が出てきた。

prev / next

[ 章へ戻る ]


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -