じょうほうのせかい
小さく寝息を立てるほしこを見つめる。
不審人物であろう私の話を信じ、この家に置いてくれるとまで言ってくれた。
彼女が言った、戦争をしないという国の選択。時が経つにつれ、その願いは変質していると自嘲の笑みを浮かべた。
確かに、命の削りあいが無ければ、ここまで危機感は薄れるのだろうか。
しかし、強盗や空き巣などと言った物も増えていると言ったはずだ。
考えても埒があかない。
彼女を起こさないように、バルコニーへと出る。正式な名前は、知らないが。
まだ日の昇らぬ東雲の空を眺める。多少息をし辛いのは、何故。
匂いこそ違えど風の感触は変わらず、空も向こうと何一つ変わらない。
まだ、異世界だという実感は無かった。
眼下を滑るように動く四角い物を観察したり、犬を連れた人が歩くのを眺める。
夢中になっていたせいか、いつの間にか昇った朝日に気がつき、眩しく感じる。
「すぱるとす、さん…?」
「ほしこ、すまない。起こしたか」
「いえ、大丈夫です」
何も言わずに私の隣に立った名前は、朝日に照らされてどこかの彫像のようだった。
女性、男性に関わらず、素直に美しいと思う。
「あ…この蝶、」
「蝶?」
彼女の視線の先には、雲の残る空が広がるのみ。
「光っている蝶、スパルトスさんに出会う直前にも、見ているんです。」
「もしやそれは、ルフではないだろうか」
「ルフ?」
「ふむ…なんと言えば良いだろうか。私は魔法使いではないから、詳しく説明ができないが…私たちの世界では、大いなる流れ…つまり、運命だ」
おおう…と呟き、彼女は俯いてしまった。混乱しているのか、不審に思っているのか。
「運命…信じたことはなかったけど…」
「そうだな…世界が違えば、考えも違うのだろう。国による教えのような物だな」
「不思議ですねぇ…」
彼女から、この街へと視線を戻す。
「会った時は、あんなに怖くてたまらなかったのに…今は、こうして安心してるなんてね」
「ほしこ、お前は…」
「さ、ご飯にしましょうよ。お腹すいちゃった」
安心している。それは、信頼してくれているのだと思って良いのだろうか。
部屋に戻れば、パンと卵を焼いた物が用意されていた。
「あ…今更ながら、嫌いなものってありますか?」
「いや、特にはない。」
「そうですか、良かった」
彼女に倣い、「いただきます」と挨拶をしてから食べ始める。感謝の祈りに近いものと知り、少しこの世界に親近感を覚える。
空も、風も、人々の祈りも、何も変わらない。ただ、選び取るものが違ったのだろう。どの教えを選ぶか、どの言葉を選ぶか。
それは、与えられた自由の為せる、究極の個。
幸せという物の概念はそれぞれなのだと、感慨に耽っていて油断していた。
差し出された飲み物の味に盛大に噴出してしまい、一気に目が覚めてしまった。
すまない、ほしこ…
二日目
何気なく差し出したコーヒーを、スパルトスさんは噴出してしまった。向こうの世界にコーヒーは無いのだろうか…失敗。
羞恥心からか、心なしか涙目になっている彼を着替えさせ、テーブルの片付けを始める。これは…どこか寄って軽食を食べるしかないか。
「その…すまない」
着替えて出てきた彼に、脱いだ衣服は籠に入れるように言って、予定変更の旨を伝えた。
コーヒーの味を思い出したのか、それとも申し訳なく思っているのか、謝罪を告げた彼はとても苦々しい顔をしていた。
「気にしてませんよ。出す飲み物を間違えましたね…こちらこそごめんなさい。」
「いや、すまない。正直に言えば、驚いてしまった。ほしこは毎朝あれを飲んでいるのか?」
「はい。頭がすっきりするので。」
「…だろうな」
薬とどちらが苦いかと聞けば、彼は至って健康で、あまり薬らしい薬を飲んだことが無いのだと告げた。そりゃあレギュラーコーヒーも驚くよね。
うん、なんか規則正しい生活してそうだもんね。
最初から車での移動は厳しいだろうと思い、徒歩20分くらいの近いデパートに向かうことにした。
信号機の見方とか、白線の意味などを教えつつ、戸惑う彼の手をそっと引く。
途中に立ち寄った喫茶店でホットケーキを食べつつ、自動ドアやエスカレーターも事前に説明をして、混乱しないようにする。
デパートのエントランスに入るなり、彼は「世界は広いな」と微笑んだ。
客足が増えない内に洋服を買いに3階へ行く。(エレベーターに乗った時に、小さく叫び声をあげた彼の顔を忘れはしない)
紳士服の店に入った後、洋服を自由に見て回って貰うが、選べないと言われてしまっては手出しができない。
男性店員さんに見繕って貰った服と下着を何着か購入し、店内で着替えて貰う。
「ほしこ」
「う、わ…」
小さくはにかんだ彼に、見惚れずにいられようか。
「素敵、ですよ」
「ありがとう。ほしこには、感謝しても足りないぐらいだ」
「そんなことないですって。さあ、次に行きましょう」
それから彼は、思い出したように私に小さい袋を渡した。
「ほしこ、これを」
「なんですか、これ」
「シンドリアの通貨だ。この世界での金の価値はわからないが、何かの足しにならないだろうか」
「えっ」
中身を確認すると、素人目にはわからないが、純金であろう硬貨が数十枚入っていた。
いや、いやいやいや。
慌てて彼に押し返せば、何故だという顔をされた。何故だじゃねえよ。
「お金目的で貴方と同居してる訳じゃ、ないです」
確かにギブアンドテイクとは思った。が、それは純粋に彼が家にいることでテイクは完了している訳で。これ以上の待遇はいらないのだ。
私には返せない。つまりは、迷惑だ。
その意味を込めて目を見つめれば、彼は渋々と頷いた。
「行きましょう、スパルトスさん。」
背中に刺さる視線を無視しつつ、本屋に向かう。絵本を買うためだ。私が仕事をしている間、退屈では困るだろう。
ひらがなを教えて、後は絵本で学び取って貰おう。彼は頭が悪いわけではない。聞きたい事は聞くし、自分で考えてわかることならば答えの確認をするだけだ。
本屋に着き、買う物を色々考える内に、すっかり彼とはぐれてしまったようだ。ここは本屋なのであまり広くはないのだが、それでもそこらの書店とは比べ物にならない。
絵本は絵柄で気になったのを選んでもらおうと思っていたのに。
小さく名前を呼びながら、店内を見て回る。と、彼は通ったばかりの漫画コーナーの一点に立ち尽くしていた。
「スパルトスさん…?」
彼の視線の先には、マギという漫画があった。
驚愕した横顔。ああ、もしかして。
「スパルトスさん、本を選ぶの、手伝ってください。気になるのなら、それも買います。」
「………すまない。…頼む。」
「はい。」
店頭にあるのは3巻まで。近くの店員に聞けば、マギとやらは売り切れているのだそうだ。他に出ている最新巻までを取り寄せて貰うことにして、スパルトスさんを絵本のコーナーに連れて行く。
彼は元気が無いようだったが、うまく切り替えてくれたようで、絵本ははらぺこあおむしに始まりねないこだれだまで10冊くらいを購入した。
その後は歯ブラシから地図や布団など、日用品を購入して帰ることにした。先の見えない同居生活。明日には帰ってしまうかもしれないし、これから一生寝食を共にするのかもしれない。
その日の夜に、彼は買った漫画を見えない所に置いて欲しいと言った。それは、彼なりの防御反応であり、まだ平仮名さえ知らないのでは、読むのも辛いだろう。
逸る気持ちを押さえつける為に、敢えて一旦忘れる。日本語に集中して、漫画を読めるまでに会得したら、そのときに手がかりとしてマギを読む。それが、彼の望みならば、私は何も言わない。
わかりやすく、彼が理解できるように教えてあげるだけだ。
その日から、彼と私の日本語講座が始まった。
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