十六:砂のお城の舞踏会


 静かな自宅に戻って、玄関にボロボロのスニーカーがなくて、物音もしなくて、空気が冷たくて、心底安堵した。熱くて痛い鼻の奥を堪えながら、頭を冷やそうとひと駅手前で電車を降りて歩いた足は既に棒のようなのに、足は無意識に自宅内をくまなく歩いて誰もいないことを──レオが留守であることを確かめた。
 リビングにへたりこんで、膝を抱えて窓の外に顔を向ける。
 瀬名先輩の自宅で最後の、本当にこれきり最後のセックスをした。自分でもどうしようもない女だと自覚してる。自覚してても、最低だとわかってても止められなかった。バッグからスマートフォンを取り出した。煌々とする液晶画面に、ショートメールの着信が表示されている。送り主は瀬名先輩だった。
『れおくんがこれからうちにくる』
 全部平仮名のその一文に込められた意味を考える。私だって、答えがわからない子供ではない。わかるよ。メッセージアプリを使わなかったのは、レオに万が一見られても削除履歴を見れないため。全部平仮名なのは急いでるから。この一文で瀬名先輩が言いたいのは、『私は瀬名先輩の家には行っていない』という口裏合わせだ。受信したばかりのショートメールを、滑らかな動作で削除する。スマートフォンを床に放り投げて、また窓の外に顔を向けた。何度言ってもカーテンを閉め忘れるレオの残像が脳裏に浮かんで、それでも普段と違ったのは憤りも何もかもを感じなかったことだった。
「あの時に戻りたいなあ………」
 唇から零れた言葉はとても切実に震えて、夢ノ咲にいた頃の記憶を必死に繋ぎ止めようとしている。

「おれに恋してよ」
 今日、レオが瀬名先輩以外のKnightsのメンバーを家に呼んだ日から数日後の夕方、レオは私の手首を掴んでじっと私を見つめて言った。
 いつも通りのリビングで、ふたり隣合って何も話さずに別々の場所を見ていた。レオはたぶんテレビを、私はたぶん窓の外を。手首を掴まれて顔をレオに向けたことを、私は少し後悔している。
「……私はもう新しい恋はしないって決めたの。好きじゃない男と結婚するって決めた時に」
 投げやりな気持ちがそのまま唇から転がり出てきたことに、自分が一番驚いた。きっかけはなんだったんだろう。あの日の嵐との会話が頭の中に浮かんでは消える。レオを責めたくない。私にはそんな資格も権利もない。だから責める材料を与えないで欲しいのに、レオはそんなことおかまいなしに、手首を掴む手に力を込めた。
「……今お前がどんなこと考えてんのかわかんないけど、おれはうれしい。たぶん、やっと本音だ」
 こんなに痛々しい表情で、泣きそうに笑いながら言うことではないはずだ。けれどその声だけは確かに力強く鮮明に、浜辺の波のようなゆるやかさと制御できない強引さで私の心に入り込む。その打ち寄せる波はこれまでにも何度も、大きく、小さく私の心に入り込もうと寄せては引いていた。それを今でも懸命に、押し返そうとしている。──不毛だ。
「レオは私を許すことにしてからずっと、私に歩み寄ってたつもりでしょう」
「おれはちゃんと始めてみたい」
「レオがしたいことをしてるだけで、押し付けてるだけだって、今になっても気づかないの? 私の立場で拒めるはずがないのに」
 最後は言葉にならなかった。酷いことを言った自覚があった。言葉よりもっと酷い行為をしてきたのに、私はその行為をずっとレオが私をぞんざいに扱ったことに端を発するという気持ちが拭えず、ずっとレオを責めながら裏切りを続けてきた。
「………違うだろ。お前はちゃんと、拒めたはずだ」
 瞬間的に湧き上がったのは一体どんな感情だっただろう。レオの手を振り払って、俯いたままリビングルームを出た。シューズクローゼットの上から鍵をひとつつまみ上げて、自宅の鍵は持たずに外へ出た。
──レオは、追いかけてくることはなかった。

 行き着いた先の整頓されたマンションの一室に家主が居なかったのは、たぶん誰かが私にくれたチャンスだったんだと思う。

*

「障害もないんだし、さっさと上手くまとまっちゃえばいいのに。ね、ス〜ちゃんもそう思わない?」
 口にしておいて、我ながら短絡的だなと思った。そんな簡単なことならたぶん王様だってさっさとやってる。でも、簡単だからこそできないこともあるらしい。それは結局、難しいということになるのか。
 仕事終わりに足を向けたのは、”末っ子“の自宅だった。ス〜ちゃんは面倒そうな素振りも疑問も見せず、ただ微笑んで、静かに息を吐いて迎え入れてくれた。
「………凛月先輩は………私もですが、初恋というのがどんなものなのかわかりますか?」
「………さあ」
 恋ってなんなんだろうなあとぼんやり思い続けて月日ばかりが経っていく。夢ノ咲の頃に触れた”恋“は、──たぶん最初にそれに触れたのは、セッちゃんから彼女に向けての感情だった。それを俺は、そうだ、嫌悪した。『セッちゃんにはもっと大事なものがあるでしょ』そう言ってやりたかった。
「お姉様の感情を推し量ることはできません。誰にも。それでもきっと、お姉様にとっての“叶ったはずの初恋”は、たぶんずっと、お姉様の身を焦がし続けるのでしょう」
「“叶ったはずの”」
 復唱した俺に、ス〜ちゃんが一度小さく頷いた。ただ“初恋”と言うだけでもよかったはずなのにわざわざ“叶ったはずの”という枕詞を添えたス〜ちゃんの、その悲痛にも似た切実さに、思わず胸を打たれた。
 王様が変われば、きっと彼女の心も解けるだろう。そう思っていたのに、もしかしたら俺は、どこかで何かを読み違えた?

 ス〜ちゃんが律儀に差し出してくれたティーカップからは、湯気と芳醇な香りが立ち上がっている。

*

 汗ばんだままの皮膚が触れ合った。まるでそこからひとつに溶けて境界線がわからなくなるほどにぴたりと。考えなければいけないことと考えたくないことが頭の中を一気に駆け巡ったけど、思考することが億劫なほどに気だるく、ひとまず枕に肘をついて隣で目を瞑ったまま息を整える彼女を見つめた。
「………体、大丈夫ぅ?」
「だい、だいじょうぶ、です」
 彼女の口元が僅かに弧を描いて、小さな小さな笑い声が零れる。俺が彼女を気遣う度に、彼女はこうして密やかに笑う。
 気遣う、触れる、笑う、叱る──彼女は、俺がすることにいつも小さく笑顔を見せた。夢ノ咲にいた頃からだ。──ずっと、ずっと?
「アンタさぁ、」
「………泉さん、あっち向いてて」
「はぁ?」
「服、着るから」
「……今更何言ってんの」
 確かなことがある。俺が手を伸ばさなかったことで手に入れなかったものの話だ。それはきっと、俺が手を伸ばしていたら確実に、俺のものになった。そう、だからわざわざ本人に聞くまでもなく、今になってようやく思い知ったのだ。
「……………ナルくんの言った通りだよ」
「なんですか?」
「……こっちの話」
 「それはそうと、着替える前にシャワー浴びたら?」と思わず続けそうになって口を噤んだ。これで最後にするという決意が、彼女をここまで突き動かしたのに、今になっても俺はもう少し隣にいて欲しいと望む。
 指を伸ばす。指先が彼女の柔い肌に触れる。触れられる距離にいる恋の相手が、今度こそ本当に、触れられなくなる。
「……………本当は一度、捨てようと思ったんだけど」
 ベッドを降り、脱ぎ捨てたボクサーパンツだけを履いてベッドルームのチェストへと足を進める。その引き出しのひとつから箱を取りだした。特徴的なグリーンのボックスに金色の王冠。彼女を想って、渡せたらいいと、渡せなくても仕方ないと、同じ時間を一緒に過ごす夢ばかりを詰め込んで買った腕時計が納まっている箱。背中を無防備に晒してリネンを抱えるようにベッドに座る彼女の元へと進める足裏から、ペタペタと間抜けな音がする。一度ダストボックスに投げ入れたそれを拾い上げて、見えない場所にしまい込んだ自分の女々しさが情けないのに、彼女はとろける眼差しで花のように笑い、そして恭しく両手でそれを受け取った。その目尻から涙がこぼれる。



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