十五:結んでほどいて

「瀬名先輩」
 声がする。ずっと恋焦がれてきた声だ。その声が真正面から、マンションの重い扉が閉まる音と同時に直線で俺の元へと届いた。
「………なんで」
 彼女が、王様に預けていたまま結局回収できずにいた鍵を控えめに翳した。そして、泣きそうに笑う。そんな顔が見たかったわけじゃない。鍵を閉めることも後回しに、手のひらで彼女の視界を塞いだ。

*

「せんぱい、………泉、さん……!」
「──アンタねえ、こっちがどんな気持ちで……」
「ゆるさない………」
 空気が凍る。涙混じりに必死に絞り出した言葉が、額面通りに瀬名先輩に届いたことがはっきりとわかった。本心までは届くこともなく、いつか習った国語の授業みたいな登場人物の心情を暴こうとする試みも意味を成さず。
 視界を塞がれて引っ張られた先のベッドルームは変わらずに整頓されていて、小洒落たホテルの一室を思わせるほどに小物は恐らく計算の元で配置されている。
「……失恋まで、知らない誰かが望む “瀬名泉” でなんて、いないで」
 情けなく縋り付く指先が瀬名先輩のきれいにプレスされたシャツを掴んで震えている。本心を紐解いて、少しずつ届いたらいいと願う。終わらない初恋がこの身を焦がし続けるその理由を、知って欲しい。
「……俺、アンタの手を離したよ」
 自分だけきれいに、恋人だったはずの女に背を向けて置き去りにすることを、失恋とは呼ばない。ありきたりなラブストーリーの当て馬なんて求めていない。
「……触って。 最後でいいから、これで終わりにするから」
 縋るかたちの自分の姿があまりにも惨めで、滑稽で、それなのに、涙が溢れて止まらない。何年分かの感情が、行き先を求めている。まるで瀬名先輩を排水溝にしているようだ。言いたかったこと。言えなかったこと。言えなかったのは、どうしても責められなかったから。私も同罪だったからだ。そう信じていたからだ。
「ちゃんと決着を付けたいんです……物分りのいい振りばっかりで、何も、終わらせられないまま」
 こんな女に触れられるレオが可哀想だ。こんな女に想われ続けている瀬名先輩が、可哀想だ。
 瀬名先輩が短く息を吐いて、それから大きく息を吸った。その両手が私の、瀬名先輩に縋る手を握り込む。
「“俺” は、ちゃんとしてて、自分を律することができる。仕事にプライドもある」
 その眼差しは私を見てはいない。伏せられた瞼から覗く瞳は変わらずにきれいな露草色を湛えている。色素の薄い瞳は眩しさを感じやすいということを知ったのは、瀬名先輩がいつか夢ノ咲のどこかで眉間を皺を寄せていた時だったはずだ。
「先輩……」
「俺は “瀬名泉” だからねえ」
「私、……私が好きな先輩は、完璧じゃなかったんですよ、ずっと、」
 瀬名先輩は、私が辛い時にそばに寄り添って励ましてくれた。隣にいた。ねえ、でも。
「私が好きになった瀬名先輩は、最初から完璧じゃなかったの」
 瀬名先輩の美しい瞳の奥が揺れた。その手が私の頬に添い、そっと引き寄せられてすぐ、噛み付くように唇が重ねられた。

*

「俺さあ、っ……アンタに、一緒に地獄に着いてきてって、言ったよねぇ」
 息も切れ切れに、声を絞り出した。懐かしむように、けれどとても抑圧的に、彼女の後頭部を真上から見下ろす、そのむき出しの肩が、背中が寂しげに震えている。ゆっくりと抽挿を繰り返す腰の動きを殊更滑らかに、呼吸の荒さと耐えて歯を噛み締める口元とは打って変わって、ベッドの軋む音はほとんどしない。
「一緒に行くつもりもなかったくせに、ね」
 これは懺悔だ。彼女がそのことに気づくのに、さして時間はかからなかった。付き合いは長い。プロデューサーとアイドルとして、先輩と後輩として、人には言えない関係だったけれど、事実としてどういう言葉が相応しいのかはわからないけれど── "恋人" として。乱れたシーツの海の上で、枕に頬を押し付けながら切ない吐息を零す彼女の乱れた髪の毛が愛おしい。
「……"俺のことを好きになって欲しい" って思ってたよ……思ってたはずなのに、アンタの手、離しちゃった」
 後ろから繋がったままの体勢で、彼女の柔い肌、肩甲骨のあたりにキスを落として律動を止めた。艶めいた髪の毛を、カーテンの隙間から溢れる月明かりが照らす。
「好きになって欲しいって、何度も何度も繰り返し願ってたんだけどねぇ。それなのに、」
 一度目を瞑って次に瞼を開けた瞬間、彼女が身をよじった。その動きに、彼女の胎内に侵入していたペニスがぬるりと滑らかに、そこから外気に触れた。
 俺を真っ直ぐに見つめる彼女の瞳に映る俺の瞳に、薄らと涙の膜を見る。
「俺はアンタのこと、好きじゃなかったのかな」
 きっと、それは独り言だったんだと思う。自分に問いかける──彼女に返事を求めてはいない言葉。いつもアイドルとして、モデルとして "ちゃんと" していたはずの俺の、学院時代のような普通の、不完全な、弱いところを隠そうとする男の素顔。きっとずっと、彼女が知っていたもの。そしてずっと、彼女が好きでいてくれたもの。
 彼女が俺の上に跨って、涙目のまま唇を引き結んで、そうして腰をゆっくりと落とす。彼女の指に支えられて、ゴムをつけていないペニスがゆっくりと彼女の中に入り込んでいく。あられもなく俺の眼前にその胸元を晒した彼女の喉が小さく鳴いた。
「……あの日アンタを抱いたのを最後にしようって思ってた」
「……私も、そうなんだと思ってました」
 彼女の体を下から見上げるのは初めてだった。いつも頼りなく、俺に愛されているのが幸せだと言わんばかりに手を伸ばしてくる彼女が、ずっと欲しかったもの。
 さっきまでとは打って変わってベッドの軋む音が、布のこすれる音が、規則正しい粘着質な音が、肉のぶつかる音が、室内を支配する。彼女の太ももから腰へと手のひらを当て、指先で結合部上の突起をやさしく摘んだ。彼女の体が跳ねて、膣がこれまでになく締め付けられる。
「っ、」
「ぁ、んん、」
 脈打つペニスをせめて早く出さなければと思うのに、彼女は震えながら、荒い息を整えることもなく、そこを退かない。
「は、ちょ、……っ」
 繋がったままのそこに、俺の精子が流れ込んでいく。背筋が震えたのは恐怖か歓喜かそれとも単なる解放感か。
「……っアンタしか、知らない」
「泉さんの本心も私の本心も、私たちしか知らないの」
 まるでセックスだけが、愛して愛されていることの証明であるかのような、子供のようなぎこちなさだ。
 一般的にどうなのかは知る由もなく、学生時代に好きな人と、或いはそこまで好きではない人とセックスを重ねて大人になったような、知らない男女のことを思う。俺たちは、そんなこと頭の片隅にもなかった。たぶん興味はあったけれど、優先順位は低かった。そんなものより欲しいものがあって、そんなものより大事なものがあった。
「抜かないで、」
 強請る甘い声に心臓が大きく鼓動した。繋がったまま上半身を起こして、彼女の背中を支えながらそのまま後ろに押し倒す。“抜かないで” そう言った彼女の本心を知っていて、それはしてはならない、それだけはしてはいけないと知っていて、それでも抜かずに、再び腰を動かし始める。一度果てた彼女がつらそうに小さな悲鳴を上げる度に硬さを増すペニスが恨めしい。
「今度こそ、一緒に地獄行きだよ」
「あ、ぁっ、んぅっ……はい、いずみ、さん」
 俺に伸ばされる腕は変わらずに、あの時からずっと彼女は俺だけを好きだったんだと知る。縋り付く形の彼女の手は確かに震えていた。その身体を引っ張りこんだのが寝室だったことを思えば、俺も思い知る。
──俺は、俺だけのプライベートな場所に、彼女を閉じ込めてしまいたかった。
 唐突に、あの日王様がメンバーを呼び出した日のことを思い出す。俺は理由をつけて行かなかった。その夜、そうだ、ナルくんはあの夜、俺にメッセージを寄越した。
『泉ちゃんはあの子の想いの深さを思い知るべきよ』
 彼女の両手が俺の頬を包む。切なさをたっぷりと込めた眼差しに誘われて、唇を合わせる。もしも夢ノ咲にいる頃に言えていたら、もしも二人の関係を知っていてもなお、言えていたら、……れおくんに、宣戦布告できていたら。
「……ずっと、好きでした。瀬名先輩」
 その過去形に気付かないふりをして、彼女の膝を握って殊更強く開き、そして腰を奥へと叩きつけた。彼女の頬に落ちたのは俺の汗か、それとも涙か。

 瞬間的に真白に明滅する意識の中で思う。
 ───ああ、もう、どうにでもなってしまえ。



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