十四:夜這い星

「おはよ〜。間男しに来たよ」
「………………………何してるの、凛月くん」
 重い頭を枕から持ち上げようとしたその額に冷たい手のひらが当てられ、思いのほか強い力で元の位置へと押し戻された。
「女性の寝所で何をしていらっしゃるんですか」
 降る声がまた変わり、小さな子供を叱りつけるような響きを込めた司くんが、私の隣に潜り込んだ凛月くんの首元を引っ張りあげた。その目は私を見ずに、それでも眉根に苦悶をまざまざと見せつけている。
 ベッドの中で一呼吸おいて、それからふと、なにかの予感で左手の薬指に触れた。つやつやとした指輪の感触は、私にひとつの確信を連れてくる。
「……レオに呼ばれたの?」
「手がかかるよね」
 いつもの口ぶりの凛月くんが、司くんに持ち上げられた襟元によって随分と苦しそうに笑った。手がかかるのはレオか私か、どちらもか。
「ちなみにセッちゃんは来てないよ」
「そう」
 僅かな沈黙の中、多少華奢に見えるとはいえ大の大人の首元を片手で持ち上げていた司くんがとうとう力尽きたのか、ベッドのスプリングが反動で少し弾み、凛月くんの綺麗な黒髪が私の隣に広がった。
 
  笑い話にしてしまえ。過去のことぜんぶ、なかったことにしてしまえ。そんな風に生きれたらどんなに良かっただろう。笑い話にできるような “過去の話” なんて、私は持ち合わせていないのに。
「お前たち何してるんだ〜?」
「ほら、凛月先輩!レオさん来ましたよ!」
 昨晩、レオの言う通りに私は確かに本音を明かしてしまった。墓場まで持っていかなくてはいけなかった。それをレオが僅かでも喜んだとしても。
「え〜? せっかくだから寝かせてよ〜」
「だ、め、で、す! ほら早く出ますよ!」
 今度こそ司くんは私のベッドから凛月くんを引きずり出し、扉の前に居座るレオの元へとその足を進めた。私は、レオの顔を見たくなかった。扉が閉じるその瞬間、凛月くんが私ではない場所に、ちらと厳しい視線を向けた。

 一体、賽を投げたのは誰だったか。ベッドの上で考える。考えても考えても到底答えは出ない。恐らくは、出るはずもない。当事者が等しく罰を受けるような公平さも清廉さも、残念ながらこの世界は持ち合わせていない。最後に私が出来ることなんて、ほんとうに、ちっぽけだった。
「私の初恋は、私のもの。私だけのもの」
 私の部屋の中で静かに、雪の日のように音もなくそこにいた嵐がそっと振り向く。凛月くんの厳しい視線を向けられたその人は、目尻にうっすらと涙を溜めている。まるで絵画のような、ふるい映画のような美しさに、視線が奪われた。
 シンプルに並んだ化粧品たちのその一つである、青みがかったピンクのネイルボトル。その黒いキャップに右手の人差し指を添えた嵐が、形の良い薄い唇を開く。
「……泉ちゃんが選びそうな色」
「……そうかな」
「違うわね、……あなたのことを想えば、きっとこれを選ぶ」
「誰であっても?」
「あなたのことを知っていれば……あなたのことを思い浮かべれば、きっと」
 すぐにでも駆けだしたいのに、この空虚で心温まる問答を切り上げたいとは不思議と思わずに、嵐がネイルを取り上げて、その手のひらに収めるのを眺めている。
「塗ってあげてもいいかしら」
 例えば、他者の色に染まるとして、染まるのはどこからだろうと思う。鼓動を刻む心臓から? はやる気持ちで駆け寄りたい足から? 温度を知りたくて伸ばす腕から? それとも、握った指先から? あるいは、重ねた唇から?
「……ネイルじゃなくて、リップが良かったな」
 私の中から瀬名先輩の痕跡が失われていくのがこんなにこわいのに、切り捨てられた心の分穴が空いて塞がらないのに。
「どうしてアタシたち、恋なんてするんでしょうね」
 嵐が黒いキャップを捻りながら、優しい声で呟く。一編の詩のような、切実な甘さと残酷さを内包した言葉だと思う。
「ほんとにね」
 ベッドから起き上がって、腰掛ける形で嵐に爪を向けた。
「キレイにしてるのね」
「自分に出来る限りは、きちんとしたかったの」
「……そうね」
 きっと嵐には、これだけで伝わっただろう。ベッドサイドに両膝をついた嵐が、私の指先に手を添える。
「嵐は、どんな時に初恋を思い出す?」
「どんな時かしらね……。思い出すことが多くて、……忘れることがなくて、わからないわ」
「そう、……うん。おんなじだ」
 色を乗せた筆が、ひやりと私の爪に乗る。

 どうしたらいいのかわからないのはきっと、今の私の選択に、私自身が責任を持っていないからだ。私は多分今になってようやく、選択の指針を他人に委ねたツケを払わされようとしている。

*

「重症じゃない?」
「ん、おれも、やり方が乱暴だった自覚はある」
 お姉様の部屋にふたりを残し、リビングルームのテーブルでマグカップに唇をつけながらお二人の様子を、知られぬよう伺う。
 恐らく部屋を出る前に凛月先輩が鳴上先輩に向けた視線は牽制だった。鳴上先輩がお姉様と瀬名先輩に肩入れしていることが明白だから。私にもわかるほどなら、恐らく凛月先輩はずっとそれを感じながらレオさんの背中を押していた。──けれど、恋の話をするのであれば、鳴上先輩以上に適任はいない。
「ス〜ちゃんはさ、Knightsをどうしたい?」
 口に運んだ紅茶はほんの昨日、お姉様が淹れてくださったよりも味も香りも飛んでいて、事前にあたためていないカップに注がれた紅茶は生ぬるく、それが却ってレオさんらしくてとても心が落ち着く。だからこそ、凛月先輩の詰問めいた冷ややかな呼び掛けへの反応が、一拍遅れた。
「……沈黙がどう取られるかはわかってるんでしょ」
「凛月先輩、最初に言っておきますが、私はこの件にはこれ以上深入りしません」
 お姉様の選択、その選択の理由。皆さんが気づいていて、見ないように触れないようにしていること。そこに私は触れてしまった。土足で立ち入る真似をして尚、これ以上踏み荒らすわけにはいかない。
「な〜んだ。ス〜ちゃんてば、ほんとに大人になっちゃったねえ」
「スオ〜、ごめんな」
 レオさんの謝罪が何に対してのものなのかはわからないまま、客観的に言って美味しいとは言い難い紅茶を、行儀悪く一息に飲み干した。

 私もKnightsを大切に思っています。皆さんが大切にしてきたことを知っているから余計に、そう思います。恋の一つや二つで壊れてしまうような居場所なら、きっとここまで長くは続いていないんですよ。
 一息に飲み干してマグカップをテーブルに置いた瞬間、私は今自分が苛立っていたことに、ようやく気付いたのでした。



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