十三:夜に迷う


「結婚した時恋愛感情がなかったってどういう意味?」
 妻と後輩との会話にそっと聞き耳を立てていたことをすっかりどこかに追いやって、ずっと心の奥でくすぶり続けていた疑問を口にした。指先を添えただけのマグカップの中で、コーヒーの表面がかすかに揺れている。どうしてもマグカップに口をつける気にはなれなくて、テーブルの正面に座る妻のその瞳をじっと見つめた。
 いつか、そう………いつかセナに、独り言のように問いかけた。"なんであいつはおれと結婚したんだろう" その問い自体、おれは今の今まですっかり忘れていた。必要ないと思った。そう信じたかった。

 "打ち合わせがてら食事でも"
 顔と名前が一致しない男が二人、にこやかにおれの帰宅しようとする足を阻んだ。それでもおれはもう夢ノ咲学院の生徒だったおれとは違うから、"いいですよ。行きましょうか" と返事をした。愛想笑いの上手さを手本にしようと脳裏によぎるのは、やっぱりセナだった。こんな奴らには上手く笑える。笑えている自信がある。
 特別に美味しいとも感じない皿の上でフォークを時々踊らせながら、形ばかりの "打ち合わせ" を早々に終えた。あとはもうただの雑談のターンだ。入店してから三十分、おれにしてはよく我慢した方だろう。「そろそろ帰ります」そう言って立ったおれに、二人とも困惑と焦りをまざまざとその顔に浮かべていた。けれど縋る理由もなく、引き留める理由もとくべつなく、何を言いたいのか分からない眼差しに笑んだ口元だけが、不気味に浮いていた。
 そっと、物音を立てないように帰宅した。リビングにいるだろうとは思っていた。だから気配を殺す。驚かせたいわけではない。それが、妻と後輩との静かで恐ろしい会話に聞き耳を立てることになるとは、思っていなかった。

「………」
 僅かな沈黙の後、妻はまっすぐにおれを見つめ返しながら、一度そのきちんと手入れされた唇を引き結んだ。そしてゆっくりと開く。唇がまるで瑞々しい果実を頬張ったあとのようにつやつやしている。
「どういう意味って、そのままの意味だよ。好きとか嫌いとか、そういう気持ちがあってレオとの結婚を決めたわけじゃない」
「なんだそれ」
 息を潜めて聞き耳を立てていたおれを責める素振りも響きもなかった。
 思わず口から漏れた言葉は、正しく妻を責める響きで呆気なくその耳に届いた。妻もまた自嘲気味に口の端を歪めた。その眼差しが諦観したように伏せられ、意識的に抑止した声音だけが、テレビの雑音を無視してこんどははっきりとおれを責めた。テーブルに置かれたままの空のカップが白々しい。
 今更だ。言われたことの一言一句は、改めて言葉にされただけで、ずっと長い間おれたちの間に横たわり続けてきたはずだ。
「じゃあレオは、私のことを好きだと思って、だからこれからも一緒にいたいって、そう思って結婚しようとしたの?」
 「ちがうでしょう?」そう、彼女が目尻に涙を浮かべて、繭から不器用に撚った糸が解けてしまいそうな声で呼びかけた。瞬間的に、胸にせり上がってきたのは歓喜だった。
「やっとだ」
「……なに」
 目じりから涙が零れるのを眺めながら、確かにおれの口元は弧を描いた。
「ちゃんとおれに感情をぶつけて泣いたとこ、見たかった」
 ナルが言った言葉を、心の中でゆっくりと反芻する。「王様は、あの子の感情をちゃんと見て、受け止めたことがあるの?」その言葉を忘れられずにいたのは、自分でもそれを後ろめたく思っていたからなんだと思う。一般的な恋人だとか夫婦だとかがどうなのかはわからない。おれたちはおれたちなりの夫婦の形を作っていくしかない。それでも確かに、おれはこいつの感情をちゃんと真正面から受け止めたかった。
 ずっと見ないふりをしていたことそして、おれが一番にしないといけなかったこと。ようやく、頭の中に浮かんだリッツの言葉が、心の中のたった一つのところにきれいに収まった。
「なあ、お願いだ。……おれの "やり直し" を許してくれ」
 すがりつく声に、妻が立ち上がった。そして空いたカップと自分のカップをキッチンへ運ぶ。無言で、おれをちらとも見ず。
「……私は、レオに許されたいなんて思ってない」
「知ってる」
「だから、レオの機嫌を伺いながら生活する必要もなかった」
 ずっと、あれからずっとおれの機嫌を伺いながら過ごしてきたのだという事実に心臓がどれだけ痛んでも、今ここから逃げるわけにはいかない。
「……それでも、自分のした事を棚に上げてレオを責めたくないの」
 部屋の中、シンクの蛇口から水滴が落ちる音が鼓膜にやけに大きく響く。



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