十二:願いの行先


「お姉様は、なぜレオさんと結婚されたのですか?」
 どこにでも売っている紅茶葉で淹れたアールグレイを有名な雑貨チェーン店で買ったカップに注ぎながら、そんな切っ先鋭い問いを背中で聞いた。司くんの声にためらいは一切なく、かと言って意を決して発したような圧もなく、ただただ普段の──日常会話のように何気なく、ケトルの中にこもる沸騰音に紛れた。
「……司くん」
 ほんの少し咎める響きで声を掛けたのは、私のちっぽけなちっぽけなプライドだったか。司くんに他意がなければ、いまこの瞬間に私の心中を僅かに波立たせたのは、私自身にやましい事があるからという明らかな証左になってしまう。──今更だけれど。

 ──あのあと、『私と少しお話しませんか?』とメッセージを送ってきた相手は、結局終業と同時に送信した日時を問うメッセージに対して驚くべきスピードで、待ち構えていたとしか思えないほど早く『本日お姉様の仕事が終わり次第伺います』と返事を寄越した。まさかあんな風に顔を合わせた当日に──気まずかったのは、様子が変だったのは私だけだったけれど──何を話すというのか。そして私の都合を尋ねることはしなかったその一文に、心臓が一瞬止まる心地を覚えた。そもそもレオの都合もわからないからすぐの返答ができなかったけれど、司くんは違った。全てわかっている。わかっていた。一度呼吸を整えてから『レオに聞いてみないと』そこまで画面に打ち込んだところで、『レオさんは今日メディア関係の方と食事をしてきてもらう手筈です』と続けて寄越したその少ないやり取りに、私は司くんの意志の強さとそのしたたかさと、少しずつ確実に彼の身から抜けていった幼さを思った。

「……お姉様のお気持ちはわかるつもりです。私も、大学を卒業したら家の決めた方と結婚するので」
 ケトルからポットにお湯を注ぎ、次いでカップにお湯を注いでカップを温め、そしてそのお湯をシンクに捨ててから、ポットにカバーを載せた。指先が淀みなく、忙しなく動くのを、まるで他人事のように見下ろす。
 「わかるわけないでしょう」そんな言葉が喉まで出かかって、すんでのところで飲み込んだ。そう、わかるわけがない。だって司くんは最初から──早い段階から、そうなると覚悟があった。最初から自由恋愛をしないことを決めて、最初からそれでも夫婦になれると、なれるようにと、そう考えて歩んできた。そして実際に自由恋愛をしないまま……──たぶん、しないまま、今に至る。好きな人と結婚したい、好きな人と家族になりたいと夢を見て、恋愛をして、そして公に言えない関係でも尚、夢を見つづけてしまった私の気持ちなんて、わかるはずがない。
「……司くん、私がレオのことを好きじゃないっていう前提で話をするのね」
「───そ、れは、………失礼しました」
 あからさまに狼狽したふうに、司くんがテーブルの上で両手の指先を組んだ。レオと私の家の、レオが「なんでもいいから適当に選んどいて」と言って私が投げやりな気持ちで "適当に" 選んだテーブルは、司くんにはやっぱり似合わない。
「……ごめん、意地悪言っちゃった。………図星だからかな。私は確かにレオと結婚を決めた時、恋愛感情はなかったよ」
 ──今もね──、努めて穏やかに、静かに、感情を推し図られないよう、カップにアールグレイを注ぎ、司くんに差し出しながら言う。目を見ることは、できなかった。
「…………私たちのせいですね」
 聡い司くんが今度、僅かに声を震わせた。──ああ、そうか。司くんは、感じ取っていたのね。
 何と返せばいいものか悩みつつ、なんでもないような顔をしてカップに唇をつける。それに倣ってか、司くんも小さく「いただきます」と口にしてからカップを持ち上げる。その所作の美しさに、一瞬見とれた。
「お姉様、」
 玄関の方から、騒がしい音が聞こえる。レオの帰宅にこんなに安堵するなんて初めてだ。

*

 目の前にいるこの人は、思えば夢ノ咲の頃からとても静かでした。高い声ではしゃいだりせず、前のめりになりすぎることもなく、無理をすることはあったけれどそれが自己保身から来るものではなかったことをよく知っています。同年代のアイドルたちと日常生活を送りながら恋をしようという積極的な気持ちを持たなかった彼女のことを、私は尊敬しています。──心から。

 そんな彼女は、……お姉様は、レオさんとの結婚を選びました。お姉様は自由でした。選択も自由です。そして、自由な選択には当然責任が伴います。
──お姉様は、そのことを十分に理解しています。それがわかるから、とても悲しい気持ちになるのです。

 私は、お姉様がKnightsのためにレオさんとの結婚を選んだことを、知っているのです。知っていると言えば語弊がありますが、そうとしか思えません。恐らくこの予感は正答でしょう。夢ノ咲時代にあったと伝え聞いたことのある出来事をきっかけに、瀬名先輩が必死に繋ぎ止めた"Knights"という、ささやかで大それた望みのために、お姉様が選択の自由を捨て、責任を負い続けていること。もちろんそうすれば瀬名先輩の近くにいられるという打算もあったのかもしれません。瀬名先輩が恋をして、レオさんを裏切り続けることを選んだ責任をも、この人は背負って立っているのでしょう。
 私は、お姉様が引き受けたものの大きさを、夜毎思うのです。そして同時に湧き上がるこの気持ちは、恐らく怒りなのでしょう。他者に全てを背負わせておいて、物事を"終わった"としている、もしくは"終わらせよう"としている、無責任な方々に向けて。
「お姉様、」
 口を開くや、玄関の方から物音が聞こえました。食事をしていたはずですが、そう長くは足止めできないとは思っていました。それにしても随分早いお帰りですねと思わず心中で毒づいて、顔を上げました。目の前のお姉様の表情が明らかにホッとしている風でした。レオさんの帰宅を喜んでいる訳ではなく、第三者の出現に安堵しているのでしょう。
「いつか、本心を聞かせてください」
 リビングルームに続く扉のガラス越しにレオさんの姿を視認して、椅子を立った私に、お姉様の辛そうな眼差しが注がれました。
「スオ〜来てたのか」
「ええ、お帰りなさい、Leader。私はもうお暇します。お邪魔しました」
「ん? なんか食べてくか? おれもお腹すいてるんだよな〜」
「……いえ、今日は帰ります。今度ぜひ」
「そうか? またな!」
 食事もほとんどせず、最低限の会話をしてそそくさと帰路に着いたであろうレオさんに、私は息を吐くしかありません。



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