十:ガラスの靴


 彼女を職場に送り届けたいからと一旦退室する王さまの背中に、気づかれないよう一瞬の視線を送った。
 間違えたのだとわかっても、わかっていても、どうすることも出来ない。これに似たような気持ちを俺は実感として知っている。不倫スキャンダルが世を出回った後、俺の目の前で彼女を助けた王さまの電話、それを目前にした時の、あの時の気持ちとたぶん同じだ。やるせなくて情けなくて、俺にない権利を羨ましく思う気持ちの悪い感情。あの感情を、今でもすぐに思い出せてしまう。似た感情なら何度でも味わった。ただその記憶が積み重なり更新されていくだけの日々。彼女を助けて守る権利を自分で掴みに行くこともなく、ただ並んだ二人を視界に収めただけの俺が抱くには、筋違いの感情だ。
 俺の中の優先順位では、ずっとKnightsが一番だった。たぶんわかっていたはずだった。それが揺らいだと、今の自分が一番に望んでいたのは学院時代からの片思いのその相手なのだと、信じていた。それなのに、「Knights」への感情がこんなにも揺らがないのだということを身をもって知った。結果、彼女を振り回すだけ振り回して、呆気なく手を離した。彼女に触れた唇で、「一緒に地獄についてきて」と言った口で、俺は彼女を捨てたのだ。そんなことはわかってる。終わりだと言えなかった俺は、彼女に言わせてしまった。後悔ばかりだ。彼女を選べなかったことだけが、俺が選んだ──選んでしまった道のゴールに、事実として横たわっている。

 どうせ忘れることなんかできない。それでも、最後に彼女を抱いてしまった。ずっと俺に向かって伸ばされていたはずの手を、やっぱり俺は最後までとることが出来なかった。王さまが作った"相手のいるラブソング"は、リリースからだいぶ経った今でも、週間ランキング10位以内に居座り続けている。自分が歌っているはずなのに、この曲は本当に自分たちが歌っているのかも曖昧になる。それほど、その曲はただひたすらに美しく、たった一人を想っている。──たぶん、本当は俺の中になかった感情なんだろう。あったはずの、あると勘違いしていたのかもしれない感情。そのことが、何よりも一番俺を追い詰める。

 彼女のためのガラスの靴は、俺だけが持っていたはずなのに。そう信じていたはずなのに。

*

 夢を見た。夢はいつか覚めてしまう。大切なのは、夢から覚めてしまったあとのことだろう。何度も何度も夢を見る。同じ夢を、何度も。

 初恋の人は私を選ばない。そんな予感はとっくに実感になっていた。そのはずなのに、初恋の人は私に触れてくれた。とびきり優しい指先で、手のひらで、眼差しで、そしてとびきり甘い声で。そのことかどんなに嬉しくて切なくて幸福だったか、きっとその人──瀬名先輩は、知らない。
 私たちはお互いに、きちんと愛を伝えてはこなかった。それができる間柄でもなかった。もしあの頃に、夢ノ咲時代に戻れたら、今の記憶のままであの頃に戻れたなら、私はきっと瀬名先輩を選ぶだろう。そう思っていた。そう思っていたのに、フィレンツェに逃げたレオとの電話と、そして帰ってきて、その後に抱かれたあの時に、私はなぜだか満たされてしまった。その感覚を未だに信じられずにいる。信じてはいけないはずだ。あまりにも都合がよすぎる。そんなあっちこっちにフラフラするような浮ついた気持ちで選んだ道ではなかった。決めた時には、ちゃんと覚悟をしていた。何もかも、きちんと最後には手放せるようにと。それが今のこの体たらくだ。

 口元だけで自嘲した。つやつやの爪を撫でる。揃えた足先の空色を、意味なく視界に入れる。つけたままにしている結婚指輪は、レオに安寧をもたらしても、私にはもたらしてはくれない。噛み合わない感情にずっと苦しんでいる。
 レオとやり直せるならやり直したい。そう感じたのも事実なのに。レオが私を手離したくないと思ってくれていることもわかっているのに。

 おとぎ話では、好きな人と結ばれてハッピーエンド。ねえ、でも私たちが本当に知りたいのは、必要なのは、その後のことなんじゃないの?

 そう、例えば、あのガラスの靴の行方だとか。



次話
Main content




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -