九:ウスバカゲロウ
雨がやまない。
肌にまとわりつく生ぬるい湿っぽさ。深呼吸して吸い込む空気は不味くて、乾燥機にかけたばかりのタオルやTシャツも呆気なく、重くなる。ベッドだって、普段ならさらりと肌に触れるはずの布がどこかしっとりとまとわりつくような不快感をもたらす。ウォークインクローゼットの統一したハンガーに並ぶ乾燥剤が不釣り合いで笑えた。ドライ設定のエアコンと空気清浄機と加湿器がそれぞれの唸り声をあげ続けている。そんな部屋だって、どうにかアロマウッドに好みのアロマオイルを垂らして割り切っている。
厚い天板に惚れた木製のテーブル、合わせて買ったダイニングチェア。そこに座っていた王様の残像と、確かにこの部屋にいたはずの恋をした人の残像が重なって、ぼんやりとほどける。触れた肌も触れられた指先も、作られたお話のように"忘れられない"なんてことはなく、確実に、正しく、思い出せなくなっていく。──幸か、不幸か。
「奥さん」と口にしたその瞬間の彼女の表情は見ていない。見れるはずがなかった。誰かが息を詰める気配だけが、辺りを支配していた。
「わはは!"奥さん"って、いいな!」そう笑った王様の声がとんがっていたから、ああ、俺はまた間違えたんだな、とぼんやりと思った。革張りのソファが固く鳴く。
* * *
セナがあいつに「奥さん」と呼びかけた時、そしてあいつの指先が震えた時、確かにおれは安堵した。セナはちゃんと終わりにできる。そのことが、おれを安心させた。
いつかナルにも言われたことがある。「奥さん」なんて、"妻"を呼ぶための記号でしかなかったから、違和感しかなかった。そのはずなのに、確かにおれは安心した。
「……どうして、私を連れてきたの?」
スタジオに入るまでは晴れ模様だったはずの空は、"妻"を会社に送り届けるためにスタジオを出て車に乗り込んだあたりからすっかり雨模様に変わっていた。
「だってお前、しばらくみんなと会ってなかっただろー」
ワイパーが規則的なリズムで扇状に雨粒を浚っていく。車体にぶつかる雨の音が耳に心地よくて、ラジオの音を消した。耳に届く水しぶきの音、通り過ぎる大型車が風と雨を切る音、跳ね返る雨粒のリズム、そして、"妻"の息遣い。
「……そう」
おれたちは、やり直すために必要なことを整理する必要がある。新しいものを積み重ねても、それが崩れたらたぶんもう戻らない。そのことに気づいた旅行から帰ってきた。挫折を味わったこともある、けれどあの時は逃げ出した。こうなって初めて、自分で乗り越える難しさを痛感する。
「……それでも、前に進むしかないだろ?」
助手席に座る"妻"の顔を見て言いたかった言葉は、タイミング悪く信号が青色になってしまったせいで見れなかった。
「ここでいいよ。ありがとう」
「おー。終わりは?迎えは必要?」
「大丈夫。何時に終わるかわからないから」
車を下りる"妻"の左手の薬指には、おれとおんなじ指輪がある。これまで心配ばかりかけてきたスオ〜は、今日もずっと心配そうな気配を漂わせていた。大人になって隠すのが上手くなったって、それくらいのことはおれにだってわかる。
「だいじょうぶだ」
閉まったドアの内側で呟く。自分自身と、おれのKnightsのメンバーに向けて。
* * *
会社のデスクに座って、タオルで肩や腕、頭を軽く拭う。低い空調の音、誰かの電話する声、床を蹴るヒール、印刷物を排出し続けるコピー機、キーボードを叩く音、そして、窓の外は雨。──ようやく、呼吸ができた。
椅子に座ったまま、天井を仰いだ。大きく息を吸って、吐く。首、肩、背中──体じゅうが痛む。知らず力を込めていた体はどこもかしこも固くなっていて、首を回して、肩を回して、そしてようやく、執務室に入ってすぐにコーヒーサーバーから貰ってきた熱いコーヒーに口をつけた。サーバーの横に置いたお土産の焼き菓子が詰まった箱を脳裏に浮かべて、ほかのお菓子の方が食べやすかったかなと、どうでもいいことを思った。
起動したパソコンを目前に、パスワードを入力するために指先をキーボードに載せる。左手の薬指に鎮座する指輪が鈍くひかる。レオが見つめ続ける一点だ。──また、喉が狭くなった。
私は、レオとの婚姻生活を選んだ。他人のせいじゃなく他の人のためでもなく、私が決めたこと。そう、何度も何度も自分に言い聞かせる。言い聞かせないと、たぶん瀬名先輩を責めてしまう。"奥さん"そう口にした瀬名先輩は、私の方を見なかった。あの時私は、何と言うべきだったのだろう。
デスクの下の足元は空色。外の鬱陶しい天気には似つかわしくない、美しい色。瀬名先輩に言われた言葉を思い出しながら買った靴。キーボードの上の指先は青みがかったピンク。作り物のようにつやつやしている。──瀬名先輩からの、贈り物。どれもこれも、レオは知らない大切な記憶の記録だ。私は、これらをちゃんと捨てられるのだろうか。