七:役立たず


 とても優しい眼差しだった。

 あの、長く見ていた夢が終わった時のような──初めて心を通わせたように抱き合った時のような──穏やかな夜だった。
 レオはあの時のような言葉は発しなかったけれど、手のひらが、指先が、眼差しが、からだ全てが、私を気遣っているのがわかった。

 海の見える場所を、二人並んで歩いた。眺める分には気持ちのいい日差しが頭上から私たちを焦がし、太陽光を吸収した舗装されたばかりと思しきコンクリートは足元から私たちを熱した。半分程度まで減ったとてつもなく透明な水は、薄いペットボトルの中で波を作り続けていた。すっかり生ぬるくなったそれを、私は口にしようと思わなかった。
──レオが口をつけたから。そう、一言で言ってしまえば早い。けれど恐らく、私の真意とそれを聞く人の受け取り方は天と地ほどに差がある。

 好きな人がいながら、その想いを手放せずにいながら、他の男と結婚した。そして結婚してもなお、好きな人に触れて、触れて欲しい日々を重ねた。理解されなくともきっと伝えればよかったのかもしれないその理由は、やっぱりこれから先──きっと死ぬまで、死んでもなお、伝えることは出来ない。「あなたのために」は、イコール「あなたのせいで」になってしまう。

「レオ、ごめん」
 汗ばんだ身体を、同じく汗にまみれたはずの布団で包んだ。くっつけた布団の上にあぐらをかいて避妊具の後処理をしていたレオが、顔だけで私を振り向いた。
「……なにが?」
「ごめん」
「何に対して謝ってるんだよ」
 固い声は怒りを含まず、呆れも感じさせない。あまりにもフラットで、それなのに感情がないような響きではなく、不思議とみぞおちのあたりがぼんやりと温かくなった。
「私、レオに優しくされる資格なんて、最初からなかった」
 一度ぱちりと両目を瞑ったレオがその双眸を開いた時、その表情は、これまでに私が見た事のないほど、怒りを湛えていた。

 叶わない恋をした。否、叶わないのに思いが通じあってしまった恋をした。
 どうせ叶わないのなら、最初から通じるものがひとつもないほうが、ずっとマシだった。

* * *

「なあ、抱いてもいい?」
 陽の当たる場所を二人で歩いた。眺めた海はあの頃とは全く違う海なのに、隣にこいつがいるだけで心はいつでも夢ノ咲に戻ってしまう気がした。戻れるなら戻りたい。そう思うから余計に、きらめく水面が胸を突く。
"夢ノ咲で自分がしなければいけなかったこと、そして言わなければいけなかったこと"それを取り戻すことはできない。今からではきっと遅いけど、それでも何もしないよりずっとマシだ。

 日に焼けた首筋がヒリヒリした。夕飯を食べ終わり、風にあたるために開け放した窓を閉めてすぐ、二組並んだ布団の上で天井を見上げて口を開いた。雑談のような滑らかさで溢れ出た言葉に、隣でほんの少し身の置き所のない心細さを感じさせる"妻"が、静かに顔を上げた。
「……いいよ」
 そっと手を伸ばして、人差し指でその頬に触れた。ちょっとだけ震えた。いつでもきれいに手入れされている唇に、角度をつけた自分の唇を押し付けた。
 おれに必要なものがめいっぱいに詰まった柔らかい肢体に触れた。指先が、張り詰めた皮膚にゆるく沈んだ。外からは、波の音が絶え間なく室内に侵入していた。波の音、粘着質な水音、皮膚がぶつかる音、二人分の息遣い。頭がおかしくなりそうなほど、静かな夜だった。

 そんな昨晩を思い出す。"妻"の「ごめん」の意味はわからない。最初からおれに優しくされる資格がなかったのだと言う。ひどく扱ってきた。ひどく抱いてきた。相手の意思の確認もせず、自分のことだけを大切にしてきた。それを、その事をおれは後悔してる。後悔してるからこそ、"妻"のその言葉にまず最初に、怒りが込み上げた。
 水平線を朝日が照らしていく。波間は昨日と変わらずきらめいている。
 昨晩のおれの怒りは、"妻"に向けたものじゃない。なんとなくやり直そうと、やり直せるんだと思っていた自分の浅はかさにこそ、苛立った。そのことに気づいても、おれにはどうしたらいいのかわからない。そのことが何よりも辛い。
 セナにはどんな風に呼びかけた? セナにはどんな表情を見せた? セナにはどんな風に触れた? セナに触れられた時、どんな気持ちだった? そう、ずっと考えないようにしていた疑問ばかりが、堰を切ったように溢れだしてくる。心臓が痛い。呼吸が浅くなる。──おれとの結婚を選んだのは、今もなお選んでいるのは、なんでだ。



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