六:ガラス


 心臓が痛むのは何故だろう。

 昨晩、レオは泣きそうに笑ったあと、私に一切触れなかった。入浴を勧めたレオは、私からそっと距離をとって、ご丁寧にくっつけられた二組の布団を離した。畳の青い匂いがあたりに充満していて、息苦しかった。襖と天井と畳を淡く照らす和紙の間接照明が、布団を離すレオの体の影を作った。

 青空の下、隣でぼんやりと寄せては引く波しぶきを見つめるレオを横目に、私はそんな昨晩のことを思い出す。
「……レオ、喉渇かない?」
「ん? ん〜、おれはいいや。買ってきたら? 」
 レオはいつも通りに私を見る。そして笑う。それでも、私に触れようとしない。
「飲んで」
 客室を出る時に冷蔵庫から取り出してきた飲みさしのペットボトルをバッグから出し、半ば押し付けるように手渡した。びっくりした顔のレオが、なすがままといった様子で力なくボトルを掴む。中でミネラルウォーターが揺れてきらめいた。レオの表情が瞬間的に暗くなる。

 今朝、レオは "ぐっすり寝ました" という風を過剰に演出して、豪勢な朝食を口に運んでいた。何品も並べられたバランスの良い献立は、季節の食材が色とりどりに、目にも美しかった。ガラスの向こうからは眩しい陽光が降り注ぎ、波に反射してきらきらと輝いていた。『今日おれその辺散歩してくるから、エステでも行ってる? 』と、レオは言った。何気ないふうの響き──何気ないふうを装った──そんな声音だった。『そうしようかな』と言えればよかった。前までの私なら言えた。それなのに、唇からは『一緒に行く』と、それだけがとても滑らかに転がり出た。
 昨晩、レオの頬を両手で包んだあの温度を思う。しっとりとしていて、冷たかった。体温の高いレオからは、そう、たしかに普段の熱さを感じられなかった。頬を包んだ手に重ねられたレオの手は震えていた。不器用で、いつも爪を短く切りすぎるレオの指先。重ねられたレオの指先は、私の左手の薬指を確かめるように撫でた。その時にようやく、レオが私の指輪を見つめるのも、恐らく指に触れたのも、指輪を撫でたのも、無意識だったと思い知った。レオがあまりにも心細げな、迷子の眼差しをさ迷わせたから。

──私は、この人のそばにいなければいけなかった。この人のそばにいたいと自発的に望んだわけではなかった。
 ……ほんとうに?
 海を眺めるレオが何を考えているのかはわからないけれど、少なくとも私は、今の自分を信じられないまま、嫌な鼓動を刻む心臓を抱えこんでいる。昨晩、レオの手が私に触れたあの時、私は瀬名先輩の手を瞬時に思い出せなかった。

* * *

 触れたい、触れたくない、そのどちらも、いまの自分の心情としてはあまり正しくない。正確な言葉が思いつかないまま、何気なく海を眺めている。整備されたばかりと思しき、真新しい防波堤越しの広大な碧。サーフィンに興じる人影が、波間に現れては消える。人が人を呼ぶを声、寄せては引いていく波の音、サーフボードから滑り落ちた人が波間に落ちる音、そして時々隣から、詰まった息を吐く気配を感じる。

 自分の感情を正確な言葉にすることはあまりにも難しい。昔からそうだ。それでも昔よりマシになったはずのおれでも、さすがに見つからない言葉を口にすることは出来ない。触れたい、触れたくない。どちらも正しくないけど、どちらも正しい。
 今日、本当は観光地に向かうつもりだった。評判の良い観光地で、楽しげな見知らぬ人々の往来に身を置きながら辺りを見渡していれば、きっとインスピレーションが降りてくる。それでもいま、おれは、おれたちは旅館からほど近い海沿いの道をあてどなく散歩している。波の音が近くなっていく中、時々ふと、右隣を歩く "妻" の左手を盗み見た。その薬指には確かに揃いの指輪があって、これまで何度目かわからない安堵を覚えた。

 受け取ったミネラルウォーターのペットボトルのキャップを捻る。ミネラルウォーターを好んで飲む人物の姿が脳裏によぎった。スポーツドリンクなんか砂糖まみれの飲み物を飲みたくないと言うその人物の影が、いつでも記憶にちらつく。同じ場所にいた。待っていてくれた。同じ道の途中にいた。同じところを目指した。──つけたはずの決着が、未だに胸を焦がし続けている。あの時「ありがとう」と言ったセナの顔を、おれは思い出せない。
「……レオ? 」
「ん、……わるい」
 ミネラルウォーターを二口か三口程度飲み込んで、手の甲で口の端を擦った。キャップを閉めてからボトルを返す。それを躊躇いなく受け取った "妻" が、海風に吹かれて揺れる髪の毛をそっと押さえた。その光景に、自然と体の横で拳を握った。遠い眼差しで水平線を見つめる瞳からは何の感情も感じとれないのに、その目に映る金波銀波だけは、これまで紡ぎ続けていた音楽によく似て、懐かしさと恋しさと焦燥と憧憬──あらゆる感情のすべてを感じさせた。
 きっと、いまこの手に握りたかったのは拳ではなかった。握ったままの拳を横目に見下ろして、息を吐く。唐突に胸の奥に寄せてきた感情を、一つずつ拾い上げる。波の音の中、心の中に一つ浮かんだのは、"夢ノ咲で自分が間違えたこと" ではなく、"夢ノ咲で自分がしなければいけなかったこと、そして言わなければいけなかったこと" だった。おそらく、それが唯一の正答なのだろう。もっと早くに自分で気づかなければならなかったその事実を、懐かしい潮風の手触りと匂い、波の音、それらを受け取った五感がようやく、パズルのピースを作り上げるように補った。



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