五:海

 何度も何度も脳裏に巡る。繰り返し、「レオと夫婦をやり直す」という決意と「それでも瀬名先輩を諦めきれない」という欲が交互に頭をもたげる。覚悟を決めて決意したはずのことが、思考の中で何度も翻意されていく。中途半端な自分に嫌気がさす。それでも、どうしてもふとした瞬間に頭に浮かんでしまう。瀬名先輩の瞳の色、肌の温度、柔らかい声音、そして──レオとは違う、纏う穏やかで甘やかな空気を。

「今日はこの後どうするの? 」
 誘われるままに入った客室の露天風呂のヒノキの浴槽で、レオを見ずに言った。小ぶりなサイズの浴槽の中では、二人の足が時折ぶつかる。眼下の海を眺められる位置の露天風呂から、その水平線と、太陽光を反射してキラキラする波間と、サーフィンに興じる小さな人影をぼんやりと見つめている。ひとしきり「なんかぬるぬるする」と温泉にはしゃいだレオも同様に、浴槽に肘をついて海を眺めている。
「観光スポットは明日行こう」
 まるで独り言のような響きが、間髪入れずに返ってきた。堂々巡りの思考から逃れるようにどうでもいい事を考える。レオは観光地にさほど興味がないと私自身は思っている。けれど実際、レオは観光スポットに足を運ぶことがある。本人は「観光スポットとして人気な理由は、他に行く場所がないからか、本当に魅力があるかの二つだろ。自分の目で見て感じたい」と言っていた。そのことからもわかる通り、レオは様々なことを受容して割り切って大人になった。では、私は?
「うん」
 チリチリとした視線を感じて、思わず浴槽の縁に添えていた左手を温泉の中へと入れた。その手でさりげなく、膝あたりを撫でる。レオが、穴があきそうなほどに見つめるのは私の左手の薬指だ。やり直してみようと決めたその日から嵌めている指輪は、私にとって決して幸福な証明ではない。これは戒めだ。
 水面から出たむき出しの肩を海風が撫でて、身震いした。

* * *

 あの日に、まるで初めて抱き合ったみたいに "妻" の肌に触れた夜を思い出す。その肌は張り詰めていて、おれが触れようとする度に強ばっていた。恐らくはこれまでの自分勝手な抱き方が、その眼差しと体を恐怖で固くさせた。ゆっくり、縺れてどうにもならなくなった糸を丹念に解くように、その体に触れたあの夜だ。「いやだったら言って」と、「そしたらちゃんとやめるから」と、そんな言葉が自然と、口をついて転がり出てきた。そんな静かで、熱くて、穏やかな夜を思い出す。

「浴衣の下ってこういうの着るもんなの?」
 糊のきいたシーツとカバーの布団の上、おれの下にいる "妻" の、そのむき出しの肩に指先で触れながら言った。なるべく強く響かないように気をつけた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「肌寒いから」
 備え付けの薄い浴衣も糊がきいている。その細い帯を解いてあらわにしようとした肌は、ぴたりとしたインナーに隠されていた。その胸のあたりにそっと指先を添える。指先が伝える感触は生身の膨らみではない。
「……これ、捲りあげて脱がせばいい? 」
 何気なく訊ねてみる。他意はなかった。締め切った部屋の中で、源泉が浴槽に落ちる音と波のさざめく音が響いている。
「……脱ぐよ」
 感情を意図的に押し殺したような、抑揚のない小さな声が響いた。引いていく波と一緒に攫われていくように消えた声に、上半身を起こそうとしたその体を思わず制止した。
「………」
 何も言えなかった。何を言っても、何をしても、全てが裏目に出ている気がする。そんなことに今更気づいて──本当はずっと気づいていて、両手でその肩を再び布団の上に押し付けた。顎が痛んでからようやく、自分が奥歯を噛み締めていたことに気づいた。
「……やっぱやめよ。明日もあるしな」
 乱れた布団の上に崩れた浴衣姿の "妻" という光景はそれなりに扇情的に映る。けれどどうしても、なぜだかその体を抱きたいという気持ちが萎んでいくのを感じる。これまで、セナと不倫してたと知った後だって抱くことはできた。抱きたいという気持ちが消えることはなかった。あの夜、確かに二人で、この先を一緒に生きていけると思えたからだ。
 布団の上に仰向けになったままの "妻" は、訝しげな眼差しに、安堵と焦燥と不安感を目いっぱいに詰め込んででたらめにかき混ぜたような、不穏な感情をまざまざと浮かべている。
「風呂、もう一回入ってきたら?」
 "今度は一人で" 言外でそう告げる。なるべく優しく、なるべく責める響きにならないよう、なるべく穏やかに、いつも通り口角を上げて微笑む。これで合ってる。あってるだろう?
「……レオ、なんでそんな、泣きそうなの」
 ゆっくりと体を起こした"妻" が、両の手でそっとおれの頬を挟んで包んだ。
 これだけでいい。これだけが欲しい。その手に自分の手を重ねて、喉奥まででかかったその祈りを飲み込む。吐露してしまうには絶好の機会だったはずなのに、それでもおれはやっぱり、「運転したから疲れたのかも」と笑った。


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