四:晴れ間

 旅館の一室に案内され、荷物を置いて座布団に座った。仲居さんが用意してくれたお茶を飲みながら、ぼんやりとガラスと障子戸に隔てられた露天風呂を眺めた。
「お部屋の露天風呂はいつでも入っていただけますよ」
 私の視線に気づいたらしい仲居さんが、お茶菓子をレオと私のそれぞれ前に配膳しながらにこやかに言う。
「これ飲んだら入ろっかな〜」
 上機嫌のレオが、車の運転の疲れを一切感じさせない声で、淹れたての日本茶を啜りながら言った。そうして、お茶菓子を一口で口の中に放り込んだ。

 道中からぼんやりと考えていた。まだ胸の奥に燻ってチリチリと火種を残しているこの感情の正体について、もうどうすることも出来ない焦燥感がないまぜになっている。レオと二人きりになるのは緊張する。心臓が普段よりも大きい音で、死期を早めそうな程の速度で鼓動する。座った座布団の丁度背後に位置する場所に置いた真新しい旅行用のバッグを、なるべく視界に入れないように室内に視線をやった。
 車の助手席から見た運転席、運転手越しに見る窓の外。旅館の一室で向かいに座るひと。この相手が例えば瀬名先輩で、そうだとしたらその相手はこれからはきっと私じゃない。そんな当たり前のことを、ぼんやりと考えている。叶ったかもしれない、ある意味では叶ってしまった初恋が、未だに私の身を焦がし続けている。そんなことに、今更打ちのめされる。諦め切れなかったからこそ焦がすことのなかった感情が、ここにきて私を追い詰めていく。失恋の痛みは、こんなに辛いものだっただろうか。

*

 向かい側に座って静かにお茶を飲む妻が、仲居さんに話しかけられる度に曖昧な笑みを浮かべている。その背後にある真新しい旅行カバンは、おれの機嫌を殊更良くさせた。
 再構築を目指すなら、まっさらなとこから始めた方がわかりやすいだろ? もちろんそんなことは口に出さなかったけど、旅行を一週間後に控えた休日に「旅行に必要なもの買いに行くぞ〜」と声をかけたおれに、妻は「そうだね。うん、バッグも買わなきゃ」と返事を寄越した。たぶん、あの旅行カバンの話題はそれだけ。ちょっとだけ湧いてきたイタズラ心がゴムをひとつ、真新しい旅行カバンの奥に潜ませるアイデアを思いついたけど、流石にそれは実行に移さなかった。
「レオ?」
 呼び掛けにふと顔を上げたら、仲居さんはすでに室内にいなかった。物音を立てない術を身につけているのか、おれがぼんやりし過ぎたせいか。たぶん、どっちも。二人きりになった室内で、妻の顔を見つめて笑う。
「なあ、一緒に温泉入ろ」
 やっぱり妻は、曖昧に笑うばかりだ。感情の読み取れないその表情でも、目の前の人物の左手の薬指にはおれと揃いの指輪がある。いつも通りきれいに整えられた指先とのコントラストがあまりにも完璧だったから、一葉の写真に収めておきたい気分になる。視線に気づいたらしい妻が、ごく自然な動作でさりげなく、右手で左手の甲を隠した。




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