4:子守唄を知らない

 呪術師はいつだって人手不足である。それは高専生にとっても共通の認識だから、一週間程度まともに高専校舎にいないことも、数日寮に帰れないことも、クラスメイトと顔を合わせないことも、さほど特別なこととは思わない。それぞれがそれぞれの成すべきことをして、僅かに空いた時間には誰ともなく、スマートフォンでメッセージアプリを起動して一つ二つのメッセージを送る程度の事柄だ。それは他愛もない、和やかなやり取りだ。余計な心配を掛けないこと、互いが互いを気遣い、長々としたやり取りをせずに済む話題を選ぶこと。それらを全員が自覚的に実践した結果、そのやり取りは毒にも薬にもならないような、取り繕った和やかさの象徴となった。けれど意味はある。全員が全員の生存を確認するという、ただそれだけの、そしてそれ以上ない大きな意味が。
 高専二年生がそれぞれ別の任務に派遣されて六日が経過した。ツーマンセルやスリーマンセルの相手が入れ変わることはあったが、基本的にみんなが出ずっぱりになり、まともに顔を合わせて話す機会もほぼなく、活動時間がズレているためにメッセージのやり取りですら入れ違う。みんながそうやって過ごす中、なまえはやはり眠れない日々を過ごしていたし、棘は前までと同じく、呪霊以外には呪言を使わない日々を送っていた。
 任務続きの日々もあと一日だ。それが終われば、またちらほらと全員が高専で顔を合わせることになる。



  その日は曇天だった。空を灰色の雲が覆い、空気は湿り、道行く人々がちらちらと頭上を気にして、そしてその人たちの手には大体傘があった。そんな日に、棘と真希となまえは三人で任務に赴いた。現場は少子化の煽りを受けて閉校して久しい廃学校だった。三人でそれぞれ持ち回りを決め、非常口から校内に入るなり、散開した。
 任務の結果として、呪霊は全て祓った。ただし真希は右の前腕を折られ右腹部は抉れ、棘は額と喉から血を流した上に左大腿部の筋肉が視認できるほどに損傷し、なまえは左肩を折られ、また肋骨の一部が露出する大怪我を負った。当然、任務の後には硝子の元、反転術式によって全員が五体満足で復帰した。
 それが、なまえが眠れなくなった、まさにその日の出来事だ。



 高専の校舎に素っ気ないチャイムの音が響く。五条は二年の教室に入るなり、全体を見渡して朗らかに、いつもの軽い調子で笑った。
「みんな忙しかったね〜! 久しぶり! 」
 教室内はとても静かだ。連日の任務にやっと一区切りついた面々が、うんざりした顔で五条に視線をやってからため息を吐いた。
 その中に、棘となまえもいた。再び全員が揃った教室内で、棘はなまえのことだけを見ている。真希も今朝はなまえの顔を見るなりギョッとしたし、憂太とパンダは帰寮を勧めた。なまえはやはり、この一週間もまともに眠れていない。それがパッと見ただけで十分にわかる風貌だったのだ。目の下のくま、ガサガサの肌、パサついた髪、カサカサの唇、重そうな瞼、ニコリともしない口元からは、まともな言語も出てこず、呼吸すら面倒というような有様。なまえは全てにおいて億劫そうな、けだるそうな、重い空気を背負っていた。誰もいつものような軽口の応酬をしないために、自然と、教室内の空気も重くなる。
 五条が「ちょっと硝子呼んでこよっか」と片眉を下げ、後ろ手に頭を掻きながら教室を出た直後、棘は席を立った。教室内の空気が重く張り詰めて、居心地が悪い。棘が呪霊以外に呪言を使わなかった一週間は、棘にとってはさほど意味を持たない。これまでと同じ日常だ。けれどなまえにとってこの一週間はどれだけ長かったのか。棘はなまえの席まで寄ると、何の予兆もなく、その耳にかかる髪の房をそっと耳にかけてやった。なまえが僅かに擽ったそうに身動ぎする。それでも何を言うでもなく、生気のない眼差しで棘を見上げる。棘はとうとう、襟元のファスナーを下ろし、そしてなまえの耳元に唇を近づけた。それは触れるほどの近さで、見守っているばかりの憂太が少し顔を赤くした。
「──ねむれ──」
 ふ、と糸が切れるように机の上に伏せたなまえ。その表情が穏やかであるのと対照的に、棘の表情は焦燥とあらゆる自己嫌悪を綯い交ぜにした、絶望的な表情をしている。

「あれ、棘呪言使っちゃった? 」
 すっかり寝入っているなまえと、絶望の表情を浮かべる棘、その二人を見つめる憂太、パンダ、真希、それぞれを教室に戻ってきた五条が見渡してから、からっとした調子で言った。硝子を伴っていないところを見るに、見つからなかったか、棘が呪言を使うと予想していたか、硝子に断られたか、大体そんな所だろう。
 恐ろしいものを目にしたような眼差しの棘を、五条は責めない。責めず、息を吐いてから棘に着席を促した。五条は既に、大方当たりをつけている。教室内の面々が当たり前の日常の中で当たり前に置いてきた、あるいは忘れたこと。五条が教卓の前に立って、みんなに語りかけた。まるで教師のように。
「ここにいるヤツらはみんなイカれてる。褒めてるんだよ。イカれてないとやってらんないしね」
 切り口上としては些か問題がありそうな出だしだが、全員がその声に耳を傾ける。核心を探る眼差しを五条に向けながら、また、寝入っているなまえの姿を横目に見る。
「でもなまえはちょっと違う。ちゃんとイカれてるけど、繊細なんだね。あの子、憂太と棘がいない時、真希に "置いていかないで" って言って泣いちゃったんだ」
 "置いていかないで" その言葉の真意が未だにわからずにいるパンダと真希が、自然と顔を見合せた。校内がやけに静かで、不気味ですらある。
 一方、その場にいなかった憂太と棘も、自然と顔を見合せた。泣くほどになまえが怖がったものは一体何だったのか。憂太は首を傾げるばかりだが、棘の頭には、ひとつの可能性が浮かんだ。
「なまえが寝れなくなった日に何があったか、知ってるでしょ」
 五条の問いかけに、真希が事実のみを返答する。
「私となまえと棘で任務だった」
 満足気に頷いた五条が、再び、今度は指を顎に当てる仕草で続ける。
「それで? 三人は──というか、棘と真希は、どうなった? 」
「どうって、全員大怪我したぐらいだろ」
 そこまで行き着いてようやく、棘が長い長い息を吐いた。脳裏に浮かんでいたたった一つ、その答え合わせが行われたのだ。棘の予想が正しかったことが、この場で証明された。勿論口に出していないから、誰もその事には気づかない。棘は霧が晴れるような心持ちになったが、霧が晴れてもなお、心臓が締め付けられるような心地になって、やっぱりなまえに視線をやった。
「なまえが泣いちゃって、そん時にようやくわかった。なまえが怖いのは、呪霊でも、戦うことでも、自分が死ぬ事でもないんだろうね。みんながいなくなることだったんだよ」
 教室内で自席に座る全員が、短い息を吐いて、唇を引き結んだ。なまえの気持ちはそれぞれがよく理解出来ることだ。家のせいで、成り立ちのせいで、あるいは自分の背負う呪いのせいで、もしくは自分自身が持つ能力のせいで、他者との触れ合いや笑って日々を過ごすことを制限されてきた人間の集まりだ。ようやく行き着いた先で、ようやく出会えた仲間たち。その重さが全員にのしかかる。これだけは失いたくない、と祈る気持ちをなまえが自覚的になったとしても、それは誰も責められやしないのだ。
「まあ、だからたぶん夜の暗闇、静かな中で一人ぼっちになると怖くなっちゃう。かわいいねえ」
 誰も、何も言わなかった。五条のいつものからかうような口調でも、その声が優しかったからだ。
「と、いうわけで。みんなは今、なまえに何をしてあげたい? 」
 全員が、寝息を立てるなまえの方へ視線をやった。そこにあるのは、みんなが当たり前に割り切ったもの、切り捨てたもの、置いてきたもの、あるいは忘れてきたもの、それらが目いっぱいに詰まった、いじらしい同級生の姿だ。


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