3:星に手を伸ばす

「憂太は新宿、棘はちょっと山梨まで行っといで。真希はなまえと今から近所の廃病院ね」
 その日、午後になってから五条が高専二年生に向かって任務の指示を出した。サイズの大きいパンダはその見た目故に外での任務はそう多くない。寂しくも普段通りの一日を過ごすだろう。指示を受けた面々は、慣れた様子で各々用意を始める。憂太と棘がそれぞれ刀と拡声器を用意している中、真希となまえは二人で話し合いを始めた。
 すっかり目の下のくまが和らいだなまえは、既に棘による呪言の効果を甘受し始めてから四日が経過している。前までと同じく朗らかで、少しうっかりして、呪霊を祓うことにも支障なく、起床にも身体的にも特に異変は見られない。今回の任務は、なまえのその様子に僅かに全員の気が緩んでいるまさにその時期の指示だった。
 忙しそうな素振りの五条が「あとは各々で! 」とだけ言い残して教室を後にする。それと同時に、ようやく棘はあることに思い至ってなまえの方を見た。その視線に気がついた憂太が、棘の懸念を正確に汲み取って、なまえに声にかける。
「なまえさん、狗巻君今日帰れないと思うけど大丈夫? 」
 棘の任務は山梨だ。これからすぐに出て渋滞がないとしても、片道約二時間はかかる。それからすぐに任務を開始出来ればいいが、呪霊の出現時間が遅い時間であれば当然、今日中に高専に戻ってくることは出来ない。まだ任務の詳細情報を得ていない中では、早めに事実を認識しておく必要があるだろう。憂太の言わんとしていることはその場で直ぐに全員が把握した。
 一方の真希となまえは、近所の廃病院。今からという指示のとおりに向かい、上手くいけば数時間で終わるだろう。
 棘が心配げになまえを見つめている。
「大丈夫だよ。もしかしたらそろそろ眠れるかもしれないし、寝れなくても一晩くらい大丈夫! 」
 なまえがほんの僅かに固さを持った、わざとらしい大きな声で言って笑顔を見せた。その場にいる四人を安心させるような明るさだ。事実、四人は素直に安堵した表情を浮かべた。このまま一人で眠れるようになればそれは僥倖だ。それでも、眠れなくてもたった一晩のこと。翌日の眠気はあれど徹夜くらいはしたことのある面々が、無意識に強ばっていた体の緊張を解いた。



 さて、任務だ。
 棘は補助監督の運転する車で山梨に入った。道中ドラッグストアに寄ってもらい、のど薬をいくつか補充するのも忘れなかった。時刻はまもなく十七時半になる。
 呪霊の出現時刻は二十三時以降だという。任務の詳細を知った時、棘は息を吐いた。なまえに、それから四人と、共通認識を持っておいてよかった、そう思う。今夜はなまえに呪言を使わなくてもいい。ほかの誰にも言えなかったが、棘は確かに安堵していた。呪うつもりのない人間を呪ってしまった過去を思えば、棘が大事なクラスメイトに呪言を使いたがるわけはないのだ。それでもその優しさゆえに、今棘はなまえに呪いをかけている。正しいのか間違っているのか、棘にはよく分からない。けれど棘はやはり思う。使わなくていいのなら使いたくない、と。

「そろそろですかね」
「しゃけ」
 車が山梨に入った時、任務開始まではまだ時間があった。その為に補助監督と二人、適当なレストランで食事を摂り、その後は現場付近で待機を続けていた。周囲には鬱蒼とした茂みが広がっている。むせ返る土の匂いと、木々や葉の青臭い匂いに包まれている。風は木々に阻まれ、街の喧騒は聞こえない。空気は冷たく、空に星々が美しく煌めいている。
 棘は一人で車から降り、現場へと足を進めながらスマートフォンで時間を確認する。雨が降ったのだろうか、土は水分を含んで、棘の足元を僅かに動きづらくさせる。時刻はまもなく二十二時五十分。ふと、棘はスマートフォンで発信履歴を表示させた。なまえの名前をタップしようと、指先がピクリと動いた。呪いたくはない。けれど、と。棘の脳裏に浮かぶのは、目の下に色濃いくまを作ってぼんやりと、力なく笑うなまえだ。普段手入れを欠かさない唇がカサカサになって、生気の感じられない顔色をしていたその姿を、棘は振り払えない。時計が二十二時五十三分を示した。
『──もしもし?! 』
 棘はとうとう、発信履歴のなまえの名前をタップしてしまった。呼出音が鳴り始めて割とすぐ、向こうからなまえの声が耳に届く。明らかに狼狽した風ななまえの声に、無自覚に棘の口元が小さく弧を描く。
「こんぶ、ツナマヨ明太子」
 棘は、クラスメイトを呪いたくはない。けれどやっぱり、明らかに本調子とは言えないクラスメイトを見ているしかできないのは辛く、自分がその助けになるのなら、と心を奮い立たせる。その結果、棘は自発的に電話の向こうに指示をした。"部屋にいるならすぐにベッドに入って" と、端的に。その思惑はすぐ、正確になまえの脳に届く。
『わかった』
 向こう側から慌ただしい音が聞こえる。棘はそっと耳を澄ませた。床を走る音、何かを移動させる音、窓を閉める音、それから、ベッドが軋む音。
『いいよ。もう大丈夫』
 電話の向こう、なまえが明瞭な声で言う。そして小さく『ごめんね、ありがとう』と付け足す。
 時刻はもう二十三時になる。棘は耳に当てたスマートフォンを持つ手に力を込めて、冷たい息を吸った。
「──眠れ──」
 それきり、電話の前と同じ静寂が辺りを包み込んだ。棘は通話音量を上げて、妙に祈るような気持ちで向こう側の音声にじっと聴き入る。向こう側から、穏やかな、規則的な寝息が聞こえて、棘はなぜだか泣きたいほどに安堵した。そしてスマートフォンをポケットに入れ、暗闇の中、口元をすっぽり隠す制服のその襟の中で笑った。



「……なまえ? 」
「おはよう」
 翌朝、未だ念の為に起床確認を担っている真希がなまえの部屋に入った時、なまえは既に全ての用意を終えているところだった。一方の真希はいつも通りに寝起きのままの着衣だ。
「どうした? やっぱ寝れなかったか? 」
 なまえは首を横に振って、それから少し困ったように微笑む。
 きちんと整えられたベッド、寝癖を治した髪の毛、黒い制服、黒いタイツ、そして手にはスマートフォン。なまえはだるそうな気配もなく、真希を真っ直ぐに見つめたまま、その唇を開いた。
「夜ね、棘が電話くれたよ」
「……棘任務だったろ」
「うん……、任務のたぶん直前に」
「そうか……」
 棘の真意を図りかねる様子で、真希がなまえの元へと近寄った。そっと、その指先でなまえの頬に触れ、それから手のひらを額に当てる。多寡はあれど自分にはさほどに備わっていないと思っていた庇護欲がそうさせたわけだが、真希自身がそれを信じられない気持ちになって、思わずその額を中指を使って弾いた。なまえは思いもよらない攻撃に驚いた表情をしながら、短く悲鳴をあげた。
「先に行ってる……」 
「おう」
 額を擦りながら、ちょっとだけ恨めしそうな目で真希を見つめるなまえが、リュックを持って立ち上がる。その様が妙におかしくなって、真希は笑いをこらえるように視線を背けた。
 そうか、棘がねぇ、と真希は心中で一人ごちる。仲間に呪言を使いたくないと、頑ななまでに常に口元を隠す棘だ。高専内なら隠さなくても特段問題は無いのに、常に隠していたのは恐らく自分への戒めのためだろう。その棘が、自分の意思でなまえに呪言を使った。その優しさはたっぷりの危うさを内包しているが、結果なまえは眠れて、そして今朝は自分で起きた。その事が、どうにも真希を幸福な気分にさせる。
 けれど、全員が高専の教室に集まってすぐ、思わぬ形でなまえの感情の発露を目にすることになる。

 朝礼が終わっても、棘は戻ってこなかった。任務が長引いたのかどこかで睡眠を取ってから移動するのか、憂太もパンダも真希もなまえも、棘の状態がわからないままに普段通りの一日を始めている。便りがないのは良い便り。この場にふさわしい用途の言葉かは置いておいて、四人ともが特別気にする事はなかった。──気にする事がないように見えた。何かあれば教師の誰かから何かしらの通達があるだろう。それもない朝だ。だからこそ、四人は、──三人は、比較的穏やかな気持ちで授業の用意をして、思い思いに過ごしている。五条が教室に入ってきても尚、それは変わらなかった。しかし五条は聡く、なまえの様子に首を傾げた。
 授業前にトイレにと、真希が席を立ち、その足を踏み出そうとしたその瞬間だった。スマートフォンの画面を見つめたり窓の外に視線をやったりしていたなまえが、不意に、弾かれたように顔を上げた。
「やだ! 置いてかないで! 」
 教室内に響いた、悲鳴にも似た声。任務で不在の棘を除いた、五条を含めた四人が、驚いてその声の主を見つめる。見つめられた先のなまえは悲痛に歪んだ顔をして、唇を噛んでいる。
「……どうした? なまえ、顔真っ白んなってんぞ」
 パンダが優しく言う。けれどなまえは、その目じりから涙をぽろぽろこぼすだけだった。
「なまえ、今日は寮に戻んな。後で硝子にそっち行かせる」
 宥める響きではなく、固さのある五条の声が、なまえに向けられる。その真意を図りかねた様子で、けれどなまえは小さく頷いてからリュックを取り、教室の扉へと足早に急ぐ。なまえの背後、五条がまだ驚いたままどうするべきか迷っている様子の三人に、雑談のような声音で問いかけた。
「なまえが寝れなくなる前、何があったかみんなわかる? 」
 五条は聡く、勘がいい。それもまた最強の所以だろう。状況把握は的確であるべきだ。けれど問いかけられた三人は、一様に首を傾げるばかり。ただ一人、なまえだけは、五条を振り返って傷ついた表情をしている。

「とりあえず今夜は呪言なしで眠れるかどうか試してみようか」
 寮のなまえの部屋で、硝子はそう告げた。窓の外はすっかり夕方だ。橙の夕日が室内を照らす中で、硝子は室内をぐるりと見渡したあと、ため息を吐いた。
 生来の性質がそうさせる部分も大いにあれど、室内があまりにも整頓されている。無駄なものはない。呪術に関わる者の中には、明日の命が確約されていないことを理解して、いつ何があってもいいよう身の回りを整理整頓している者もある。けれど、硝子の知る限り、なまえにはそこまでの気質はないように思えた。となると、考えうる可能性としては単純だ。眠れない時間を持て余した結果、部屋の片付けしかすることがないのだ。
 なまえが泣きそうな顔で「はい」とだけ返事をした。ぎゅうと握られたなまえの手のその指先が白くて、硝子は冷たそうだな、とだけ、ぼんやり思った。
「狗巻には伝えておく」
 なまえが頷いたのを確認して、硝子はさっさと退去することにした。
 五条に聞いた限りでは、自分がしてやれることは無いことを知っている。対症療法として、例えば眠剤を処方することはできる。けれどそれは根本的な解決にはならない。立ち上がった硝子は、その手をなまえの頭に乗せて、片眉を下げた。高専には珍しいいじらしさだ、と、自分たちが制服を着ていた時分を思い出しながら、なまえに見えないように笑った。



 その夜、棘は寮の自室でスマートフォンの画面を見つめている。
 任務は朝方ようやく終わり、多少の怪我はあれど高専に戻れば硝子によってすぐに治る程度だった。約二十四時間起きていて、更には任務のおかげで体はくたくたで、帰路の途中にサービスエリアで仮眠を取った。仮眠のつもりだったが思いのほか長い時間寝入ってしまって、高専に戻ってきたのは十四時頃だ。硝子の元へ行き、それから教室に入ろうとした時に五条に引き止められた。曰く、今日はもう休んでいい、それから、今夜はなまえに呪言を使わなくていい、とその二つを告げられた。棘は曖昧に頷いてから、踵を返して寮へと向かった。そしてしばし惰眠を貪って、いま、時刻としては二十二時半、ふと目が覚めた。
 スマートフォンの画面には発信履歴が並んでいる。ここ数日なまえに電話した、その名前がずらりと並んでいる。そのどれもが二十二時五十分くらい。通話時間は五分から十分の間。何を話したか、なまえは何を言っていたか、電話の向こうのなまえの様子を想像してみる。
 結局、この夜は棘も寝付けなかった。


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