2:月に叢雲

 ノックもなく、真希は些か不安げな面持ちでその部屋の扉を開けた。

 まだ上がりきっていない太陽が眩しく朝を告げている。真希は自室で目覚め、とりあえず髪を結んで眼鏡をかけ、顔を洗い歯を磨いた。それから真っ直ぐになまえの部屋へと足を運んだ。昨日昼の話し合いにおいて、起床確認を買って出たのはなまえへの気遣いと棘への気遣いその両方からだ。真希自身、不安がないといえば嘘になる。けれど朝になって目が覚めた時、棘がなまえに呪言を使ったことを正しいことだった、と思うまでに考えが変わっていた。
 真希は昨晩、なまえのことや棘のことをよくよく考えて、心の霧が晴れない時間を過ごした。自分自身で今夜は眠れないかもしれないと脳裏を過るような、そんな夜だった。けれど蓋を開けてみればどうだろう。真希はすっかりベッドで寝こけた。朝になり、スマートフォンのアラームが起床時間──今朝はなまえを起こすために、平時より少し早い時間だ──を告げたと同時、少なくとも二日眠れていなかったなまえに対して、心配な気持ちが勝った。
 そうして真希はなるべく平静を装った表情で、なまえの部屋へと足を踏み入れた。

「朝だぞ」
 声をかけながら部屋に入り、ベッドへ向かった真希の目に飛び込んできたのは、ベッドの中で毛布と掛け布団を巻き込んで丸くなって眠るなまえの姿だった。
 眠れたのか、と安堵すると同時に、起きるのか、という不安が真希の胸に去来する。慎重になまえの肩に手を当てて、軽くゆさぶる。なまえは小さく唸ってから、瞼を重そうに持ち上げた。
「んう……真希? おはよ」
 真希はようやく、心底ホッとして思わず笑った。なまえはぐっすり眠れたようだし、きちんと目が覚めた。
「おう。どうだ? 体」
「昨日よりかなりいい」
 呪言による強制的な睡眠であっても、睡眠は睡眠だ。まともに眠れていなかったなまえにとっては僥倖だろう。真希は逸る心で、早く棘に知らせてやりたいと思う。
「そんじゃさっさと用意しろよ」
「うん、ありがと」
 感動の目覚めというわけでなし、真希はなまえの起床を確認するなり、すぐに退室した。もちろん、次に向かう先は棘の部屋だ。心做しか、真希の足取りは軽い。窓から差し込む太陽の光が、寮内の共用廊下に舞うホコリを煌めかせている。真希は眩しそうに目を細めてから、安堵によって思わずゆるんだ口元を意識的に引き締めた。
「おい、棘起きてるか」
「しゃけ〜」
「なまえ、起きたぞ。ちゃんと寝てた。そんだけ」
 扉をノックして、開けることはせずに声だけかける。中から、寝起きのかすれ声を無理やり張り上げた声が響く。きっと中で棘も安心しているだろう。

「おはよう〜! 」
 朝礼前のひと時、憂太と棘が教室で待ち受ける中、なまえは真希と一緒に教室へと入ってきた。昨日の重い足取りが嘘のように、普段通りに見えるなまえが明朗な声音で挨拶をする。
「おはよう。よく眠れたみたいだね」
「しゃけ! 」
 本当に何事も異変がないのか、今朝の真希からの報告に安堵しつつも拭いきれない不安を払拭するように、棘が椅子を立つ。つま先がなまえを向いたが、その足がなまえの元へ踏み出すことはなかった。なまえの方が小走りに、棘の席へと寄ったからだ。
「棘、本当にありがとう」
 情感をたっぷりと含ませた声だ。なまえは心底棘に感謝していることがよくわかる切実な眼差しを棘に向け、情けない顔で笑った。そのさまに棘の不安が僅か溶ける頃、ちょっと遅れてやってきたパンダが真っ直ぐになまえの元へと来て、その手に触れる。なまえがくすぐったさに笑い声をあげる。
「特に問題ねーみたいだな」
「うん。体が軽いの! 昨日より調子いい」
 棘がほっとしたのもつかの間、憂太が思案の仕草で教室内で提案した。
「ねえ、数日間続けてみるのはどうかな? 」
 その提案に一番に反応したのは棘だ。再び不安が胸を広がる。けれど棘自身でも驚くことに、さほど不快な気持ちはなかった。呪言を使って人を守ること、それはこれまで散々やってきた。けれど目の前の仲間が自分の呪言によって直接助けられて、お礼を言われるということ、それは棘に今までにない感情を連れてきた。
「……高菜、ツナマヨ……こんぶ」
 "何か少しでも異変を感じたらすぐに辞めること" 棘は沈黙を挟んで、それだけをはっきりと口にした。さすがに二度三度と頼んでいいものか悩んでいたなまえが歓喜を滲ませて、机の上の棘の拳に両手を添える。
「ありがとう。ごめんね」
 まだなまえの目の下からくまは消えていない。それでも昨日より大分元気そうだ。三人に見守られる中、棘が決意の表情で一度、はっきり頷いた。



 二十二時五十分。今日の約束も二十三時だ。棘はまだあと十分もあるというのに、入浴後の濡れた髪もそのままに、ベッドに触ってスマートフォンを手に持っている。色素の薄い髪の毛の先から水滴がほたりと肩に落ちる。そんな事は気にもとめず、棘は画面上の発信履歴を見つめている。その時だった。スマートフォンが低く震えて唸り始めた。なまえからの着信を告げる画面が、目の前で煌々としている。
「しゃけしゃけ」
『あ、もしもし? ごめんね、いま大丈夫だった? 』
「しゃけ」
 まだ約束の時間まで九分はある。少し早めに眠りたいということだろうか。棘はほんの少し思案してから、なまえの次の言葉を待つ。
『棘、今日の任務どうだった? 』
 しかし電話の向こうから聞こえたのは、棘を気遣う色の温かい言葉だった。予想とは違う言葉にちょっとだけ驚きながらも、棘は "問題なく終わった" と教えてやる。
 朝礼後、いくつかの授業を挟んでから、五条が棘に指示した任務は低級呪霊の群れの掃討だった。いつも通りに棘一人で充分に賄える任務。かくして夕方頃、棘は四人と別行動となった。寮に戻ったあとは顔を合わせていなかったから、なまえはどうにも気になったようだ。
『怪我は? 喉は大丈夫? 』
 心配する声が矢継ぎ早に鼓膜を震わせる。その心地良さに、思わず棘の口元がゆるい弧を描く。
「しゃけ、ツナマヨ」
 "怪我は小さいのだけだから何ともない、のど薬飲んだし平気" そういう意味のことを告げたら、なまえの声が明らかにほっとした響きで「よかった」と届く。
「こんぶ、高菜? 」
「私? 私は大丈夫。今日はずっと高専にいたし、体も平気」
 "そっちは? " 棘も尋ねる。まるで恋人同士が夜の短い合間に一日の出来事を報告し合うような甘さだ。棘はむず痒くなって、一度わざとらしい咳払いをした。
『そろそろ時間? 』
 咳払いを合図と勘違いしたのか、電話の向こうでごそごそと音がする。なまえがベッドに潜り込んで部屋の電気を消したのだとわかるまでに、約一分かかった。
『準備できたよ! 』
 棘は暗い部屋の中でベッドに潜り込んでスマートフォンを耳に当てているなまえを想像する。想像したその姿がまるで弟妹のごとく可愛らしく感じて、棘はまた、気づかれないように笑った。そして息を吸い込む。
「─眠れ─」
 今夜はスマートフォンが落ちる音はしなかった。何度か呼びかけてから返事のないことを確認して、ようやく、棘は終話ボタンをタップした。そして今夜も口にする。
「おやすみ」
 届かない言葉が、静寂に溶けた。


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