1:空の色は黒

「眠れないの」
「……高菜? 」
 目の下にクマを携え、体を引きずるようにして教室に現れたなまえを見るなり、教室内の四人──憂太、真希、パンダ、棘はぎょっとした。普段は割合朗らかな人物が、だらりとうなだれ教室に入るなり挨拶もせずに自分の机に向かい、そこに突っ伏す。パンダが訊ねた所によると、彼女はどうやら上手く寝付けないのだという。棘が "大丈夫? " という意味合いの声を心配そうに投げかけたが、彼女はうんともすんとも言わない。夜眠れない代わりに今から僅かな時間でも眠るのかと思いきや、彼女は突っ伏したまま低く唸るばかりだ。
「寝れねえっていつからだ? 」
 立った体勢で何やら談笑していた真希が、机に軽く寄りかかりながら聞く。腕を組んだ不遜な仕草で、それでも彼女を気遣う声で。彼女は顔を上げず、くぐもった声で返事を寄越した。
「一昨日くらい……。寝よう寝ようと思うのに全然寝付けなくて、寝返り打ってるうちに朝になってた」
 か細い声だ。ほか四人が顔を見合わせ、代わる代わるに彼女の元へと近寄り、その額に自分の手のひらを当てたり手首で脈を取ってみたりする。軽度の負傷程度は対処できるよう授業で学んだあれこれが役に立たない類のものだと全員が理解するまでには、少し時間がかかった。
「一昨日から任務続きだったし、気持ちが昂ってるのかもね」
 憂太が優しい声で言う。彼女はまたも返事をせず、みんなに持ち上げられた重い頭を再び机の上の自分の両腕へと収めた。朝の挨拶すら満足出来なかった四人は、またも顔を見合わせて、今度は心配げに彼女へ視線をやった。

 オーソドックスなチャイムが鳴る。朝礼が始まるその時刻、廊下からは踵を引きずるようなだらしない足音が響く。彼女はようやく自発的にのそりと頭を起こし、けれどその重さに耐えきれない様子で頬杖をつく。今朝も妙に高いテンションで教室に入ってきた五条が、室内をぐるりと見渡した後に彼女に目を止め、彼にしては珍しくも「なまえ? どうした? 」と比較的静かに問うた。彼女はまた同じことを口にする。
「一昨日から眠れないんです」
 たったそれだけを、無駄に長い説明をする気にもならない気だるげな振る舞いで、五条のことをちらとも見ずに、ぼんやりと。
「んー、……硝子ンとこ行ってみる? 休めそうなら寮戻ってもいいよ」
「そう、そうですね。そうします」
 普段よりも低く生気のない声、顔色は悪く、朝に似つかわしくない覇気のなさで彼女が返事をした。返事をしたものの、彼女は一向に席を立つ気配がない。教室内の全員が、ぼんやりと教室の角あたりに視線をやったままの彼女を見つめている。

 呪術師は万年人手不足だ。その中で貴重な人材を一人休ませるという判断の重さに、恐らく教室内の全員が気づいていた。彼女も気づくはずである。──普段の彼女なら、気づけたはずだ。けれど今はただぼんやりとした眼差しでどこかよくわからない方を見ている。
 とうとう痺れを切らした真希が席を立った。真希なりに彼女を心配して、その腕を取った。
「とりあえず寮に戻るぞ」
 彼女は億劫そうな緩慢な動作で真希に顔を向けると、ようやく一度小さく「うん」と返事した。

「なまえどう? 」
 真希が寮に彼女を送って教室に入るなり、五条が真希に訊ねた。真希は明らかに困った様子で後ろ手に頭を掻いて、ため息を吐いた。
「とりあえずベッドに転がしてきたけど、何度か体勢変えても寝る感じにはなってなかったな」
 眠れないというただそれだけのことがどれだけ心身に影響をもたらすのか。体力勝負でもある呪術師たちは、さほど睡眠問題に困ったことがない。勿論悩みがあって一晩くらい眠れないことはあっても、翌日にはしっかり眠気に襲われるし、任務があればその疲労によりぐっすりだ。それが、任務もあったこの数日間にも眠れなかったのだという彼女の深刻さを物語っている。



「……寝てるか? 」
 真希が寮の一室の扉に耳をくっつけている。
「物音は聞こえねえな」
 真希の頭上で、真希をすっぽりと覆うようにこれまた扉に耳をくっつけるパンダ。二人は目を見合わせると、そっと扉を開けた。
 正午を過ぎた頃、昼食も摂り終えた四人は誰ともなく寮の方角へ視線をやった。久々に全員が高専に居る貴重な日だ。しかしそこには一人足りない。最初に席を立ったのは真希だった。次いで棘、それから憂太とパンダ。四人はぞろぞろと寮へと向かった。昼休憩の終わりまではまだ時間があるし、最悪少しくらい遅れたところでどうにでもなるだろう。そして四人は代わる代わる扉に耳を当て、なまえが眠っているのかいないのかだけでも確認しようと試みている。
「……こんぶ? 」
 "寝てる?" という意味合いで室内に訊ねたが、寝ている人間はそも返事をしない。何故だかこういう時、先陣を切る羽目になるのは棘だ。恐らくいちばん小柄だからというのが最大の理由だろうが、それでも鍛えた男子である。張り詰めた筋肉がうっかり床を鳴らさないよう、細心の注意を払っているせいでふくらはぎが小刻みに震える。静かに開けた扉からそっと体をすり込ませる姿は、普段の身軽さなさやしなやかさとは異なるぎこちなさである。
 かくして女子の部屋に侵入した棘だが、扉からベッドは死角になっていてなまえの姿を視認することが出来ない。すり足で歩を進める棘の背後では、三人が開けた扉の隙間から雁首揃えて中の様子を見守っている。
「……棘? 」
「っしゃけ」
 ようやくベッドが視認できるまでたどり着いたところで、棘はあっさりと#nameに見つかった。正確には、枕を背もたれにしてぼんやりしていたなまえの視界に、自ら進んで入り込んだ。足元ばかりに気をとられていたせいで、また室内が想像以上に静かだったせいで、棘はなまえが寝ていないことに声をかけられるまで気づけなかった。
「見に来てくれたの。ありがとう」
 幾ばくかは眠れたのか、棘がそう尋ねるより先に、なまえはやはりうつろにぼんやりとした眼差しを向け、棘にふにゃふにゃの声を掛けた。棘がどう返答したものか思案している内、どうやらなまえが起きているらしいと気づいた三人が、扉からぞろぞろと室内に入った。他人の部屋だが、他人のようで他人ではないクラスメイトだ。なまえも特にそれを咎めたりせず、またふにゃふにゃの声で「みんなも」と出来損ないの笑顔を見せた。
「なまえ少しは寝れたか? 」
 勝手知ったるとばかりの客ではあるが、さすがに女子の体に触れるその先陣を切る男子はいない。真希がなまえの前髪をそっと払い、普段はなかなかお目にかかれない柔らかい物言いで聞く。なまえは困った表情で、首を二回、横に振る。そして、なまえはとうとう奥の手とばかりに棘に懇願の眼差しを向けた。
「棘、お願いがある」
 棘はそれだけでもう、何を言われるのかわかった。わかってしまった。一昨日からまともに眠れていないなまえが、自分にだけ向ける眼差し。その理由に、棘が一番最初に気づくのは道理だ。──棘なら、今すぐにでもなまえを眠らせることが出来る。
「お願い、今夜、私をねむらせて」
 棘はもちろん断ろうとした。必要に迫られていても、クラスメイトには、仲間には呪言を使いたくはない。けれど棘の目に見えるなまえの青白い顔の色や、目の下のくま、覇気のない声や、ぼんやりした眼差しが、棘の強い気持ちを揺らしている。
 見守る三人が顔を見合わせる。棘の気持ちもわかるし、想像が追いつかなくともなまえの気持ちもわからないでもないから、何も言えないのだ。眠れなくても死ぬことはない、そんなことは誰も言えないし、思っていない。人は呆気なく死ぬのだ。それでもやはり、棘に対して「やってやれよ」とは言えないし、なまえに対して「もう少し落ち着いたら眠れるんじゃないか」とは言えない。結果、三人ともが押し黙るという選択をした。
「棘、だめ? 」
 乾いてパサパサになったなまえの唇から、これでもかと悲壮感の篭った声が震えて零れる。
 とうとう、棘は小さく縦に頷いた。
「おかか、こんぶ」
「それでもいい」
 棘は一応念の為に、"呪言で眠ったとしても疲労が取れたりすっきりするとは限らない" と告げる。自分への保険でもある。なまえはその意図を正確に把握して、出来うる限りのはっきりした声で返事をした。
 二人を見守っていた内の憂太が、息を吐いて優しく言う。子供に言い聞かせるように、努めて穏やかな、低い落ち着く声だ。
「まずは今夜一度だけ、明日の様子を見て、それから今後のことを考えよう」
 なまえは情けなく微笑んで、「うん」と応える。まるで本当の幼子のような素直さと気弱さが、この場にいる四人の庇護欲をそこそこ掻き立てた。



 そわそわと落ち着かない心持ちでスマートフォンを手にする棘が、ベッドに深く腰かけて息を吐いた。画面にはなまえという名前と、その下に十一桁の数字が並んでいる。
 約束の時間は、今夜二十三時。二十三時までになまえはベッドに入って電話を待つ。それが、今日の昼に話し合って出た結論だった。棘の不安は大きくなるばかりだ。仲間に呪言を使うこと、それも懇願されてのこと。それでも棘は、残念ながら、とても優しい。部屋の時計が二十三時を示したのと同時、棘はスマートフォンで発信ボタンをタップした。
『もしもし、棘? 』
「しゃけ」
『……ごめんね。嫌だったでしょ』
 そしてなまえにも、棘の不安や精神状態を慮る気持ちは確かにある。自分のわがままに付き合わせてごめん、と、なまえは言外に含ませる。そう言われてしまえば、棘ももう逃げも隠れもできない。元より、棘だってこんなに弱ったなまえを見ていたくはないのだ。
「高菜」
『うん、大丈夫』
 棘が最後に念押しで確認した。"いい? " と、それだけ。なまえの返事を聞いて、棘は息を吸い込んだ。
「─眠れ─」
 棘が電話の向こうに耳を澄ませる。向こう側からバサッと、固いものが柔らかなものに落ちるような音がした。
「……しゃけ? 」
 呼びかけても返事はない。効いたようだ。棘はスマートフォンを耳から離し、終話ボタンをタップした。詰めていた息を長く、一気に吐き出した。
 どうか、ちゃんと眠れていますように。たった五分程度の通話時間が示されている通話履歴の画面を見つめて、棘が独り言を口にした。
「おやすみ」


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