6:旋回

 教室にいても校舎内を歩いても校舎を出ても寮まで歩いても任務へ向かう道中も寮の部屋でも、先輩の気配を探す。痕跡を探す。触れた肌の温度を忘れないように時折拳を握ってみるのに、もう忘れてしまいそうだ。
 あの夜のことを謝罪するべきだと思いながらも、どこかで謝罪したくない気持ちが頭をもたげる。自分はこんな人間だっただろうか。──先輩が散々好きにかき混ぜたせいで、何かが書き換わってしまったのか。

* * *

「……オイ棘」
 憂太とパンダがいない放課後、鍛錬の途中、Tシャツの裾を引っ張って額の汗を拭っていた自分に、今の今まで散々取っ組みあってギラギラしていた真希がそっと近寄ってきて名前を呼ぶ。息を切らせたまま声のした方を見る。真希は一点を見つめている。石畳の固さが足をこれでもかと重くさせる。
「なまえ先輩だ」
「……しゃけ? 」
 ぽろっと口から返事が飛び出す。真希の視線の先を追えば、そこには確かに先輩がいる。視界に入るか声をかけられるかのどちらかしか今のところ存在を確認できないその人が、こっちに向かって歩いてくる。その制服の裾が軽やかに揺れている。額からじわりと滲んだ汗を乱暴に手の甲で拭った。
「なまえ先輩! 」
 真希が名前を呼ぶのと同時、先輩は自分たち二人を視界に収めるなり、いつも通りに笑って手を振った。急ぐでもないのんびりとした動作で、その黒いブーツのつま先が石畳に踏みしめる。
「頑張ってるね〜」
「まあ、私は呪力がないんで……棘に付き合ってもらってます」
 放り投げるような言い方で答えた真希にも、先輩は嫌な顔ひとつせずに、気を使うような素振りもせずに言う。
「真希ちゃんにしかできないことがたくさんある」
 そのなんでもないふうな口ぶりに、自分の隣に立つ真希が唇を結んだのがわかった。こうやって、先輩はたぶん色んな人を知らずに励ましている。言葉で、何気なく、それは自分にはできない。さっきの真希だって、「棘に付き合ってもらってる」と、わざわざ自分を持ち上げてくれるような言い方をした。自分が何気なく伝えることの出来ないニュアンスを手繰って、喉が嫌に狭くなる。
「あれ、なまえ先輩」
 先輩の後ろから憂太がコンビニの袋を二つぶら下げて歩いてくる。袋がガサガサと騒がしい。任務からの帰りにコンビニに寄って、今夜寮で食べ飲みするお菓子や飲み物を買ってくると言っていたその袋は、重量のある形と音で、憂太はビニール袋を持ち直しながら小走りになった。
「お疲れ様〜。パシリ? 」
「違いますよ」
 先輩はやっぱり変わらない笑顔で憂太を見ている。
「……じゃあ私そろそろ行こっかな。邪魔してごめんね」
 あっさりと自分たちとすれ違うように校舎の方へ足を進める先輩に、憂太が自分たち二人の元までたどり着いて言う。
「先輩、今日は好きって言ってくれなかったね」
 聞くが早いか、自分の足が驚くスピードで先輩の背中を追うために駆け出した。鍛錬のお陰で身体能力は向上の一途、ただし鍛錬の途中のせいで体力は目減りしている。真希と散々取っ組みあったせいだ。自分のことを一度も見なかった先輩は、"いつも通り" ではなかった。昇降口で上靴に履き替えた先輩の手首を掴む頃、自分の額からは汗がぼとぼと落ちていた。

『なんですぐ行っちゃうんですか』
 先輩は上靴で、自分は靴を履き替える余裕もなく、そのままズカズカと校内に入り、人の気配のない隅まで先輩の手首を引っ張った。されるがままにもたつく足でついてくる先輩からは、感情が読み取れなかった。それが自分を不安にさせた。
「………うかつだったと、ちょっと反省してるとこ」
 校舎一階の隅、窓から夕陽が射し込んでいる。言われる前に、口元を隠す襟のファスナーはさっさと下ろした。先輩の眼差しが自分の唇に注がれたまま、先輩がゆっくりと瞬きする。
『何がうかつだった 』
 自分の唇を読み取るなり、先輩はすぐに視線を外した。
「言いたくないな」
 自分のよく知るいつも通りの表情で笑う先輩は、とても反省しているようには見えない。山の中にある高専の校舎の隅、窓の外に続く高専の建造物を見つめながら、先輩が窓から入り込んだ風にそよいだ髪を押さえる。ごく自然に唇を開いてみたものの、先輩が自分に視線を戻す様子はない。
『好きだのなんだの言い続けてたこと』
 確信を持って滑らかにスマホで打ち込んだ文章を、先輩の顔面に向けた。先輩は容赦ない夕陽から遮るように手のひらで傘を作り、画面の文字列を目で追った。読み終わったなとわかったのは、先輩の口元がゆるい弧を描いたからだ。
「……違うよ」
 窓枠に両手をついてほうっと息を吐いた先輩が、ゆっくりと自分へと体を向けた。その眼差しも、自分の中のどこを探しても心当たりがない。
「狗巻くんが、嫌がって逃げてくれたらよかったのに」
 これでもかというほど悔恨を滲ませた声が、やわく滑らかに風にさらわれた。
「狗巻くん、誤解してるでしょ」
 先輩が自分と目を合わせたあと、ため息混じりに口にする。何を問われているのかわからず、首を傾げて続きを促す。先輩はその唇を一度かすかに開き、また結んでから窓の外へと視線を戻した。
「私、ただの後輩とはしないこと、狗巻くんとしたよ」
 ここ数日降ったり止んだりを繰り返していた雨を含んだ木々と土が、むせ返るような生ぬるい空気と湿った香りを辺り一面に広げ続ける。左隣に立つ先輩の、黒い制服。自分と同じ素材のそれが、異質なもののように見える。すぐ近くにいるのに触れられないもの。触れようと思えば触れられるもの。ずっと、触れたかったもの。触れたもの。
 左手で、勇気を振り絞って先輩の上着の裾を引っ張った。
「いぬ、」
 ようやくきちんと自分に顔を向けた先輩の唇を自分の唇で塞いで、そのいつもつやつやしていた唇を舐める。味はしなかった。
『言って』
「いっ、て、? 何を」
 離れた唇を、先輩のその指先が何かを確かめるようになぞるのを見る。湿り気を帯びた空気がどんどんと首筋から体温を奪っていく。
『いつもの言って』
 ようやく伝えられた、声にならない、声にできない声は、正しく先輩に届く。
「……好きよ」
 先輩の指先に触れる。
「かわいい」
 触れた指先に、自分の指先を絡ませる。
「愛しい、狗巻くん? 」
 指先をたぐって、手を握る。「なまえ」と、そんなふうに好きな人の名前すら呼べない自分をどうか許してほしい。"この感情の息の根を止めてくれ" 喉元までせり上がってきた最後の悪態をどうにか飲み込んだ。思わず俯いた。鼻筋を通って、水滴が落ちた。先輩が自分の手を握り返した。
「なんだか突然、言うのが恥ずかしくなっちゃったんだけど………これからも言っていいのかな」
 先輩の肩口に額をくっつけて頷く。耳をくすぐったのは自分の髪か先輩の髪か。自分が頷いたのを理解した先輩が、耳元で「うん」とだけ、小さく言った。

 山の中のわざとらしく古びた街並みの中の寮の自室で、スマホを握って窓の外を一度見上げた。いつでも先輩の侵入を許してしまう窓だ。
『まずは手を繋ぐところからはじめてみませんか』
 思ったよりもスムーズに打ち込んで、指先は震えずに送信ボタンに触れた。順番は絶対に違うと確信できるものの、やっぱり今送ったメッセージが、自分の端的な先輩への気持ちを伝えるのには最適解なんだと思う。すぐに既読マークがつく。そうして初めて、先輩からのメッセージが返ってきた。
『うん』
 ベッドの上で、思わず小さいガッツポーズをする。まだ捨て損ねたままのゴミ箱を視界に入れる。明日こそ、ゴミを捨てよう。



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