3:混迷

 背後から声が聞こえて、弾かれたように振り向いた。聞きたかった声、聞きたくなかった声。待ち望んでいたとは認めたくない心臓がしくしく痛むものだから、思わず制服の胸の辺りを強く握った。

* * *

 先輩の任務は思ったより時間がかかっていたらしい。"らしい"と言うのはつまり、自分は先輩の状況を正確に把握できる立場ではないことを指す。五条先生にさりげなく聞いたところによれば、先輩は予定よりちょっと長引いた任務と、想定より深手を負った体と、それでもせっかくだから観光のひとつくらいして帰りたいという驚くべき欲求のために戻りが遅くなるという。「元々任務に合わせてプラス一日オフにしてくれって言ってたしね、自由すぎてやんなっちゃう」と、先生は特段 "嫌になっちゃう" ような顔をせずに言った。

 昼下がり、ついさっき自分たちを招集して「頼むね」と任務を指示した五条先生に従って、銘々集合時間までに支度をすべく校舎を出る。昇降口へと向かうべく階段へ向かうその爪先が、二つの人影を捉えた。
 視線の先にはカバン一つを肩にかけたなまえ先輩がいる。一人ではなく、五条先生と何かを楽しげに話している。途端に "嘘つき" と脳内にそれだけが浮かんで、振り払えなくなった。目頭の辺りが熱くなって痛む。女々しいことこの上ない。それでも、だって、高専生なら、たぶん手を伸ばしてもいいんじゃないかと、受け入れてくれるんじゃないかと、そう思った。勝手に期待した。受け入れて、笑って、そばにいて。今まで願えなかったこと全部、叶えてくれよ。色々なものが溢れだしてしまいそうな口元を必死に引き結ぶ。
「あ、」
 廊下の先から階段の前の自分に向けて、先輩がようやく自分に気づいて手を振る。食いしばった歯が痛い。喉が潰れたように声が出ない。嘘つき、嘘つき。スマホを取り出して、一気に文字を打ち込んだ。
『一番に会いに来るって言いましたよね』
 その文字列が事実として正しいことを確認してから、階段のステップに足をかけた。同時に指先で送信ボタンをタップした。自然と駆ける足に、背後から先輩が自分を呼ぶ声が響く。上靴のゴムが廊下に擦れて、耳に残る嫌な音を立てている。"言ってやりたいこと" は既に先輩の元に届いているだろう。最後の四段を飛び降りて、そのままの勢いで昇降口へと到着した。
 先に待っていた真希とパンダが、怪訝そうに眉根を寄せて、ふと今自分が駆け下りてきた階段の先の方を見上げる素振りをした。

* * *

 任務が終わり家入先生の反転術式による "治療" を終えた体を、半ば引きずるようにして寮へと戻った。汗まみれ泥まみれの体は睡眠を要求しているけど、せめてシャワーくらいは浴びないと後で部屋の掃除が億劫だ。

──コンコン
 シャワーを浴びて、ベッドの上で微睡むその薄暗い部屋の中、高く鈍く響く音に、薄らと瞼を持ち上げる。瞼を持ち上げるというただそれだけの行為に、随分と時間がかかったような気がする。疲れきった体は起き上がることを拒み、けれど頭は何らかの予感に覚醒する。いつだったか、テレビでこういう状態が金縛りの要因だと挙げられていた気がする。
「狗巻くん、あけて」
 カーテンを引いた窓の向こうから聞こえた声は、確かになまえ先輩のものだった。現金な肉体も瞬時に覚醒して、右手がカーテンを掴む。同時に、室内を見渡した。十七歳男子の住まう寮室としては片付いている方だと思う。ゴミは捨て損ねてるけど、ゴミ箱に収まっているだけマシだろう。机の上に飲みかけのペットボトルと空き缶とのど薬のストック、のど薬の空きビンが置きっぱなしだったことに気づいて、カーテンから手を離して缶をビニール袋へ、ペットボトルを簡易冷蔵庫に閉じ込めた。なんの意味もなくのど薬を並べ、空きビンをビンゴミ用の段ボール箱に投げ入れる。ガラガラと耳障りな音が室内に響く。そうした後にようやく、もう一度カーテンを握る。そして、一思いに開け放った。
「突然ごめんね」
 カーテンを引いた窓ガラスの向こう、ベランダとも言えない狭い空間の柵に両足のつま先で体を支えて座っているそのバランスの良さを携えて、先輩がなんでもない顔で小さく手を振る。なるべく静かに窓の鍵を開けて、サッシを滑らせた。
「…………」
「……まだ怒ってる? 」
 怒っていたとして、そう思うのなら少しでも申し訳ない表情ができないものなのか。先輩はするりと猫のようなしなやかさで室内に入り込むと、さっきまで自分が微睡みを愉しんでいたぐちゃぐちゃのベッドの上に腰を下ろした。普段黒いタイツに包まれている足がなんの躊躇いもなく晒されて、その足のつま先がまだ自分の体温が残るだろうシーツを巻き込んでいるせいで目眩がする。
 机の上のノートを一冊、適当なページを広げて、ペンを走らせた。衝動的な行動で、何か考えがあったわけじゃない。自分にとっても、たぶん良い機会だった。
"怒らせたと思ってるなら、何かしてくれるんですか"
 申し訳なさそうな表情のひとつでも、「ごめんね」という謝罪のひとつでもよかった。先輩の、いつもと違う部分が眼前に並べられれば、それでよかった。
「……お詫びのしるしが必要? とは言っても私が狗巻くんにあげられるものなんてないと思うけど」
 あまりにも子供じみたことを言った自覚はある。ちょっとくらい先輩を、いつも軽はずみに自分の感情をかき回すこの人を困らせたいと、ただのそれだけの発言だった。
「エッチでもする? 」
 それがなんで。先輩がまっすぐに自分を見つめて言うものだから、また泣きたい気持ちになる。ちがう。そんなのが欲しかったわけじゃない。そう言ってやりたいのに言えないのは、呪言のせいか、それとも、本当は自分がそれを望んでいるからなのか。先輩の声がいつもより少し甘い響きに聞こえるのは、自分の期待がもたらした幻聴だろうか。

「狗巻くん、目閉じて」
 あの時目の前を掠めた指先が、自分の両頬を包んで支える。自室だと言うのになぜだか落ち着かない心地でベッドの上に座った自分の隣、先輩が膝立ちになって、目と鼻の先で切なそうに唇を開いた。
 テレビや漫画で見たことのあるキスがどんなものなのかを知る。柔らかい舌先が自分の舌に絡みつく度に、背筋がぞくりと震えて、肩がわななく。塞がれた口のせいで逃げ場のない二酸化炭素と、脳髄に直接響く唾液が混ざり合う音に、頭の芯が曖昧に輪郭を失う。
「──はあ、」
 ようやっと離れた先輩の瞳は潤んで、自分と目が合うなりそっとその指先で唇の端を拭ってくれた。
「……、は、」
 自分はといえば、結局キスの間ずっと方法を忘れたように呼吸出来なかったせいで、頭はぼんやりして息が上がっている。その様を見つめながら、先輩が笑う。
「かわいい。狗巻くん」
「……っ?! 」
 肩が跳ねたのと腰が逃げるようにベッドのスプリングに沈んだのは同時だった。先輩の手が、自分のジャージの、今どうしようもなくなっている所を優しく撫でた。
「エッチしよって言ったけど、ゴムないからだめね」
 望んでたわけじゃない。望んでるわけじゃない。必死に自分に言い訳を並べても、撫でられる度に痛む。自分で触るのとは全然違う感覚に歯を食いしばって、思わず先輩の肩を両手で押した。
「……やめる? 」
 尚もそこを撫で続けながら先輩が言う。罵倒してやりたいのに、何も言えない。続けろとも言えない。自分が言葉にしてしまったら、まるで自分がそれを望んでるみたいじゃないか。
「っ、う、」
 ジャージの腰から侵入した手が、ひやりと下腹部をなぞり、そしてボクサーパンツの中へとあっけなく侵入した。
「おっきくなってる」
 指先が先端を掠めて撫でる。指先の感覚がぬるりと滑る度、堪えきれずに滲む液体の存在に顔が熱くなる。腰が意思に沿わない動きで、先輩がジャージとパンツを脱がせようとするのを手助けした。
 ぼんやりした視界の中で、屈んだ先輩のそのふっくらとしたつやつやの唇から現れた舌先が、自分のものに絡みついた。

* * *

 夜が明けたことを知ったのは、アラームではなく窓から射し込む陽の光が部屋中を照らしたからだった。昨晩閉め忘れたカーテンと、閉まってはいるけど鍵の空いたままの窓。ぼうっとした朝陽の中で、ぬるま湯の中に揺れるようなとろける頭を必死に巡らせる。

 室内を見渡して、先輩の痕跡が残っていないことに驚いた。何もかもが自分が知り尽くしたままの状態でそこにある。細かいホコリを朝陽がぼんやり照らして、キラキラと瞬いている。ああいう行為が終わったあとって、こういうものなのだろうか。
 ベッドに手をついてようやく体を起こした。質が良いとは言えないベッドがぎしりと音を立てる。Tシャツにボクサーパンツだけという格好で毛布にくるまる自分の姿があまりにも滑稽で、唇から乾いた笑いがこぼれた。夜はあんなに暑かったベッドの中が、とことん寒々しい。

 ただでさえ先輩のことでいっぱいだった頭の中が、もうこれ以上ない程ぎゅうぎゅうになっている。唇から顔をのぞかせた蛇のような舌先と、その舌先が自分のものを這うグロテスク、てらてらする唇を舐めとったその弧を描いた口の端。何もかもが頭の中で大洪水を起こして、そのくせ行き場もなく巡り続ける。
 ふと、室内のゴミ箱に目を向けた。終わったあとに先輩が自分のものを拭ったティッシュ、先輩が自らの口元を拭き取ったティッシュ。その下には、捨て損なってそのままの、先輩の名前を書いたルーズリーフが埋もれているはずだ。「ごめん」の一言すらも置いていかずに出ていった先輩のことが心底恨めしいのに、体ばかりが熱を帯びていく。



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