2:発露

「好き」なんていうたった二文字を口にするだけで自分の感情をぐちゃぐちゃに書き換える力があるなんて言ったら、先輩はどんな反応をするんだろうか。「あなたの "好き" な狗巻棘は、あなたのせいでめちゃくちゃです」そんな風に言えたら、先輩の表情から笑みは消えるのか。

* * *

 結局あの日──校舎の前で二人きりになったあの日、二人とも寮なんだから一緒に寮に帰ればいいのに、先輩はあっさりと「じゃあね」と手を振った。行先は同じなのに。自分が引き止める言葉を発せないのをいいことに、先輩は自分の数メートル前を悠々と歩き進めた。ただの一度も振り返らず。そんなことを思い出す度に、胃の奥がむかむかする。自分はなにも先輩に言えないのに、あまりにも卑怯じゃないか。

 授業の後、真希から「今日やり合おうぜ」と誘われた。一旦荷物を置きに寮へ戻ろうとしたその昇降口で、先にブーツを履き終えていたのは常々自分を悶々とさせている先輩だった。その先輩はどうやらこれから、丁度校舎を出る所だったようだ。
「……ねえ、口元見せてよ」
 先輩が自らの唇を指さして言う。意思疎通を図ろうとするただそれだけが目的なんだとわかっているのに、情けなく眉尻を下げて視線を逸らした。それでも抗わずに襟元のファスナーをじりじりと顎下まで下げる。先輩が呪言を使えるなんてことは今の今まで一度も聞いたことがないのに、体はほとんど抵抗をみせなかった。
「……いいねえ。普段見えないものが晒されると、変な気分になる」
 普段人前に晒さないせいで、目の前の昇降口から入り込む風が皮膚を撫でる度に、違和感も相まってそわそわと落ち着かない気分になる。先輩の視線が注がれる自分の口元は、情けない形をしてはいないだろうか。声を出さずに唇の形だけで、先輩に向かって口を開く。
『おっさん』
「失礼な。それにしてもきれいな唇ね。隠してるのがもったいなく感じちゃう」
 他意はない。あるはずがない。そんなことは既に知っているのに、心臓が騒がしくなる。「黙れ」と、そう口に出してしまいたい。でもそんなことをしたらもう二度と先輩が自分を呼ばなくなる。自分を「狗巻くん」と呼ぶ声が聞けなくなる。
『……任務』
「に、ん、む、……、うん、任務。これからちょっと埼玉まで」
 先輩から目を逸らして、辺りをぐるりと見回した。周囲にほかの生徒はいない。
『一人』
「うん、一人で。補助監督がいるから二人かな。いちおう」
 首元と顎の辺りがすうすうして、早くいつも通りの襟元に戻したい。戻したいのに、それができない。先輩が、自分の口元をじっと見つめている。
『……先輩』
「あ、そろそろ出なきゃ。引き止めてごめんね、愛しい狗巻くん」
 まただ。また、こうやって自分の中に無遠慮に両腕を突っ込んでかき混ぜるようなことを言う。──思わず、大股に踏み出して先輩の手首を掴んだ。思っていたよりずっと細くて、ちょっとだけびっくりした。
「なあに? 淋しい? 」
 ニコニコしながら首を傾げる先輩の黒い制服の裾が揺れる。黒いブーツのつま先が汚れている。年上ぶるな、自分とおんなじ準一級のくせに。ぐちゃぐちゃのまま、心の中でそんなことを吐き捨てた。そしてすぐに後悔する。
「…………」
「帰ってきたら一番に狗巻くんに会いに来るね」
 優しく解かれたその指先も細くて、自分の手とのコントラストに目眩がした。手首を離した手で、ファスナーを一気に一番上まで引き上げる。乱暴に引き上げると時々顎の皮膚を噛んで激痛をもたらすけど、今日はそんなことがなくて安心した。

* * *

 好きなところはたくさんある。口数の少ない自分に話しかけてくれるところ。何があっても何もなくてもただいつも通りに笑ってくれるところ。おにぎりの具で意思疎通が取れないからと読唇を試みてくれるところ。そしてその読唇術の正答率が日に日に上がって今ではもう普通に会話ができるところ。それから、思ってたより細い手首、体温の高そうな指。自分のとは違うつやつやの柔らかそうな唇。
「つーかさあ、棘 "気になってる" ってとこまでは白状したけど、いつの間に好きだって自覚したんだよ」
「真希は情緒が足りないな」
「ンだと? 」
 昇降口で先輩を見送ったあと、一人とぼとぼと教室に戻った。一人で寮に戻りたくなくて、これから訓練だと息巻いていたパンダと真希の元へと、自然と足が早くなった。
「そんで? 棘はまた今日ものこのこ逃げてきたのか? 」
「おかか! ……すじこ明太子…、」
「へえ、棘にしては頑張ったんだ。あ〜でも棘に手掴まれてもなんともない顔してるなまえ先輩の顔が目に浮かぶ」
「ツナ……………」
 制限がありながらも当たり前に会話ができること、それ自体が当たり前ではない。二人が厳しく優しく自分の話を聞く中に居ながら、それでも脳裏に先輩が過ぎる。当たり前には話が出来ない人。触れられそうなのに触れられない人。自分のことを好きではない人。自分の好きな人。
「……なあ棘」
 いつの間にか俯いていたことに気づいて、パンダの声に顔を上げた。パンダと真希が目配せしながら、瞳を好戦的に、いたずらっぽく瞬かせている。
「なまえ先輩にメッセージ送ってみろよ」
「?! おかっ」
「へいパス」
「よっ、と」
 不意をつかれたその隙に、自分のスマホは呆気なくパンダに奪い取られ、そしてパンダから真希へと放物線を描いて届いた。思わず立ち上がって手を伸ばして、その瞬間に上からパンダにのしかかられる。やめろ、本当に、やめて。
「先輩の連絡先登録するだけだよ。ンな情けねえ顔すんな」
 襟の中で酸欠の金魚のようにパクパクするしかできない自分の上で、パンダが笑って揺さぶられた。
「ほいっと」
 意外にもあっさり投げ返されたスマホを両手で受け止める。画面には確かに「なまえ」の文字が並ぶ。無機質な文字の羅列を思わず指先で撫でたら、図らずもスワイプ操作になって一人で慌てふためいた。
「棘ー、なんか送れよ」
「おかか!」
「あ? 無理じゃねえんだよ。やれ。あるだろ? 言ってやりたいことの一つくらい」
 言ってやりたいことなんて一つじゃ収まらない。収まるわけがない。好奇の眼差しを向けられながら、スマホをポケットに滑り込ませて席を立った。真希がぶっきらぼうに「意気地無し」と自分を責めた。



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