1:鬱屈

 寮の自室で机に向かい、目の前に広げた白いルーズリーフになんとなくペン先を走らせた。黒い線が文字になる。"なまえ" それだけ書いてすぐ、急いで消しゴムで擦った。乱暴に擦ったせいでルーズリーフがぐちゃぐちゃになったから、丸めてゴミ箱に投げ捨てた。その白い紙の塊を見て、なんとなくもどかしくていたたまれない気分になる。まるで── 一人でやった後のゴミを視界に入れた時みたいな、そんな後ろめたい気分だ。

* * *

「おはよーって棘、すげえ顔だな。大丈夫か?」
 パンダの声に一度頷いた。喉が乾いて張りついてうまく声が出ない。パンダが自分の背中をポンポンと叩いてくれる。「無理すんなよ」さすがにそれには返事をしようと顔を上げた瞬間、ものすごいタイミングで背後から声が聞こえた。
「おはよ〜愛しい二年生たち!」
 快活でよく通る声だ。パンダが「おはようございまーす」と返事する。
「そういえばなまえ先輩昨日いましたっけ? 」
「昨日は池袋だったの。行き帰り楽だった〜」
 都内任務だけやってたい、と笑うなまえ先輩が、自分の顔を覗き込むようにしてつやつやの唇を開いた。
「狗巻くん顔色悪くない? 赤いよ」
 心臓に悪い近さで、心底心配な顔をしてくるものだから、思わずぶんぶんと首を横に振る。
「本当に? 大好きな狗巻くんが調子悪そうで先輩心配」
 ほらまた。背負ったリュックのショルダーストラップをぎゅっと握って、襟の中で口を開く。
「………こんぶ」
 先輩は眉を八の字にしたまま首を傾げた。先輩は、自分の語彙をうまく理解できない。学年が違えば会うことも少ないし、ツーマンセルを組むこともないし、意思疎通の必要性もさほど高くない。だけど先輩はその代わりに、自分の口が見えている時だけ限定だけど、唇を読み取ろうとする。「おにぎりの具よりは理解しやすい気がする」と笑った時の先輩の表情は、よく覚えていない。
「棘は寝不足らしいんで」
「無理しないで硝子先生のとこ行きなね」
 自分の前髪を掬いとるように触れた先輩の手入れされた指先が眼前を掠めて、その指先が自分の皮膚に触れる瞬間を想像してまた嫌な気分になった。

* * *

「棘お前いい加減にしろよ」
 口の悪い真希が唇の端を捻って、大層苛立たしげに吐き捨てる。パンダはそれを取りなそうと両手を広げて「まあまあ」と片眉を下げて言う。優しい憂太に助けを求めて視線をやったけど、憂太は穏やかに微笑んだまま小さく両手を上げて降参を決め込んだ。
 教室の中はいつもと同じように少し陰気で、雰囲気だけが明るい。古びた机と椅子が並んで、これまでに幾人もを見送ってきた独特のむせかえる空気に包まれている。
「いつまでウジウジしてんだよ」
「…お、おかか!」
「は? どっから見てもしてんだろ。いいじゃねえか、なまえ先輩だっていつも狗巻くん好きよっつってんじゃん」
「おかか!おかか!」
 精一杯の抗議に、真希のみならずパンダと憂太も「うわあ」とでも言いたげな嫌な表情を浮かべた。入学してからというもの、先輩は自分たちを可愛がってくれている。でもそれだけだ。三人は知ってか知らずか、自分がうっかり先輩を気にし始めたのを「両思いじゃん」と笑い始めた。ここにいるのはみんな高専二年生だ。漏れず単純なのは仕方ないだろう。「好きよ」を浴びせ続けられた自分は、気になり始めてからようやくそれが実のない──挨拶がわりの言葉だったことを知ってしまった。思わず机に突っ伏して、「おかか」とだけ言うのが精一杯だ。

 全部ぜんぶ先輩のせいだ。高専に入って、入る前からもうずっと、恋とか愛とかとはちゃんと距離をとってきた。呪術師──自分は呪言師だけど、そういう人間である以上、誰か特定の人に好意を向けるなんてマネは許されていないと、ましてやそれが叶うなんてことはないと、当たり前のように思っていた。今も思ってるのに、理性と衝動がどんどんと驚くべきスピードで乖離していく。自分のことなのに思い通りにならず、感情を持て余し続けている。実のない「好きよ」を浴びせ続けられた自分が、自分の意図しない感情の発芽を迎えて早二ヶ月。自分がようやく先輩の「好きよ」に対して「ツナマヨ」と、たっぷりの沈黙を挟んで返事した時、先輩はいつもと同じ顔で笑った。そして「狗巻くんはいつもかわいい。好きよ」と、いつもと同じことを言った。その瞬間に理解したのだ。この人は、そういう意味で──自分が期待しているような意味で、「好きよ」と笑ってくれていたわけではないことを。こっちは、情緒は立派な十七歳なんだよ。実のない「好き」を真に受けるのも仕方ないだろ。そんなふうに、いつも唇の中で文句を言う。
「まあでも、棘にしちゃ頑張ったんだよなァ」
 突っ伏したままの体勢で、目だけでパンダを見上げる。パンダはパンダでぽつりと続ける。
「なまえ先輩、棘によく絡む割に手を引くのも早い」
「絡むって言うなら、先輩は僕たちにもしょっちゅう好きって言ってくれるしね」
 渾身の追い打ちをかけてくる憂太に、のどの辺りが苦しくなった。呪言なんて使ってないのにヒリヒリと痛む。寝不足も相まって頭も痛くなってきた。ぎゅっと目を瞑る。瞑ったまぶたの裏にだって呆気なく先輩が現れる。

* * *

「狗巻くん今帰り? 」
 普段なら背後の気配なんてすぐ気づけるのに、いつも先輩は突然自分に呼びかける。生まれつき先輩が持つ呪力によって、気配のみならず、その存在すらも他者からは曖昧になるのだと言う。土や木々や葉の如く、それくらいのレベルに。誰かからふと聞いただけの、そんな薄らとした情報しか持たない。それでも、不確定ながらそんなことは知っているのに、自分はいつまで経っても先輩の気配にだけは気づけたらと祈ってしまう。
「……しゃけ」
 丁度校舎を出たところで、足を止めて後ろを振り向く。先輩はいつもと同じ顔で笑う。その目を直視出来なくて、視線を足元にやった。汚れたつま先で砂利を小さく蹴った。
「しゃけは肯定──でいいんだっけ? 今日は案件ないの? 」
「しゃけ」
「ほかの子は? 」
「高菜しゃけすじこ」
「んー? ……やっぱわかんないな」
 憂太はもうとっくに寮に戻った。パンダと真希は二人で任務。普通好きな人と学校終わりに二人だけになったら、多少はドキドキすると思う。それなのに、自分は恐怖に慄いている。
「こ、こんぶ」
「んー、狗巻くんはかわいいねえ。好きよ。かわいくてかっこいい」
 いつもいつも自分を泣きたい気持ちにさせるなまえ先輩。「好き」そのたった二文字で、先輩はずっと自分に呪いをかけ続けている。それなのに「もうやめろ」と告げられない。告げるならばきっと「自分のことをちゃんと好きになってほしい」という、無様な願いになってしまう。



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