三:濃淡

 
 知らないふり、見ないふり、忘れたふり。それらはたぶん、大人になったからこそ何食わぬ顔をして行使できる武器だと思う。──武器であると同時に、それらは防具でもある。それも、とっておきの。
 心の隅っこに無理やり押し込めた感情は、いつか溢れかえって、育んできてきた他の感情すらも飲み込んでしまうだろうか。

 レオが言う。「来月末ってなんか予定ある?」
 私は何の話なのか察しがつく。「大丈夫。一泊二日でいい?」
 レオが一瞬小さく目を見開いて、それから柔らかく微笑む。ああ、──間違ってなかった。

 あれから──瀬名先輩がレオに暴露してしまってからというもの、凛月くんの訪問を最後に、Knightsのメンバーからは一切連絡が来なくなった。あれだけレオの様子だとか雑談だとかを送ってきていた嵐も、Knightsを想いながら私のことを心配してくれた司くんも。けれど私から連絡するような話題もない。どの面下げて連絡をすればいいのかわからない。学院時代、Knightsの結束の前にどうすることもできず、ほんの少し距離を置いて曖昧に笑っていた頃を思い出す。
「なあ、おれの充電ケーブルこっちにないか?」
 唐突に部屋の扉の方から声がかかった。瞬間的に喉が閉じて、息が止まって肩が震えた。いま振り返ったら、何かを感じ取られてしまうんじゃないか。細く息を吐いてから、「探してみる」とだけ言った。既に、ベッドのヘッドボードが面している壁から伸びる、私のものではないスマートフォンのケーブルが視界に入っているにもかかわらず。
「わかった。ありがとな」
 扉が小さく音を立てて閉じられた。心臓がうるさい。頭の中を整理したいのに、それが出来ない。たぶん、する権利がないのだと思う。

 部屋の中、クローゼットの中にあったはずのそれが消えていた。疑問に思いながらベッドの下も見てみたけれど一向に見つからない、あの旅行カバンの行き先なんて、きっと考えるまでもなくわかること。

***

 知らないふり、見ないふり、忘れたふりをしながらも、それでも時々ふっと胸をよぎる黒いもやのような気分はなんだろう。妻が、──意図して殊更 "妻" と強調している彼女が、何かに耐える眼差しを浮かべながら見つめるものは、一体なんなんだろう。

 半透明のゴミ袋を部屋の隅に乱暴に投げた深夜を想う。とっくに妻が寝入っている時間のことだ。
 妻が仕事に出ている間に、彼女のクローゼットから旅行カバンを回収した。妻の私物で、おれも借りることがあって、そして、セナと使うためのコンドームが潜んでいたあの旅行カバンだ。折しも丁度ゴミ袋のストックがなかったから、日中おれは "良い夫" の顔をしてスーパーに行き、食材や飲料と一緒にゴミ袋を買って帰ってきた。妻が寝静まった深夜、部屋でゴミ袋の一枚に旅行カバンを詰め込んだ。袋の開き口をきつくきつく縛って、カバンの形に歪になったビニールを見て、おれは確かに満ち足りた気分になった。──完全犯罪を遂げようとしているまさにその気分だ。あとはこれを捨ててしまうだけ。

 妻が仕事に出かけ一人になった自宅内の部屋の中で、ベッドに腰掛けて横目にゴミ袋を捉えつつ、膝の上に広げた旅行ガイドブックの一ページを指で辿る。指先が行き着いた先の電話番号に電話をかける。ふと、昨晩「来月末予定があるか?」とだけ訊ねたおれに返ってきた、「一泊二日でいい?」という返事を思い出す。思い出して、心がすこしだけ穏やかになった。ほら、だいじょうぶだ。





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